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野田秀樹「正三角関係」(『新潮』2024年9月号)/長谷部浩 劇評「天の星は地に落ちた————野田秀樹作・演出『正三角関係』をめぐって」(『文學界』2024年9月号)

☆mediopos3558(2024.8.16)

NODA・MAP第27回公演『正三角関係』
(野田秀樹作・演出)の公演が続いているが
そんななか『新潮』2024年9月号に
作品台本が掲載されている

実際に観劇してはいないものの
WEBで視聴できる冒頭のシーンやSPOT映像を繰り返し見ながら
作品台本を読みながら実際の舞台を想像してみているが
久々読むことになった野田秀樹ならではの作品表現に感動を覚えている

物語の入口・舞台は
父殺しを描いたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の
第四部第十二編「誤審」の裁判劇であり
それが「日本のとある場所のとある時代の花火師の家族」である
「唐松族の兄弟」の新しい物語に置き換えられ

そこにキリシタン弾圧の行われた歴史をもつ長崎への原爆投下
ロシアとの関係
(『パンドラの鐘』では同じく長崎が舞台で
 アメリカとの関係がクローズアップされていた)

唐松族(カラマーゾフ)の兄弟とその配役は
唐松富太郎(松本潤)
威蕃(永山瑛太)
在良(長澤まさみ/グルーシェニカと二役)
父親の兵頭(竹中直人/盟神探湯検事と二役)
不知火弁護人(野田秀樹/良神父とクライアントの三役)

作品掲載誌とは異なった『文學界』に掲載されている
長谷部浩 劇評「天の星は地に落ちた
————野田秀樹作・演出『正三角関係』をめぐって」が
わかりやすい解説にもなっている(以下の引用部分参照)

舞台の前半において三人兄弟のうち威蕃は物理学者の卵であり
アメリカによる原爆投下を扱った劇であることが示されている

しかも視覚的に「数式や模型の球が示された直後に」
「ヨハネの黙示録」第六章十四節からの引用がなされ
「天は巻物が巻かれるように消えていき、
すべての山と島とはどこかへ吹っ飛んだ」という
物語の最後に原爆投下がなされるシーンにつながっている

タイトルの「正三角関係」には
三人の兄弟
グルーシェニカをめぐる父と富太郎
富太郎をめぐる二人の女性
法廷劇としての法曹三者
日本・アメリカ・ロシア
花火師の話なので空にあがる花火・・・
といったさまざまな「関係」が込められていそうだが
それらすべてを絡み合わせながら
長崎出身である野田秀樹の背景にあるものが
絶妙なかたちで表現されているのだろう

ちなみに野田秀樹はノダマップ設立以降
原爆を背景とした『パンドラの鐘』『オイル』『MIWA』
そして本作を発表してきている

劇評のなかで長谷部浩は次のように示唆している
「人類の歴史のなかで、不当な弾圧や避けがたい災禍に襲われたとき、
人々は、神の存在を疑ってきた。
『正三角関係』に神学論争はないが、
神に向かって素朴な問いを投げかける姿勢で一貫している。」

物語の最後に富太郎以外の人たちは原爆投下で死に絶えるが
原爆が投下されるまえの在良の台詞が深く刺さってくる

「一粒の麦、地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
けれど、一粒の麦が、地に落ちて死んだなら、
たくさんの実りをこの大地に生み出すだろう。」

長谷部浩は最後に
「物語の結節点にたびたび登場」し
「召集令状をかつて届け、
今は戦死を知らせる役割を負っている」
郵便配達員の少年について記している

「私たちは少年に、未来への希望を仮託することもできない。
崩壊しつつある世界に対する絶望感を隠せない。
砂を噛んだような無念さが私を襲った。」

物語は決して未来を楽観させるものではなく
ある種の「絶望」にひとを置き去りにするところもあるが
おそらくひとはそこからしか
新たに歩き始めることはできないということなのだろう

