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小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 47 原本
陸奥国内においてようやく民生が小康を得出したのは、現地の生産活動がほぼ停止する季節に入ってからであった。
それまで何とか生き抜いて来た人々の心に空虚感が忍び入り、この期(ご)に及んで息絶える者が如実に増えた。
それから春先、木々の芽が萌(めぐ)み始める頃にかけての食料は、誰が考えても不足の一途と思われた。
国衙、郡衙の穀倉にもう“余分な”物はなかった。
況して、そこに足されるべき新年度の穀物は、微増を演出する程度の納められ具合であった。
民の間でも、他人に融通出来るような物を保持し得る者は、数える程度ではなかったか。
彼らが全て篤志を備える者達であるとしてさえ、結局のところ、その保有分は、まるで“焼石に水に当たる”と思われた。
大体、雪の降る季節になっては、その移動はほぼ無理であった。
そのようなことから、内陸部より先鞭(せんべん)がつけられるようにして、飢餓の報が各地から国府にもたらされ出した。
年が明けて、そして、長い長い雪の深い時期が終わりを見る頃、すなわち、雪融けの時分、各内陸地における飢餓の実態の報が続々と再び国府に上がり始めた。
それによれば、人口が半減したと思われる箇所がザラに見受けられる中で、「一村壊滅」に当たる地域はせいぜい二、三であって、これは、国府における当初の試算を下回っていた。
後になって、このような不思議な数字が国府において話題となった。
それは、地震、津波、そして、冬の飢餓が一時(いちどき)に襲った時期以前に出生したであろう人口の内、当時一歳から大体四、五歳であった者の数が異常に少ないのであった。内陸部において。
「雪融けの季節、特に川に近づいてはならぬ」と、陸奥介の邸の子供達は大人からきつく言い含められていたのであるが、つい上の三人は、川辺まで遊びがてら出てしまった。
そして、引き返そうとした刹那、刀自の娘が川の方を見ながら、
「あれは何。」
と叫んだ。
すると、あとの二人も川の方に目を遣った。
それは、上流から下流へと流れ行く大変に汚ならしそうなボロ切れと思われるものが、大きいの一つ、小さいの一つで、付かず離れずしながら、浮かんでは沈みしているものであった。
それらは、よくよく見れば、どちらも同じ柄であった。
三人は暫くの間、それらが下流へと流れ去って行くのを、黙って眺め見ていた。
その川の上流は、まさに陸奥国の最深部に源を発しているのであった。
陸奥介は、雪道が何とか食料の運搬をまま許すようになった頃、国府で蓄財されてあった砂金で、余分な穀物をはっきり言って蔵匿(ぞうとく)していた幾つかの長者から買い付けた。そして、例により、鎮守府の兵卒を用いて、その全てを、国内で最も飢餓に喘(あえ)いでいた地域、すなわち、内陸部の諸地域を重点化しながら、国内の各地に行き渡らせた。
この企てに際して、各長者が暴利を貪ったであろうことは、推して知るべし。
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