渡辺保『日本の舞踊』
☆mediopos3397 2024.3.6
舞踏
ましてや
日本舞踊については
ほとんど知らないに等しいままだが
知らないがゆえにこそ
舞踏とはなにか
なぜ舞踏があるのか
身体をもって
生きている人間として
余計なバイアスのないままに
その見えているもの
そして見えていないものについて
あらためて考えてみたいと思い
舞踏に関するものから
なにがしかのヒントを得られればと
ずいぶん昔(30年以上前のこと)に目を通した
渡辺保『日本の舞踊』を再読することにした
いうまでもなく
じぶんの30年前の身体感覚と
現在の身体感覚は実感としてずいぶん異なっている
あえていえば以前はどちらかというと
見える身体寄りでしかとらえ難かった感覚が
現在は見えない身体寄りの感覚へと変わってきている
著者の伝えようとしていることが
そのぶんだけ少なからず
以前よりも腑に落ちてくるようになっている
渡辺保は
「人間の身体は、一つのミクロ・コスモス」だが
「それ自体で孤立しているのではなく、
社会の、世界のコスモスに通じ」
「身体の声は、単に人間に身体の
深部の声であるのみならず、
もう一つのコスモスの声」であり
「私たちは自分自身の身体の
本当の世界を実は知らない」がゆえに
その身体の声を知ることが必要なのだという
そこには著者の
「現代は、なんでも目に見えるものしか見ようとしない、
あるいはそれだけしか見ることができない
視力の衰えた時代である」という危機感があるのだろう
「舞踏にとっては、目に見えるものだけが全てではない」
「それが理解されなければ、舞踊は本当に理解されない」
こうした30年前の危機感は
現代においてますます深刻なものなっているようだ
なんにつけ「目に見えるもの」
そしてそれに対応した「エビデンス」が要求され
「目に見えない」ものや直接には役だだたないものが
軽視あるいは否定されるようになっている
またそれとは逆でありながらその暗部として
「ヴァーチャル」なものへの依存も高まってきている
「ヴァーチャル」といいながら実際は即物的な感覚なのだ
身体による芸術である舞踏は
「目に見える」身体がベースとなっていながら
「私たちの日常知っている人間の身体とは違う身体の深部」
いわば見えない身体がそこに深く関わっている
渡辺保は本書で
「振の言語」「肝の言語」「舞い手の言語」という
「三つの違うレベルの言語が、
舞踏言語には存在している」という
「第一の言語(振)が目で見ることができるのに対して、
第二の言語(肝)はときに目に見えないもの」であり
「第三の言語(舞い手の言語)は、
本来目に見えないものでありながら、
ついに目に見える身体に行きつくもの」である
そしてこの三つの言語は
互いに関わり合うことではじめて存在し
ひとつだけが独立しているのではなく
しかも互いに他の言語を否定することでその関係をつくり
同時に一つの円環を形成しているという
いわば矛盾的に同一化された三位一体が
「見えるもの」でありつつ「見えないもの」として
舞踏には表現されているのである
こうした三つの関係性は舞踏にかぎらず
さまざまな有り様の中でもあらわれているように思われる
考えること・感じること・行うこと
それらすべてにおいて
表にあらわれているものだけではなく
「深部の声」をいかにとらえるかが重要な課題である
いわゆる「名人」とされる者の舞踏からは
感動とともにそれが深く伝わってくる
身体をもって生きているということは
コスモスと照応したミクロ・コスモスとして
身体性の深みとともにあるということにほかならない
そのことがどこかで感得されるのだと思われる
霊性の深みともいえる
そんな身体感覚を生きられますように
■渡辺保『日本の舞踊』(岩波新書 1991/6)
*(「第一部 日本舞踊とは」〜「舞踊と人間————身体の声」より)
*「ここで日本の舞踊というのは、日本の古典的な舞踊のことである。日本には、古典舞踊のほかにも西欧から入ってきたクラシック・バレエ、モダン・ダンスがあり、現代の前衛的な舞踊もある。しかし、この本で対象にするのは、とりあえず日本の伝統的な舞踊、能の舞からはじまって、上方舞、歌舞伎舞踊、そして一般に日本舞踊と呼ばれている古典である。
この世界は、日本の古典芸術のなかでも、もっとも特殊で、むずかしい世界だと思われている。約束事やしきたりを知らなければ理解しようのない世界。しかし、見方をほんの少し変えて見れば、これらの世界のなかには、西欧の舞踊や現代の前衛的な舞踊と共通の普遍性もあるし、今日の私たちにとって重要な問題もかくされている。
どうすれば、それらのものが私たちに見えてくるだろうか。