遠藤周作の『沈黙』がそうであったように
神は「沈黙」でしかこたえることはないのだから

野田秀樹はおそらく
いまだ私たちにとってこたえをもたらさないままの
「昭和」という時代への問いを繰り返し続けているようだ

それは劇で使われる昭和の音楽に
象徴されていたりもするようだ
ちなみに本作ではまるでテーマ曲のように
ザ・カーナビーツ『好きさ好きさ好きさ』や
ザ・モップス『たどりついたらいつも雨ふり』が
繰り返し使われている(若者たちは知っているだろうか)

■野田秀樹「正三角関係」(『新潮』2024年9月号)
■長谷部浩 劇評「天の星は地に落ちた
      ————野田秀樹作・演出『正三角関係』をめぐって」
 (『文學界』2024年9月号)

**(長谷部浩 劇評「天の星は地に落ちた」より)

*「野田秀樹作・演出の新作が、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を原作とすることは、あらかじめ発表されていた。

 舞台で観た『正三角関係』は、原作の三兄弟、ドミートリー、イワン、アリョーシャを、花火師の一家、唐松富太郎(松本潤)、威蕃(永山瑛太)、在良(長澤まさみ)に移し、大胆な換骨奪胎を試みていた。第二次世界大戦の末期の日本に時代を置き換え、家父長のフョードルすなわち唐松兵頭(竹中直人)と、三兄弟の徹底した対立を継承している。

 原作小説は、第四部第十二編「誤審」の裁判で締めくくられるが、本作は、作品全体が裁判劇の体裁をとる。富太郎が兵頭を殺したのかを争う裁判が行われている。不知火弁護人(野田秀樹)と盟神探湯検事(竹中の二役)はそれぞれ証人を呼び出すが、劇中では過去の回想場面として展開される。裁判所の現在と証言による過去を、頻繁に行き来する構成を取る。

 色とりどりのテープが一貫して舞台を彩っている。赤や青のテープを張り巡らせて、結界を作ったかと思えば、登場人物がテープを自ら引きちぎり、舞台上を駆け抜ける。かと思うとさらに張られたテープに、人々は拘束される。ときには、ボクシングを思わせるリングが作られ、激闘と応援が行われる。静的な台詞劇ではなく、走っては止まり、止まっては走る格闘劇となった。一気呵成の舞台である。」

*******

*「察しのよい観客は、舞台の前半、威蕃が物理学者の卵であること、「ローレンツ変換」の台詞があり、数式が舞台裏、前面にあるスクリーンに展開することから、アメリカによる原爆投下を扱った劇であると早々に気がつくだろう。また、数式とともに、物理学で使われる量子模型を象徴する赤や青の球が、アンサンブルキャストの見事な動きによって、自在に中空を動き回った。役者の身体と記号によって劇世界を動的に絵解きしていく演出は、洗練の極みである。

 また、視覚表現ばかりではない。数式や模型の球が示された直後に、重厚な台詞が突き刺さる。「ヨハネの黙示録」第六章十四節からの引用である。「天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはどこかへ吹っ飛んだ」。この黙示録第六章は、人類の長い歴史のなかで、災禍を象徴する言葉として知られてきた。先立つ十二節からの「太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は前面、血のようになり、天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落とされるように、地に落ちた」に続く節である。

 この黙示が、劇の焦点というべき場面にやがて収斂していった。」

*「極限まで追い詰めた表現は、爆弾投下の悲惨を改めて呼び起こした。屈指の場面である。

 こうした圧倒的な場面に立ち会ったにもかかわらず、『正三角関係』は、平和を祈念する反戦劇の範疇にとどまらないと私は思う。それほど、この劇には、歴史考証にはなじまない奇想があふれている。」

*「第一次大戦の勝利を祝って、日本は花火を打ち上げた。劇の冒頭近くで、美空ひばりの『お祭りマンボ』とともに祝祭感をもって描かれる。時は過ぎ、第二次大戦へと至り、花火師が花火を上げられない時代が来る。中空を彩り、天を見上げる人々の歓声をあびるはずの花火は、敵を殺すための弾薬へと転用されることになった。花火は人を殺傷する危険を潜ませているからこそ美しく、人の心を揺さぶるのか。」

