見出し画像

自分を受け入れる ジェニーン・ロス『食べ過ぎることの意味』(1984 書籍) ②

本書については、ジェニーン・ロスが述べていることについての感想・考察と、それに関連した私自身の個人的な体験を分けて投稿します。
今回は、私自身の体験です。
なお、過食症についての基本知識は省略します。

監訳者の精神科医・斉藤学による前書きは、本文からの以下の引用で始まる。
「過食とは自分がいたわられていないと感じたときに、何とかして自分自身をいたわろうとする切羽つまった試み」
斎藤氏はアルコールやギャンブルなどへの依存も上記の点では同様とし、依存者は「他者からの受容や抱擁を求め、他者(特に母)の承認を求めている」とする。さらに、「この承認はときに「愛」と呼ばれ、だから嗜癖は「愛についての病」である」と述べる。

私自身の過食症について、最近、振り返ってみる気持ちになった。それで、久しぶりにこの本を手に取った。

私の過食の経過

私が過食嘔吐をするようになったのは、中学生の頃だ。標準的な体型だったけれど、自分では太っていると思っていて、食事制限をした。体重は減ったものの、食べることに執着するようになった。それが過食嘔吐のはじまりだった。
ある時点で家族も気付き、精神科に通ったこともあった。効果はあまりなかった。
いつだったか、私が吐いているところに遭遇した母が、「醜い」と言った。たしかにそのとおり。醜い。だけど、それは言わないでおいてほしかった。
過食が一番ひどかったのは、大学に入って一人暮らしをしていた時期だと思う。多くの時間とエネルギーを費やした。思い出すと暗くなるから、この数年はそのことを忘れていた。

大学3年の時に妊娠した。
妊娠中は相変わらず過食していた。お腹が大きくなっても吐いていた。
体重が増えるのが嫌で、予定日が近くなっても、私の体重増加は5kg程度だった。
でも、産後は赤ん坊の世話で手一杯で、自分のことにかまけていられなくなった。過食しなくなった。
産後、体重が過去最低を更新していたことも理由だと思う。その頃の私は鎖骨が浮いて、あごはとがって、まだ21才なのにやつれていた。にも関わらず、その外見に自分では満足していた。やせているから。
就職してからは、徐々に体重が増えた。そして、ストレスが高まると過食していた。夫や子どもが同じ家にいても、外出先でも、いつでもどこでも、過食嘔吐はできてしまう。やらずにはいられないからだ。それほど切迫した欲求だ。今となっては、私自身、少し驚く。でも、依存とはそういうこと、そういう心の状態なのだと思う。

とは言え、出産以降、過食の頻度はそれほど多くなかったし、習慣的ではなかった。そのあたりから、過食症が現在進行形の問題ではなくなった。常に私につきまとう影ではなくなった。
だが、消えたわけではない。依存症はどれもそうだが、「完治」はない。今、していないだけ。スイッチがオフになっているだけ。実際、一番最近過食をしたのは、ほんの数ヶ月前だ。

次々に食べ続けている間、自我と現実のすべてを忘れることができる。医学的に説明されているとおり、脳内でドーパミンなどの物質が分泌されているに違いない。そうとしか思えない、異次元の快感がある。
同時に強い嫌悪感もある。手当たり次第に貪り食っている自分に、心の底から嫌気がさす。
快感と自己嫌悪の板挟みになる時、私は自分に対して甘くなる。なにも考えていない。なにも見ていない。なにも感じない。これが、ロスの言う「いたわり」なのだと思う。
その酩酊状態が恋しくなることは今もある。ただ、食べたとしても、吐かないことは心がけている。吐けば、また食べて、繰り返す。

