西郷甲矢人『圏論の地平線』/『現代思想 2020年7月号 特集=圏論の世界 ―現代数学の最前線』
☆mediopos3208 2023.8.30
圏論は
「対象を他の対象との
「関係性」の総体について捉える数学」であり
その「関係性」とは
「対象から対象への「矢印的な何か」であり、
しかも「合成」の概念が与えられているもの」
そして「合成」とは
「「ある対象への矢印」と
「その対象からの矢印」に対して
「矢印をつないで新しい矢印を作る」ような操作」である
そうした「矢印」のシステムが「圏」であり
「圏を構成する「矢印的な何か」は「射」と呼ばれる」
上記は西郷甲矢人『圏論の地平線』の
「まえがき」にある説明だが
その本は「数学にとどまらず,物理,情報物理,
複雑系科学,量子論,工学,AI,生物学,哲学など」
「他の分野との関係性を通じて
圏論を「圏論的に」語ろう」とする本である
折良く現代思想でも2年ほど前に
「圏論」の特集号もでていた
いうまでもなくぼくは
「現代数学」についてもまったくの門外漢で
圏論についてもそのじっさいについては
理解が及ばないのだが
(それでここ数年「圏論」のまわりを
ただぐるぐると回遊しているところがあるのだが)
「圏論的に考える」
つまり「射(矢印)と対象(object)」
しかも対象もまた一種の射としてとらえる
関係性の総体ということを
思考はどのように生まれ展開するのか
さらには「私」という現象
「世界」という現象が
どのように表れているのかについての
重要な示唆として理解するようになった
「圏論的に考える」ことは
ライプニッツのモナドロジーや
「縁起」という関係主義的な世界観をもった
仏教などとも通底しているように
矢印と矢印でもある対象との
関係性の総体から生まれるさまざまなシステムであり
いうまでもなく閉じたシステムではない
「外部」も含んだメタ・システムな視点によって
その「意味」が生み出されている
思考は「外」からやってくる
私は私だけで閉じているのではなく
他者という「外部」によって「私」となっている
世界は世界だけで閉じているのではなく
その「外部」によって「世界」となっている
圏論についてはその実際を理解できないままだが
「圏論的に考える」ことで
閉じながらも開かれたシステムとして
さまざまな示唆を得ることもできるのではないか
■西郷甲矢人『圏論の地平線』(技術評論社 2022年12月)
■『現代思想 2020年7月号 特集=圏論の世界 ―現代数学の最前線』(青土社 2020年7月)
(西郷甲矢人『圏論の地平線』〜西郷甲矢人「まえがき」より)
「本書が試みるのは、圏論について「圏論的に」語ることである。
何かについて語るには、「それがどんなものか」を大まかに述べたのち、次第にその「中身」について述べていくのが普通である。たとえば圏論について語るなら
〈圏論とは、大まかにいえば、対象を他の対象との「関係性」の総体について捉える数学である。〉
とでも述べておいてから、
〈ここで「関係性」といったのは、対象から対象への「矢印的な何か」であり、しかも「合成」の概念が与えられているものである。合成というのは、「ある対象への矢印」と「その対象からの矢印」に対して「矢印をつないで新しい矢印を作る」ような操作である。こうした「合成」の概念が適切に定義された矢印のシステムが圏であり、圏を構成する「矢印的な何か」は「射」と呼ばれる。より正確には・・・・・・(以下略)〉
といった流れで説明を進めていくことになるだろう。
しかし、もし対象を他の対象との「関係性」の総体において捉えるのが圏論の精神であるというのなら、他の分野との関係性を通じて圏論を「圏論的に」語ろうとする本があってもよいのではないか(・・・)。本書は、このあまりにも冒険的なアイデアから生まれた対談や座談会の企画にご協力うださった27人の方々との語り合いの記録である。
いや、この言い方ではまだ不十分だ。そもそも「他」と「自」との境界はそれほど当たり前だろうか? たとえば地平線は「空と大地との境界」だが、もし視点が高く飛翔するなら、さっきまで境界があったはずの場所には何も存在していないことがわかる。もちろんそのときにはまた別の境界線が現れ、その向こうにはまたもや未知が待っているのだが、「境界がどこに見えていたのか」さえ忘れるほどの勢いで拡がりつつあり圏論と他分野との相互作用の「生」の姿を、読者の皆さんにも垣間見てほしい。これが本書「圏論の地平線」の試みなのだ。」
