さみしいきもちに、応えられない
私は、地元から離れた大学へ進学し、その土地で就職をしました。
地元で働くって、当時の私にとってはなんとなく「違う」と思っていて。
産まれて、育って、大人になって、
そのまま地元で社会の一部になるのは、
私にとっては何か「違う」と思っていました。
多分、そのときの私はやる気に満ちあふれていて、好奇心もいっぱいで、「もっと広い世界をみたい!」と、自分自身がどうなっていくかわからないこの先の"未来"へ、希望と期待を夢みていたのだと思います。
そしてがむしゃらに、ひたすらに、働き続けて5年が過ぎた頃。
流行病で世界中が大混乱になり、封鎖され、どうなるかわからなくてもわくわくしていた"未来"への希望も期待も、なんにもみえなくなってしまいました。
私はいわゆるソーシャルワーカーで、当時も変わらず働く日々だったのですが、いつどうなるかわからない不安を常に抱えながら、
「しんどくなったら言ってね!」
「頑張ろうね!」
と、仲間と助け合い励まし合いながら、職場と家とを往復するだけの日々を過ごしていました。
ただでさえ、職場で何かあればすぐに駆けつけなければいけなかった立場上、あちこち行って流行病にかかってまわりに迷惑をかけてしまったら…と考えるとゾッとして、休みの日も家にこもっていました。
(休みの日でも、職場から連絡くるからね☆)
きっとこの頃から、私の心は少しずつすり減ってきていたのでしょう。
ひとり暮らしの真っ暗な家に帰ってきて、ふう…とひと息ついたあと込み上げてくるのは、どうにも表現し難いさみしさでした。
友達に会いたい。
リモート飲み(一時流行りましたね〜)じゃなくて、LINEのやりとりじゃなくて、直接会って喋りたい。
地元に帰りたい。
母の作るからあげが食べたい。
父とくだらない話で笑い合って、弟とアニメや漫画の話をひたすらしたい。
あれ、そういえばアニメ見なくなっちゃったな。
だいすきなアーティストのライブに行きたい。
あれ、そういえばいつからか音楽を聴かなくなっちゃったな。新曲、出たのかな。
いつ鳴るだろうかとドキドキしながら携帯を肌身離さず過ごす休みじゃなくて、なんにも考えないでいいよと許される休みを過ごしたい。
よし、寝ようと思って布団に入るとこんなことばかり考えてしまって眠れなくなり、不安と焦りでいっぱいになりました。
どんどん、自分が「無」になっていきました。
職場の人たちとも、あの時期は「(実家の)家族に会いたいね〜」「さみしいよね〜」とよく話題になりました。
でも、職場の人たちは 家に帰れば"誰か"がいます。
家族やパートナーや恋人と、一緒に暮らしているじゃない。会える距離に、気を遣わずに「会おうよ」と言える人がいるじゃない。
私の感じているさみしさと、あなたたちが感じているさみしさは、違うの。
私には、"誰も"いない。
手を伸ばせば触れられる、"安心"がない。
1日中 声を発さない日があるし、そんなときは自分の存在意義がわからなくなる。
確かめる相手もいない。
私のさみしいは、誰にもわからない。
そんな真っ黒な気持ちを、愛想笑いの仮面で隠して自分の中の奥深くに押し込めて、みえないふりをしました。
世界中の混乱が落ち着いて、行動制限がなくなった今でも、気を抜けばぶわあっと勢いよく私に覆い被さってくるであろう真っ黒なこの気持ちは、奥深くに潜んでいるままです。
実際に、本当に真っ黒でどうしようもできないさみしさを、まわりの人に話しても解決しないことはわかっています。
ドラマの登場人物のように、どんなに台詞に感情をのせて表情を歪ませて伝えたとしても、相手にはわかってもらえないでしょう。
きっと答えなんてないし、私も答えを探しているわけではありません。
だから、話しても仕方ないのです。
当事者である私のさみしさを伝えて、その真っ黒なものを相手が纏ってしまえば、ちがうかたちでさみしさが伝染ってしまうかもしれない。
それは私の望むことではない。
さみしいのは、私だけでいい。
だから私は、私のさみしさに応えられない。