この試みの最大の障害になっているのは、実は日本の舞踊の世界の閉鎖性、特殊性ではない。そうではなくて、実は舞踊というものをどう語るべきなのかということが、だれにもわかっていないからである。」
*「舞踏の定義の欠如、領域の不明確さとその閉鎖性、舞踊を語る言葉————方法論の欠如。
この三つが、私たちに舞踊の世界を見えにくくしている大きな障害である。
(・・・)
この本は、大きくいえば、その三つの障害をとり除こうとする試みである。
この三つの障害をとり除くためには、モダン・ダンスであろうと、クラシック・バレエであろうとどんな種類の舞踏を問題にしてもかまわないのだが、私はとりあえず日本の古典的な舞踊を、そのモデルとして選んだ。私がそうした理由は、私が日本人であって、そのために日本の舞踊にもっとも深く親しんできたためにほかならない。」
*「人間の身体は、一つのミクロ・コスモスである。しかしこのミクロ・コスモスは、それ自体で孤立しているのではなく、社会の、世界のコスモスに通じている。身体の声は、単に人間に身体の深部の声であるのみならず、もう一つのコスモスの声なのである。
この声が私たちにとって必要なのは(ということは舞踏が私たち人間にとって必要なのは、ということだが)、私たちは自分自身の身体の本当の世界を実は知らないからである。毎日四六時中つき合っている自分の身体、くまなく知りつくしているように見える人間の身体、その身体を私たちはほとんど知らない。ましてその身体の属しているコスモスの実体を知らない。舞踏の世界を見ると私たちの日常知っている人間の身体とは違う身体の深部が舞台にあらわれてくる。そして、それは単に一個の身体にとどまらず、その身体の住む世界をあきらかにする。その世界を知れば、いかに私たちが日常的な表面的なものしか知らずに生きているかがよくわかる。人間はいかに自分の身体について無知であるか。だからこそ私にとっては、あの身体の声こそが大切なのである。」
*(「再び、身体の声について」より)
*「振の言語、肝の言語、舞い手の言語。
この三つの違うレベルの言語が、舞踏言語には存在している。この三つのレベルの違いは、第一の言語(振)が目で見ることができるのに対して、第二の言語(肝)はときに目に見えないもの、日常的な視覚によっては目に見ることのできないものであり、第三の言語(舞い手の言語)は、本来目に見えないものでありながら、ついに目に見える身体に行きつくものだという点である。
各々、その言語としての質が違う。
もっとも、この三つを言語という言葉でいうのは、正確ではないかもしれない。なぜならば、振の言語、肝の言語はあきらかに私たちに語りかけてくる言語————意味をもつものといえるがm第三の舞い手の言語は、すでに私が「身体の声」といったように、意味のある言語ではなく、声としか呼びようのないもの、意味をこえたものだからである。しかし、いま、この三つの関係をはっきりさせ、話を簡単にするために、この三つを言語という言葉でのべる。この三つはその意味でも質が違う。」
*「この三つの言語は、どのような関係によって結ばれているだろうか。
その特徴は、三つある。
第一は、三つの言語は互いに関わり合うことによってのみはじめてこの世に存在するもので、あって、それ自体独立して存在することができないということである。
第二に、お互いに、他の言語を否定することによって関係をつくっているということ。
第三に、この否定の関係は、段階的なものであるけれども、同時に一つの円環を形成しているのであって、第三の言語は、第一の言語に立ちかえるものだということである。
この三点を、まとめて振り返ってみよう。
まず第一点について。
振は、振付師によって舞い手の外側から舞い手の手の身体に与えられるものである。振そのものは、舞い手の、物理的な身体がなければ存在しえない。肝は、この振との関係によってはじめてあらわれてくるので、振がなければ、そして、その振を実現させる身体がなければ、肝は存在しない。舞い手の私の心境も、肝がなければ存在しようがない。したがって三つの言語は、それぞれ他の一つあるいは二つの言語との関係からのみ生まれてくるものである。
第二点。
これらの関係は。つねに逆説的な否定によって成り立っている。京舞井上流の馬合にあきらかであったように、顔の表情、動作を否定すること、人間の身体の自然な動きを否定することによって、肝という本来目に見えないはずのものが、観客に見えてくるという逆接がそれである。そして、第三の言語は、この肝のもつ意味、ドラマ生、言葉といったものを否定し、同時に舞い手自身の心を捨てることによって、はじめて私たちの前にあらわれてくる。こういう逆接が必要なのは、すでにふれた通り、この逆接が、観客の視線を、目に見えるものから目に見えないものに転換させ、それを身体的な「気」によって観客に伝えるという方法のためである。「気」によっておこる身体的な伝達は、この逆接によって、目に見えぬ、深く、人間の身体にかくされているものへと私たちを導いていく。
