他人にイライラすることがなくなった。
最近はありがたいことに、年齢性別問わず色々な人とお話させてもらえる機会がある。
類は友を呼ぶということわざがあるように、近い人もしくは合う人とばかり話していたわたしにとってはとても刺激的な日常だ。
脳汁がドバドバあふれ出している感じがする。
色んな人に出会えば、自分とは正反対の価値観の人もいる。
繋がりが広がり、今まで避けてきていたような人たちと話す機会を得ることができた。
そこで、わたしは改めて気づいた。
自分は感情で生きる人間なのだということを。
色々なコミュニティで会話をするなかでも特に気になったのは「世代の違う女性たち」のコミュニティでの会話だ。
詳細は省くが、そこでの話題は「感情で動くか?論理的根拠に基づいて動くか?」というものだった。
わたしは、100%といってもいいほど感情で動く人間である。
だから、強い思いがある人や感情で物事を語る人が周りには多い。
しかし、そのコミュニティには、感情なんてどうでもいい。とにかく正論が言いたい。という意見があった。彼女によると、正論というのは過去の経験やデータから確実な数字を出してくることらしい。
それがないと納得しないらしい。正論という言葉に納得し、自論を展開する人も現れた。
そんな意見を聞いて、そういう人もいるんだなと思えたのは新たな発見で面白かった。だけど、わたしは全く理解できなかった。
なぜなら、数値はあくまで目安のひとつにしか考えていないからだ。
いや、自分が大多数の平均のなかに含まれていないのも大きな要因だと考えられる。
とにかく普通とか数値といった枠に当てはまらない(当てはまりたくない)わたしにとって、数値やデータという根拠で何かを語るというのは愚策なのである。
加えて、ひとりが論理型であることを主張したとき、別の女性は、相手が一方的に意見を言ってくるとき「イライラして正論をぶつけたくなる」と主張した。
そこでわたしはまた違和感を覚える。正論ってなんだっけ?ということに。
1人目に出てきた女性の中での正論は、過去の経験やデータから確実な数字を出してくることでその人の意見として理解したが、自分の中での正論はあるのだろうか?と、会話が進んでいく中でわたしだけ時が止まったかのように「わたしにとっての正論とは何か」ということについて考え込んでしまった。
正論とは、辞書で調べると「道理にかなった正しい意見や議論。」のことを指すそうだ。
これを踏まえ、さらに自問を進めたのだが、分かったこととしてはそもそもわたしの中に「正論」という概念がなかったということだ。
正論に近い意味で自分が解釈している言葉は「自論」である。
正論=自論。つまり、みんな自分の中に自分だけの正解を持っているよね。というふうに考えている。
ディベート大会でいうと、ひとつの議題に対してメリットで語る人とデメリットを展開する人が現れる。この大会では、いかに根拠を持ってきて、視聴者を納得させられるのか?と競い合うが、実際はどちらの意見も正しい。
そうでないとディベート大会は成り立たない。
また、就活などで聞かれるあなたのメリットデメリットは?という質問に対しては、同じ個性をいい面と悪い面から論じることが多い。
このふたつの例から、意見や考えをとは"あなたはどの視点から物事を、見ていますか?"という質問の答えでしかないと考える。
つまり、その人が正解だと思うものが正解だということだ。
このように、わたしにはわたしの強い自論があって、相手にも相手の意見や自論があると考えている。
だから、わたしは相手が全く違う意見を持っていれば「なんでそう思うの?わたしの考えの方が正しい!正論で相手を打ち負かしたい」なんてことは思わない。
(いや、なんでそう思うの?は聞きたくなるかもしれない。それは相手を言い負かしたいではなく、自分と相手の思考の違いがどこにあるのかが知りたいという興味から)
相手とわたしの意見は違うのが前提だと思えば、色んな考えに柔軟になれると思った。そして、相手に同じ意見を求めない(=期待しない)ので、他人に対してイライラしていない自分を理解することができた。
こう思えるのも、ひとはみんな同じ人間だと決めつけ他人にイライラして人間関係を幾度となく壊してきた過去があるからだと思う。
何度も失敗して、どうして自分は人と違うのか?自分の抱いた疑問や違和感に忠実に向き合い、ひとは皆違うことを理解できたからこその今だと思えば、過去の失敗も無駄じゃなかったと言える。
こうやって失敗を点とし、線で結びつけることができるようになるまで、考え行動することを辞めない自分でいたいと思った。