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ずっと希死念慮とともに生きている
三度紹介してもらって、やっと買った本がある。土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』だ。なぜ紹介してもらったのか、さわりを読んですぐにわかった。それでも一度目も二度目も「カートに入れる」が押せなかった。
やっと三度目に押したのは他にも買う本があったからで、「送料無料」にかこつけて、なぜか自分に言い訳をしながら買った。届いてからもすぐには読めなくて、隠すように立てかけてあった。怖かった、読んだら元に戻れなくなるような気がした。
今朝、どうにも起き上がれないままお昼の鐘が鳴って、ひさしぶりにその感覚を味わった。わたしは、物心ついたときはすでになんとなくの希死念慮があった。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火がたまに風に乗って大きくなるように、ぶわっと飲み込まれるときがある。
「死にたい」ということばを当てるのは、安易な気がする。ファッションメンヘラというか、地雷系というか、薄っぺらく感じてしまう。その文化自体を否定したいというわけではなく、自分の気持ちとそのことばが噛み合っていない。たしかに「死にたい」ということばで表されるものは大きいのだけれど、そんな安直なものじゃない。
ふわりとこの風になれたらと思ったり、ここでぷつんと物語を終えられたらと思ったり、そういう跡形もなく消えられるようなENDを迎えたいと思ってしまう、というのが今のところ一番近いかもしれない。
たまたま親戚やご近所さんのお通夜、お葬式に参列する経験の多かったわたしは、死んだあとの儀式が鮮明に思い浮かべられる。自分がもし死んだとしたら、誰に連絡がいくのか、誰が喪主になるのか、遺影をどこから選ぶのか、葬式って意外とお金がかかるよなあ、ランクの高い戒名をつけようとしたらこれもまたお高い。
そんなことを想像すると、やっぱり死ぬという選択は面倒を起こしすぎるなと思う。だから、おかしな話だけど、死にたいと思いながらも同時に死にたくないのだ。死んだあとを想像するとあまりに煩雑なタスクが多くて、それを一通り大切な家族に負わせてしまうのは可哀想だなと素直に思う。
なにが言いたいかというと、わたしの希死念慮は現世の物理的な死とは隔絶されている。そんな社会的な死ではない。わたしは、この身体を形づくる細胞をさらに構成する粒子ひとつひとつぐらいの細かさに一瞬で消え去りたいと思うのだ。
と、一時間半ほどかけてひと通り自分のなかで暴れ回る希死念慮を撫で終わると、13時をまわっていた。こんな気持ちになるなんて熱でもあるんだろうかと、理由がつけられればそれでいいと体温計を脇に挟むが36.8℃でがっかりする。「特に理由はない」という結果に失望することが多い。
こういうときこそ自分を労わろうと胃腸にやさしいポトフやらホカホカの白米やら準備したのに、餃子を焼いてしまって台無しにする。途中で荒っぽくなるのが自分の良くないところであり、きれいな円を描かないうつくしいところでもあると思う。
お昼のNHKニュースの時間に降りてこないのを心配した母がいつもより長く会話をしてくれる。実家にいると親がうるさい嘆くひとが多いようだが、うちはどちらかというともうすこし会話をしたいと思っているほうなので素直に気持ちを受け取る。
美容院で髪を洗ってもらった祖母が帰ってくると、肩で息をしている。すぐそこの美容院なのに。ここ数日下痢が続いているようでどうも調子が悪い。せっかく年末で退院してお正月は家族で過ごせたけれど、やはり家にいると病院食ほど考え尽くしたものは食べさせてあげられず悪化してしまう。
だからといって病院にいれば安心というわけでもなく、先月入院していたときは大きなたんこぶと腕に擦り傷を作って帰ってきた。ベッドに座り損ねて転んだ、と説明されたがどうも納得がいかずいまだに腹が立っている。
そういうわけで、家にいても症状は悪化するし入院しても特に治療法はないし、どちらにしても付きっきりでケアをしているわけではない。どんぐりの背比べなのをわかって、「なるべく家で過ごしたい」という本人の希望を優先していたが、今日はどうも限界らしい。
布団に寝転んでも肩で息をしているのを見ると、握った手がひんやりと冷たいのを感じると、否が応でも「死」を連想する。ひたりひたりと死が近寄ってくる気配がする。それが怖くて、打ち消したくて「エスパルスの開幕戦まで、まだ一ヶ月あるからね、それまで一回休もう」と声をかける。
「病院はいやだなあ」とぼやくのが聞こえて、穏やかに家にいさせてあげられないのを申し訳なく思う。家族も友達も誰もいない病院で数ヶ月延命するぐらいだったら、うちで美味い飯を食ってポックリ死にたいとわたしなら思ってしまう。そんなことはこの場で言わないけれど。
しかし死んだら糞尿がドバドバ出ていくと聞くしな、救急車が家の前に止まって長いこといたら近所のひとに質問攻めにされるだろうしな、とまた対応を押し付ける予定の面倒ごとばかり想像する。そのときにはわたしの意識はないけれど、それでもちょっといやなのだ。
死にたい、消えたいと思い続けているが故に、死ぬことに伴う面倒くささもわかるし、考えれば考えるほど「そういう死」がわたしの求めているものなわけではないということもわかる。
一時期「どうしたら自分は死ぬのか」を丁寧に丁寧に調べていて、これなら自分の力の及ぶ範囲内でいけると思ったものをひとつ守り刀のように持っているので、「ま、いつでも死ねるんだから死ぬまで生きようぜ」と思ってきた。
なんというか、「死にたい」という気持ちだけを表現するとすごく重たくて面倒くさくて、周りから見ると引き止めたくなるかもしれないが、「死なないで!」と言われて「オッケー!やめるわ!」ってもんじゃない。
あ〜また来てんな、そうだよなあ〜ずっとそう思ってたよな〜。泣けてくるよな〜こんな気持ちで生きてんの。不思議だよなあこんな気持ちで生きてんの。いつだって辞めれるってわかってんだけどさ、それでもこんな気持ちになっちゃうんだからやってらんないよなあ。
そんなやりとりを十年、二十年と繰り返して、やっとここまで来たのだ。そう思うと今なら怖くないような気がして、『死ぬまで生きる日記』の表紙を初めてめくる。
「はじめに」を読みながら、これはもしかして記憶にないだけでわたしが書いたんじゃないか?とすら思う。「第1章」を読みながら、こんなにもわたしの体験をことばにしてくれているものがあるのかと同胞を見つけたような気持ちになる。
「第2章」の文字が見えて、ぱたんと本を閉じる。一気に読み進めたい気持ちと、数日かけてすこしずつ沁み込ませたい気持ちで、後者が勝った。これは編みものをするように大事に自分をととのえながら体験したい本だ。
むかし初めて「希死念慮」ということばに出会った日を思い出した。脳の病気、精神障害、薬で治療、さも悪いことのように書き連ねられたその情報の塊に謎の嫌悪感を抱いた。当時すでに希死念慮はわたしの一部だったのだ。
薬を飲めば治ると言われて、わたしは飲むだろうか。大抵のひとが「死にたい」なんて思わずに生きているなかで、自分が一生かけてこの気持ちとともにいる意味はなんだろうか。
きっとここにわたしの大切ななにかがある。希死念慮があることは良くないことだと評価されてしまえばそれまでだけれど、わたしはこれともうすこし一緒にいてみることにする。
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