*「登場人物は、ロシア名ではなく、音を受け継いだ日本名を与えられている。ただし、グルーシェニカ(長澤の二役)だけが、原作そのままである。たぐい稀な美しさをそなえた女性を、父兵頭と長男富太郎は、三百万円を用意して、自分が見受けしたいと争う、女性をめぐる親子の争いは、裁判が進むにつれて、別の方向性を与えられる。

 花火師は、火薬に女性の名前を名づけるのだという。グルーシェニカは、とっておきの火薬に与えられた名前だとされる。情痴の物語であったはずが、職人の隠語を与えられて、火薬の横流しの物語へと横滑りしていく。」

「決して確かには、解かれない謎がちりばめられたまま、劇はさきほど書いた原爆投下の場面へと収斂していく。

 劇中には、ふりかかる深紅のはなびらのように、棘のように刺さる鮮烈なイメージがある。グルーシェニカを象徴しているのか、具体的な植物を指しているのか、さだかにはわからない。」

*「メインキャストは、今回八人である。

 松本潤は、冒頭から不敵な面魂で、客席を睨みつける。さらには、劇の終盤に向けて、怒りをつのらせ、野生を剥き出しにしていく。本能と夢を信じて生きている人間の確かさ、厚みが舞台を圧している。そして匠の技におのれを託した職人のありようを体現していた。

 永山瑛太は、神の居場所がない量子力学を専攻した物理学者の、世間とは隔絶したありようをよく演じていた。劇の冒頭で、「この事件は「グルーシェニカ」が何を意味するか、なんです」と怜悧に語るとき、劇の方向を明確に示していた。

長澤まさみは、神に仕える純朴な在良とグルーシェニカの二役である。うつむきがちで、内省的な性格の在良と、蠱惑的で奔放な女性を兼ねて破綻がない。新約聖書「ヨハネによる福音書」第十二章二十四節の引用「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」も、長澤の語りによって観客に染み通った。

野田秀樹は、不知火弁護人、在良が慕う瀕死の神父(原作では長老)、クライアントの三役を演じている。竹中直人は、盟神探湯検事と唐松兵頭、両極端の役をスウィッチするように演じ分けていく。」

「村岡希美の生方莉奈は、グルーシェニカとの接吻をめぐるやりとりが絶妙で、原作の緊張感をよく受け継いだ場面とした。」

「検事の煽動によって富太郎の有罪を立証していく唐松家の番頭、呉剛力を演じた小松和重の縁起には、横暴な主人兵頭と富太郎に仕えてきた積年の怒りは根底にある。」

「池谷のぶえは、在長崎ロシア領事館の妻、ウワサスキー夫人を演じている。録音テープの音声を、みずから登場して再現する離れ業も見事である。計算され尽くしていた、しかも本邦。陰謀を匂わせる狂言回しの役割だが、「真実が凍えてしまう」の台詞で、底知れない心の内を見せていた。」

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*「長崎に生まれた野田秀樹は、ノダマップ設立以降、『パンドラの鐘』『オイル』『MIWA』そして本作と、原爆を背景とした作品を発表してきた。なかでも『パンドラの鐘』は、古代の天皇制と女王ヒメジョを並置することで、天皇の戦争責任をも問う代表作である。

 本作は、この系列の作品のなかでも、きわめてシンプルな劇構造をとるが、それだけに、まっすぐな力にあふれている。

「浦上四番崩れ」という事件がある。慶応三年(一八六七年)長崎奉行所は、土砂降りの雨の中、浦上キリシタンの主だった人物を襲い、牢へと入れ拷問が行われ、キリシタンたちは流配となった。隠れ切りスタン弾圧の歴史があり、天主堂が建つ浦上に、なぜ原子爆弾が投下されたのか。そんな不条理への反発さえも劇中では相対化されている。

 人類の歴史のなかで、不当な弾圧や避けがたい災禍に襲われたとき、人々は、神の存在を疑ってきた。『正三角関係』に神学論争はないが、神に向かって素朴な問いを投げかける姿勢で一貫している。