(西郷甲矢人『圏論の地平線』〜「第10章 哲学者たちと語る圏論……大塚 淳/北島 雄一郎/田口 茂」より)
「西郷/私は基本的にインタビュアーの立場なんですけど、ちょっとだけ私個人のやりたいことについても話したくなりました。哲学でも普遍、ユニバーサルという言葉があると思うんですけど、圏論の中でも普遍性って言葉が出てきて、こちらの意味での普遍っていうのは実は哲学にとってもすごく示唆的だと思うんですよね。つまり、普遍っていうのは個の上に立つレベルにあるものだっていうイメージがすごくあると思うんだけど、圏論における普遍性というのは、「他のあらゆるものとの関係性のありかたを通じて定まる」普遍性であり、個々のものの「上に立つ」普遍者ではなくって、単なる「個」なんだけれども、他との関係のあり方によって普遍性を獲得する。そして普遍的なものは別に一個とは限らない。ただ、互いに結果的に同型になる。こういうのが、非常に深いなと。普遍性というのは道具として当然とても重要だし、そこに過剰に意味づけをするなんてというふうに思う数学者も多いと思うんですね。(・・・)
確かに数学者は、例えば普遍性のような概念をベースにして、何か面白いことをその次、その次と発見していくことが仕事なわけです。普通の科学的な探求と同じで、けれども、実は私は、同時にというか、ちょうど自我に対する原自我のように、数学に対する原数学みたいなものが働いているような気がして————「原数学」という言葉はそういえば遠山啓も使っていたような記憶がありますが————それを解明していきたいっていう思いがある。数学は人間の営みですから、まあ人間だけはないかもしれないけど、少なくとも私たちがやっている営みなので、その「原数学」みたいなものが人間の思考の一部を、そしておそらくは不可欠の一部をなしているとしても不思議ではない。数学をやっていない人でも、数学なんか苦手だと思っている人でも、なにかを真剣に考えていくと、どうしても数学になってしまうのではないか。そんなことを『〈現実〉とは何か』の序文にも書きましたけど、私は今も本当にそう思っていて。つまり「数学とは」ってことを突き詰めていこうとすれば、「人間とは」だったりとか、「私とは」とか、そういう問いにも必ずどこかで地続きになっていくし、逆にそういう人文学における根源的な問いを、本当に突き詰めていこうとすると、やっぱりなんらかの意味で数学との接続になっていくはずです。」
(『現代思想 2020年7月号』〜郡司ペギオ幸夫「圏論の展開〜脱圏論への転回」より)
「何かを説明するという目的は、科学に限らず哲学ですら、学問の基本的前提になっている。一般にはそう理解されているだろう。説明に際して、説明できないもの、すなわち説明の外部が出現することは、説明を志向すとりわけ理論家にとって、許しがたいものだ。このとき理論家は、未知の外部を包摂する形で、説明の全体を大系づけようとすることになる。未定義の外部を記号的に「外」と措定し、「外」と既知の概念装置との関係を構成し、「外」も含めた世界全体を理論化する。内実のない「外」は、既知との様々な関係性の総体によって、その意味を獲得するように理解される。意味のない点は、点に向かい、やってくる様々な矢印の全体を、不可知な内実の意味とする。平面に描かれた単なる点は、見知っている家や風景との関係性を、放射状に展開した線で結ばれた途端、無限遠という意味を持つ消失点となる。意味の外在化こそ、圏論の基盤をなすものである。
そのように理解される全体は、予め説明されているという意味で、生きている者にとって超越者の存在する閉塞的世界となる。絵画における消失点は、無限遠まで見渡された世界全体の中で、未知の世界という希望を持ちえない閉塞的世界の、わかりやすいメタファーとなるだろう。しかし消失点が画家によって描かれるように、そのような閉塞的世界は、ある意味、理論家の構成した虚像であり、特定の制度に過ぎない。ならばそのような虚像を無視し、現実のみに定位し、淡々と生きていけば良さそうだ。ところが、関係性の束である制度は、そこに閉塞感を感じる「わたし」をも担保するものであるとも考えられる。内実のないわたしは、外部との関係性によって初めて内実を構成され、抽象的な他我の境界を持ちえる。したがって「わたし」は、制度に隷属することで「わたし」を担保しながらも、制度が単なる特定の制度に過ぎず、現実の世界で宙吊りになっれいることを理解する必要がある。それこそが現実に生きるということになる。」
