宇野常寛「庭の話 14.孤独を与える都市」 (『群像』2023年9月号)
☆mediopos3199 2023.8.21
小学校に入ったころの思い出がある
幼稚園を入園してすぐに逃げ出して以来
もちろんそれ以前もそうだが
もっぱらひとりあそびをしていた
そのほうが
あそびに熱中できるし
ひとに気をつかわなくていいので
らくだったからだが
気を利かせたらしい先生が
「いっしょにあそんであげなさい」と
クラスメートにいったらしく
「いっしょにあそぼ!」と言ってきた
いっしょにあそべることは
とくになさそうだったので
かまわずひとりであそんでいたのだが
学校というところはどうも
ひとりでいてはいけないところらしいと
そのことではじめて気づかせられた
いっしょにあそんでほしい
そう思っている子どももいるのだろうが
ぼくのばあいは少なくともそうではなかった
そのことをよくおぼえているのは
いっしょにあそぶということが
非常なストレスとなったからだ
だれともいっしょにあそばない
というわけでもなかったけれど
望まないにもかかわらず
だれかといつもいっしょでなければならないような
強制的な「社交性」に慣れずにいたということだ
それでもその後は
しだいにそれなりの対処はできるようになり
コミュニケーション上の問題で
とくに問題になったようなこともなくなったが
「非社交」的な性格はいまでも変わらない
さて前置きが長くなったが
宇野常寛の連載
「庭の話 14.孤独を与える都市」に
「いま「孤独」は不当に貶められている」
という話があった
宇野氏は「世界でいちばん嫌いなものに
「飲み会」がある」というのだが同感である
「飲み会」的な場を必要とする人にとっては
「孤独」は社会問題となるのかもしれず
イギリスでは2018年に
「現代の公衆衛生上、最も大きな課題の1つ」として、
世界初の「孤独担当大臣」を任命し
その対策に乗り出した」という
日本でも1970年代に
保健学の研究者である足立己幸が
「孤食」という言葉をつくって
「孤食」でないほうが
栄養学的に充実した食につながるとしていた
歴史学者の藤原辰史は「孤食」の豊かさを
ある程度認める立場をとり
対案として「縁食」という概念を提示したが
それはあくまでも
「孤食は共食に回収されていく過程、
もしくは共同体の縛りの弱い共食を
縁食と言い換えているもの」だ
さきの小学校の先生の善意のごとく
「ひとりでいる」ことが問題であるという意識は
多くのばあい根強くあるようだ
しかし宇野氏の示唆するごとく
「人間はときに孤独にあるべきなのだ」
「「ひとり」だからこそ人間は
純粋に事物と向き合うことができる」
という視点をなおざりにしたとき
ひとは「集団」「共同体」を離れて
ひとりでものごとを考えることができなくなる
そして「学校」や「お上」といった組織
マスメディアなどから与えられることを覚え込み
それに応じることしかできなくなる
「いっしょにあそんであげなさい」は
「いっしょでないと許さない」となり
かつての大政翼賛的な状況のように
レミングの大移動へと向かいかねない
■宇野常寛「庭の話 14.孤独を与える都市」
(『群像』2023年9月号)
(「1.美味しんぼvs.孤独のグルメ」より)
「私が世界でいちばん嫌いなものに「飲み会」がある。出版業界のとくに批評や思想の世界の一部にはいまだにこの昭和的な「飲み会」の文化がはびこっている。業界のボスみたいな奴がいて、そいつが相対的に若い取りまきを連れて飲み歩く。」
「SNSのプラットフォーム上で行われている相互評価のゲーム(承認の交換のゲーム)はこれを、低コスト化し、時間と場所の制約から解き放ち、簡略化したものだと考えればいい。」
(「2.福祉の敵」より)
「いま「孤独」は不当に貶められている。2018年、イギリスは「孤独」を「現代の公衆衛生上、最も大きな課題の1つ」として、世界初の「孤独担当大臣」を任命しその対策に乗り出した。背景には国民————特に高齢男性————の社会的な「孤立
」があるという。主観的な感情をさす「孤独」と、社会的な状態をさす「孤立」は異なる概念だが、この両者は常にセットで語られる。今日においては社会的なネットワークから離脱してしまった「孤立」と、人間の内面的なものである「孤独」な感情は同等に扱われており、そしてどちらも社会的な「ケア」の対象になりつつあるのだ。」
「イギリスの「孤独」解消に向けた取り組みを高き評価し、それに追随し世界に二番目の「孤独」対策担当閣僚を設置した国家がある。その国は「孤食」という概念を1970年代に「発明」し、社会問題として指弾してきた。そしてそれがどこかは、もはや説明する必要はないだろう。
(「3.「孤食」を再評価する」より)
そもそもこの「孤食」という言葉は1975年、保健学の研究者である足立己幸による造語であった。(・・・・)足立は「家族と食卓を囲むこと」が栄養学的に充実した食につながるという前提で啓蒙活動を行ってきたが、約半世紀を経た今日では、この孤食/共食という図式を提示したことを「反省している」と述べている。
(・・・)
この足立の「転向」は常識論的に考えて妥当なものだと思われるが、その一方で正しく栄養を得るという「保健学」的な観点から食をとらえることそのものの限界も露呈している。足立の力点は、他の人間と「つながる」こと(食卓を囲むこと、食事の内容を共有すること、料理を共にすること)などが、結果的に品目が多く栄養バランスに優れた食事につながるというものだ。足立の議論は、食事を精神的な活動として位置づけることを優先しない。そのため、「孤食」そのものの豊かさを発見することがないのだ。」