 兼光ほのかが演じる郵便配達員の少年は、物語の結節点にたびたび登場する。召集令状をかつて届、今は戦死を知らせる役割を負っている。私たちは少年に、未来への希望を仮託することもできない。崩壊しつつある世界に対する絶望感を隠せない。砂を噛んだような無念さが私を襲った。」

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**(野田秀樹「正三角関係」最後のシーンより)

*「唐松在良/一粒の麦、地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。けれど、一粒の麦が、地に落ちて死んだなら、たくさんの実りをこの大地に生み出すだろう。

   アメリカの飛行機の爆音
   空の高みからうっすらと聞こえてくる。
   飛行機の爆音が近づく。
   アメリカの飛行機の坐席は、生牡蠣裁判長席、検事席、弁護人席。

 アメリカ飛行兵1(生牡蠣裁判長)/雲がきれた、見えるぞ!
 アメリカ飛行兵3(盟神探湯検事)/眼下に学校のグラウンドが見える。
 アメリカ飛行兵1(生牡蠣裁判長)/今しかない。
 アメリカ飛行兵3(盟神探湯検事)/あれは教会の塔の尖端か?
 アメリカ飛行兵2(不知火弁護人)/十字架に見える。
 アメリカ飛行兵3(盟神探湯検事)/大丈夫、きっとあそこはカトリックだ。
 アメリカ飛行兵2(不知火弁護人)/それは冗談か?
 アメリカ飛行兵3(盟神探湯検事)/ああ。
 アメリカ飛行兵2(不知火弁護人)/笑えないな。
 アメリカ飛行兵1(生牡蠣裁判長)/原爆投下!

   長崎の人々が同時に空を見上げる。
   路面電車の線路が歪む。
   裁判所の骨格も歪む。
   教会も歪む。
   かつての骨格が歪みながら、地面に崩れ落ちると、舞台後方から大きな黒い布は、人々に覆いかぶさってくる。人々、静かにスローモーションで、そこに歪んだ姿で崩れ落ちていく。
   見たことのない光の中で、聴いたことのない轟音の中を、黒い布がその人々の上に、ゆっくりと落ちていく。
   誰もがその黒い布の中で歪に捩じまがったモノとして横たわる。
   しばし、誰も何の動きもない死の世界。
   唐松富太郎、一人、ループの坂道の上から、降りてくる。

 唐松富太郎/誰もが同時に空を見上げる時、世界は幸せになるはずだった。鈍く長い轟音が聞こえた。振り返り見上げた空遠く、黒焦げのバベルの塔が立ち上がった。けれどそれは重く巨大な現実の雲だった。その雲の下には、弟の黙示録の続きがあった。俺は、一瞬で焼け焦げた在良を見つけた。在良は、浦上の天主堂の台所で死に、粉のようになった手の骨に、溶けて光る塊を握っていた。ロザリオの数珠と鎖と十字架だった。・・・・・・在良も、威蕃も、誰も彼もが等しく平等に殺されていた。そして俺だけが生かされた。(転がっているキリストの像の首に)そこに意味はありますか? 裁判長! もしも、神の裁きがあるのなら、今は戦時下ですし、これで戦争を終わらせることができたのですから、この夥しい数の人殺しが、裁かれることはないでしょう、永遠に・・・・・・被告は無罪です・・・・・・これが信仰の原野ですか? その原野には、グルーシェニカが言った、すべての罪を洗い流す、真っ白い雪は降っていません。黒い雪です。黒い雪で一面覆われた原野、ここが僕の始まりの日です。終わってしまった世界に行かされた僕の始まりの日。在良なら言うのだろうか。・・・・・・それでも空を信じよう。僕の花火が上がる空を・・・・・・・・・・・・在良・・・・・・ごめん。今は、まだ、とても・・・・・・無理だ・・・・・・でも・・・・・・いつか、きっと、いつか。

   郵便配達の少年が、歩いて現れる。
   無言で立つ。背中には、ずっと背負っていた赤ん坊の妹の首が折れたように、後に垂れ下がっている。
   少年は、口を真一文字にしたまま、まっすぐ見ている。

                           (完)」

◎NODA・MAP第27回公演『正三角関係』SPOT映像

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