どうして過食から解放されたのか

なぜ、この10年ほど、過食から徐々に遠ざかって来れたのだろう。特にこの2、3年は頻度が落ちている。

ジェニーン・ロスの本を読んで、「食べること」に関する考えや行動を変えたことは大きい。
今は、「空腹のときに、食べたいものを満足するまで」口にするようにしている。(いつも好きなように食べている人には、それがどれほど難しいことか見当もつかないと思う。空腹を満たすというだけのことが。)
まず、自分が食べ物を欲しているかどうか、その都度きちんと見極める。昼12時になったからといって、昼食をとる義務はない。腹が減っていることをはっきりと感じたら食べる。目の前にあるものが、その時、その場所でしか食べられないとしても、自分が空腹でなければ食べない。
それから、食べるべきもの(体に良い食品、ローカロリー食品など)ではなく、食べたいものを食べる。料理中に味見しない。座って食べる。
運動は義務化しない。罰としての摂生はしない。
自分は食べることを許されている、と感じること。
その結果として、体重が増加するのが本当に怖かったが、不思議と体重は減った。以前は、我慢することで、かえって欲求が刺激されて食べすぎていたのだろう。

そして、ロスが繰り返し述べていることだが、過食を通じて自分が「表現しようとしていることは何か」、また、「隠しておこうとしていることは何か」を見極めていく、背後にある問題に向き合っていくことが最も重要だと思う。
私の場合は、「自分を理解してくれる誰かを求める気持ち」と、「その誰かを得られないことを恐れる気持ち」だった。一言で言えば、孤独感だ。
最近では、この見極めていく態度を、食べることに限らず、自分が囚われている考えへの対処法にも応用している。たとえば、なにかに対して繰り返し腹が立つとき、その怒りの背後にある感情に目を向けてみる。すると、具体的な不安要素に気づき、それについて冷静に判断することで、怒りが消えていく。

過食を減らせた理由は、ロスの本だけではない。
私は、自分をいたわる別の手段を見つけた。
(1)書くこと。noteも含めて
(2)美容とファッション。自分が持っている時間とエネルギーとお金のうち、結構な部分を注ぎ込んでいる。今気づいたが、この熱意は、かつて過食に費やしていたものに近い。SNSなどで情報収集している時の没頭感は、食べている時のそれに似ていなくもない。
だが、過食嘔吐では身体が醜くなる(顔がむくみ、肌は荒れ、手にタコができる。挙句、太らないけど痩せもしない)のに対し、こちらは美しくなる行為だ。自己肯定感が上がる。
美容が過食の代替行為にならないようにするには、「これは悪いことだ」と思わないことだと思う。どんなことであれ、「とても気持ちいいけれど、いけないことをしている」という感覚があれば、依存を引き起こすと感じる。
「悪い」と考える理由としては、例えば美容であれば、「美人でもないくせに」とか、「時間とお金の無駄」とかいう周囲や自分自身の声だろうか。それに対して、「私には価値があるから、きれいになっていい。私は自分が美しくなることが好き」とはっきり言えることが必要だろう。
美容は手をかけるときりがない。深みにはまれば過食と同じだ。「していい」と考えれば、罪悪感のスパイラルに陥らずに済み、その結果、過剰にのめり込むことを防げると思う。
(3)ヨガ。書くことが内面の平穏に貢献し、美容・ファッションが自分の外見に対する信頼を養うなら、ヨガはそれらを同時に行うものだ。もちろん、深めていけば、より哲学的な世界があるのだと思うが、今の私が求めているものはそういうもの。

自分を受け入れる

そんなことを通じて、この頃は、自分を受容できるようになりつつある。抱擁は、結局、誰かが与えてくれるものではないと、ようやくわかってきた。

ところで、夫と子供がいることは、私にとって大きなことだが、自分へのいたわりにはならない。家族は、いたわる対象だから。
特に、子どもに対してはそうだ。育児は受容することだと私は思う。子供という存在を受け入れること。子供だって親を受け入れるけれど、親のそれのほうが大きい。受容を子供に対して期待するべきではない。だから、家族の存在は自分へのいたわりには本質的にならない。

ジェニーン・ロスの本の内容についての感想・考察は、こちら↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?