「圏論の意義とは何であろうか。様々な数学理論の抽象化であるその大系は、具体的な圏を定義するとき、特定の数学的構造となる。具体的な数学において、解けない問題があり、これを圏として定義した後、随伴関係を用いて別な圏で問題を考え、そこで解いた後、元の圏に戻るという使い方は、有効な使い方であろう。しかし、圏論が徹底した抽象化を目論む理論の極北であり。説明の極北であることを思う時、圏論の本質的意義は、理論や説明の成立基底を見出すと同時にこれを逸脱する、理論一般の脱構築ではないか、と思われる。
脱構築の意義を肯定的に展開することは極めて困難だ。閉じていないことの肯定的意義は、外部によって初めてシステムが生成・維持されることを示すことで明らかになるだろう。オートポイエーシスはまさにそれを意図して提案された。しかしそのようなシステムは、特定の条件のもとで内と外を順観させるだけの、限定されたシステムとなる。それはシステムの定義がうまう行かなかったというものではなく、理論というものの原理的な性格である。外部を理論の中に組み込み、全てを説明しようとする理論の宿命なのである。脱構築とは、外部を取り込んで説明し尽くすことではなく、外部に対峙し、向き合う者の構としてしか構成できないのである。
ウィトゲンシュタインが言語の根拠を言語の内部に求められず、言語ゲームとして外部に求めたのは、無論外部そのものを理論の中に取り込めと言ったのではない。主観的な質感であるクオリアも、内的な質感に求められようとしながら、決して内部に見出せないのは同じ事情である。」
(『現代思想 2020年7月号』〜田口茂+西郷甲矢人「圏論による現象学の深化/射の一元論・モナドロジー・自己」より)
「圏論は、射(矢印)と対象(object)でできているが、対象もまた一種の射として見ることができる。通常の定式化では、対象と射を別に立て、各対象に対して「恒等射」とよばれる「何もしない射」が対応している、とするのであるが、実は対象をその恒等射と同一視することもできる。いいかえれば、対象とは恒等射の「ことである」として圏論を定式化することが可能なのである。したがって、一切を射(矢印)に還元する「射の一元論」として圏論を解釈することができる。そこでは対象は、矢印と矢印とを「つなぐ」機能に特化した矢印にほかならないのである。この見方は。媒介論的な現実観を比類のないほど明晰な仕方で形式的な表現に映している。
いま、対象を射と見なすことができると述べたが、射を対象と見なすことも可能であり、射を対象とする圏も考えられる。この意味では、何を対象とし、何を射と考えるかについては相当な柔軟性がある。ただし、ある圏で射と考えられていたものを対象とする圏を考えるときには、さらに高次な「その間の射」を考えねばならない。圏においては、いつも射こそが主人公であり、対象はその結節として機能しているのである。」
「複数の主体間の関係論的構造といえば、ライプニッツのモナドロジーを思い浮かべる読者もいるかもしれないが、ここで述べたことは、モナドロジーの解釈としてもきわめてうまく当てはまる。」
○西郷甲矢人『圏論の地平線』
(目次)
第1章 計算機科学からの圏論……長谷川 真人
第2章 圏論と(少し普通でない)計算機科学……三好 博之
第3章 類体論と代数的言語理論は圏論的にどうつながるのか?……浦本 武雄
第4章 認知科学者と語る圏論……池田 駿介/布山 美慕/高橋 達二/高橋 康介/日髙 昇平
第5章 〈普遍的構成〉としての認知……Steven Phillips
第6章 意識の圏論的理解……土谷 尚嗣/山田 真希子/大泉 匡史
第7章 生命・ネットワークと圏論……春名 太一
第8章 〈現実の理論〉としての圏論……Bob Coecke
第9章 物理や工学における圏論の役割……岡村 和弥/成瀬 誠/堀 裕和/小嶋 泉
第10章 哲学者たちと語る圏論……大塚 淳/北島 雄一郎/田口 茂
第11章 空間概念と圏論……加藤 文元
第12章 力学系と圏論……荒井 迅
第13章 豊穣圏の広がり……藤井 宗一郎
第14章 圏論生活者と語る圏論……能美 十三/松森 至宏/中澤 俊彦