「対して歴史学者の藤原辰史は「孤食」がその批判のために生み出された言葉であることを前提に、その豊かな側面をある程度認める立場を取る。」
「封建的な家族の食卓や、「残すことを許さない」といったイデオロギーのもとに児童の管理の手段として用いられる学校給食が「食」という体験を、特に子どもたちにとって恐怖の体験にしてしまう————そういった痛みを知らない、もしくは若い頃に経験したその痛みをビニールハウスの中でとっくに忘れてしまった文化人や研究者や社会起業家が「孤食」を批判するとき、私は強い失望を感じる。孤食によってはじめて救われる人間が存在することを、この人たちは想像もできないのだ。
しかし、藤原は孤食を単純に擁護する立場は取らない。孤食はその言葉が生まれたときから指摘されている通り、単に社会的な孤立の結果として望まざるかたちでそれを強いられているケースが少なくないからだ。
そして藤原が一連の議論の中で、対案として提示するのは「孤食」と「共食」の間の「縁食」という概念だ。孤独に食事を摂るのでもなく、仮定や職場といったメンバーシップの確認のための食卓を囲むのでもなく、見知らぬ誰かと偶然に知り合うためにこそ誰かろ食卓は囲まれるべきだというのがその主張だ。
(・・・)
藤原の議論は、「縁食」と「共食」の境界線が曖昧で、はっきりしない。「縁食」が成立するのは誰かとそこで遭遇し、交流が生まれたとしても、共同体への取り込みを回避したときのみだ。藤原の述べる「縁食」は実質的には孤食は共食に回収されていく過程、もしくは共同体の縛りの弱い共食を縁食と言い換えているものだ。「子ども食堂」や、藤原自身が飲食店でたまたま出会った人々と関係を結んだ例が挙げられているが、そこで醸成されるコミュニケーションは、実質的には家族よりもその拘束力の低い「共食」以外の何ものでもなく、ここについては全体敵に立論に失敗している。
(・・・)
そしてこちらがより重要なのだが「縁食」もまた人間のコミュニケーションで目の前の食べるものから人間を遠ざける。少し意地悪な視点になるかもしれないが、「異業種交流会」や業界の「立食パーティー」といった共同体「未満」の「縁」をつなぐための会食のことを考えてもらいたい。私はこの種の人間関係そのものを目的とした会合が苦手でほぼ顔を出さない。
(・・・)
誤解しないで欲しいが別に私は孤独を愛することを主張したいとは微塵も考えていない。もちろんJTC敵、文壇/論壇的な「飲みニケーション」には軽蔑しか感じないが、それはむしろ人並みの繊細さと現代的な人権感覚を有しているか否かの問題だ。ここで重要なのは、事物と純粋に向き合うためには、人間は一時的に孤独になること「も」必要だということなのだ。」
(「5.ひとりあそびのすすめ」より)
「誤解しないで欲しい。私は他者が、社会的な関係が必要ないと述べているのではない。むしろ逆だ。適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界につながるための回路が必要なのではないか、と問うているのだ。
人間はときに孤独にあるべきなのだ————共同体への回帰は強者たちによる傲慢な主張だ。既に社会的な地位が確立された人々————マスメディアや大学など温室に暮らす人々————の語る仲間という言葉に、絆という言葉に、関係性という言葉に、人並みの理性と繊細さがあれば浅薄さと卑しさ以上のものを感じることは難しい。それは自分が強い立場で臨めば、あるいは他の場所で生活が保証された状態で外部から気軽に触れれば、地元の人の集う商店街のカフェもスナックも居心地がいいだろうし、大きな声でそれが弱者のためのセーフティネットであると善人顔して主張することもできるだろう。しかし、本当に必要なのは「独り」でいても寂しくない場所なのだ。
そして前述したように「ひとり」だからこそ人間は純粋に事物と向き合うことができる。孤食だからこそ、会話の与える印象に左右されずに人は目の前の食べ物に集中できる。」
「一人でコミュニケーションを取るとは、どういうことだろうか。
それは、完全な自己責任の世界だ。自分は強いと誇るために弱肉強食の野蛮な世界を肯定したがる短慮の塊のような政治家やジャーナリストやビジネスマンの振りかざす「自己責任」は単なる愚かさと卑しさの証明に過ぎない。本当の自己責任はむしろここにある。」
「私は長くランニングを趣味にしているが、一定の距離をこれだけの時間で走り切るといった記録にはまったく関心がない。疲れれば歩くし、喉が渇けばコンビニエンスストアで水を買ってきて飲む。(・・・)
このようなひとりあそびにおいては自分との競技も解除することが一つの目安となる。(・・・)自己との競技すらも捨て去ったとき、はじめて人間が事物そのものと対峙できる。走ることそのものを目的としたときに、人間はその行為について相対的にだがもっとも純粋に触れることができるのだ。
これは言い換えれば、事物とのコミュニケーションを他の目的のための手段にしてはいけないことを意味する。
(・・・)
他者との交流は暴力的に「ゲーム」を発生させ「目的」を付与してしまう。」
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