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「うちらは長生きしような」長生き願望のないわたしの精一杯の祈り
また身内がひとり、死んだ。19時27分のLINE、業務連絡のような温度のない報告。ネットニュースとともに送られてくる訃報は初めてだった。リンクを踏むと淡々とした見慣れた文体に情報量は皆無に等しい。さっぱりわからない。
そろそろ祖母の死に備えておかなければと母から喪服ショッピングに誘われたのが先月だったか。冬のほうが動物も人もよく死ぬのに、夏物の七分袖ワンピースしかないので早く買わなければと言われていた。
人が死ぬのに、準備をしておかなければいけないのは不謹慎にも思える。自分の大切な祖母が死ぬのに、準備をしておくなんてどうなんだろう。そんな乗り気でない気持ちを抱えて日付未定のタスクとして置いていたら、先に死んだのは半世紀ぶんも若いほうだった。
同年代の死は、また違ったつらさがある。自分と同じようにこの時代を生きてきて、同じ家系で育ってきて、共感できる生きづらさはたくさんあると思う。けれどまさか、まさかだ。まさか今日、今日死ぬなんて。
この気持ちを共有できる身内とLINEで長話をしていた。きっとお互いぽろぽろ涙を流しながら、でもそれがバレないようにLINEだったんだと思う。まだ実感が湧かない。誰のせいでもない、誰の責任でもない、当たりどころのないこの気持ちはなんなんだろう。
お兄ちゃんが死んだときとはまた違う、風に吹かれた砂のような視界の悪さとチリチリとした不快感。自分にできたことはすべてやってきた。自分の守りたいものはちゃんと守れるように声をあげてきた。その結果がこれなんだとしたらもうこれで仕方ないと思うしかない。
流石インターネット、すでに嫌なコメントがわらわらと湧いているのをちらりと見てしまったけれど、もう見るのはやめにする。とにかく今は家族でここからの通夜、葬式、初七日、四十九日と続くプロジェクトを力を合わせて完遂することだけを考える。
LINEの終わりは「うちらは長生きしような」と打ち込んだ。わたしは長生き願望がない。けれど、こうでもしないと死んじまうんじゃないかと思った。いのちは強い、わかっているけれど、ときにひどく儚い。
お前は死ぬなよ、わたしも生きるよ。しんどいときもあるけどさ、なんとかやってくよ。嫌になっちゃうときもあるけど、死ぬってことはないよ、流石にね。だから、死ぬなよ、絶対ね、そう念じて紙飛行機のボタンを押した。
四十九日の法要で、空の上の裁判が免除されるらしい。生前悪いことをした人は三途の川が激流になると聞くけれど、四十九日の法要さえすればお地蔵さんに手を引いてもらって橋を渡れるのだとテレビでやっていた。
ちゃんとやるよ。どの法事もちゃんとやるから、死んだあとぐらいちっちゃい頃のいたずらっぽい笑顔で楽しく過ごしてよね。昔は一緒にお兄ちゃんの部屋でスマブラしてさ、楽しかったよね。ドンキーコンガとかやってたね。あのぐらいのときが一番楽しかったのかなあ。
悲しいけど、そういう人もいるのはわかってる。わたしは歳を重ねるごとにどんどん理想のわたしに近づいている実感があるけれど、全員がそう思っているわけではないと知っている。
だからこそ、誰もがずっと心から安全であることを信じられて、安心してすこやかに、楽しく生きていけるようになることを心から願っている。そのために今世できることを全部やる。
もう誰も失わないように、みんなで幸せを取り合うんじゃなくみんなで幸せになれるように、できることをひとつずつ。もっと強く、たくましく、しなやかに、自分の幸せをちゃんと握ってみんなで幸せになる。
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