第三点。
否定すれば、相手にも否定される。奪おうとすれば奪われる。この逆説的な否定は、またそういう逆接もふくむものであって、たえず相互否定が行われているが、これらの否定のおこるのは、これらの相互関係が実はそれ自体たえず一つの円環を示しているからである。窮極のものは、ふたたび出発点にかえる。身体の幻想的なものは、最後の段階でもう一度身体そのものへかえる。友枝喜久夫の「私」は、無意識であるがゆえにかえってはっきりと「私」の身体への回帰であった。
以上三点。
三つの特徴によって、三つの言語は結ばれていて、この円環の中から、身体の声が、私たちの前に、はじめてその姿をあきらかにする。」
*「身体の声。
その声は、これらの関係を通じてあらわれるものである。それは、むろん人間に日常の現実からはかくされたものである。深層の、無意識のものであり、その人間の身体の経てきた歴史、無意識のうちにうけついできた歴史をあきらかにする。個人の人生といったものをこえた人間の身体の歴史、舞い手の人生のなかで、いま。ここにたどりついた人間の身体の位置、そういうものを赤裸々にするのである。
それは、決して陰翳とか余剰とか余韻といった、曖昧で、不確実な感情の動きではない。明確で、具体的で、動かしようがない確実な身体的なものであり、そのくせ、それが関係によってのみあらわれるものであるために、幻想的な心的ななものであることも間違いない。
関係によってのみあらわれるために、その関係の函数である「肝」————つまり曲がかわればかわるものである。歌右衛門にしても二十世紀バレエ団の踊り手にしても、「娘道成寺」なり「われらのファウスト」なりによってはじめてあらわれた身体の声であり。作品がかわれば、また別な側面があらわれる。
この方法のはてにあらわれた窮極の身体は、友枝喜久夫の馬合にあきらかなように、ほとんど言語化することができないものであり。その意味であくまで声にすぎない。しかし、それは決して断片的だということではない。言葉のともなう意味での体系ではなくて、身体の上にあらわれてくる、風のような、実質をともなわぬ記号の体系である。
身体の声を聴いた時に、私は、今まで見たことのない人間の身体を見たという感慨を禁じることができなかった。奥深く、秘められた幻想的なもの。しかし、それはまがうかたなき人間の身体の発するもの。情緒なぞとは無縁の、確実で、疑いようのないもの。それが私の視覚や聴覚ではなく、身体全体の「気」を通して私たちに伝えられ、私たちにどうかするもの。
この新しい人間の身体に出会うこと、これこそが舞踏を見るたった一つの悦楽の根拠であり、この根拠意外に、舞踏という芸術が、この世に存在すべき理由はどこにもないだろうと思う。」
*(「あとがき」より)
「現代は、なんでも目に見えるものしか見ようとしない、あるいはそれだけしか見ることができない視力の衰えた時代である。しかし、舞踏にとっては、目に見えるものだけが全てではない。目に見えないものを語ることは危険なことでもあるが、それが理解されなければ、舞踊は本当に理解されないだろう。目に見えないものがどうやって存在しているのか。それを一度書きたいと思っていた。」
◎四世 井上八千代「京の四季」(当時九十一歳)
https://www.youtube.com/watch?v=ZWZTSlb5xyo
◎武原はん 地唄「雪」(解説 渡辺保氏)
https://www.youtube.com/watch?v=Wuw41MuNJDw&list=PLQNmFcIrUZawmpIYj2H8Xnb0WcsNVn9f5
◎【京鹿子娘道成寺・昭和29年】【六代目 中村歌右衛門】
https://www.youtube.com/watch?v=w_r0gf7FjSY
◎能楽 喜多流「檜垣」(次第より中入りまで):シテ/友枝喜久夫 ワキ/森茂好 ほか
https://www.youtube.com/watch?v=QLjuYkTLAcM
◎井上八千代 玉取海士
https://www.youtube.com/watch?v=_4uBHlefihs&list=PLRTZgOaNGVvCRPXlM9RH9oyu-9FWmz2Zb
友枝 喜久夫 (ともえだ きくお。1908年9月25日 - 1996年1月3日) は、昭和期に活躍した喜多流の能役者。特に三番目物を中心としてすぐれた境地を見せ、「最後の名人」の名をほしいままにした。
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