堀江敏幸「既知を恐れる」(『坂を見あげて』)
☆mediopos3395 2024.3.4
ふと再読した堀江敏幸のエッセイ
「既知を恐れる」(『坂を見あげて』所収)は
ヴァレリーの
「知性を欠いた直観はひとつの事故である」
「私は未知のもの以上に既知のものを恐れる」
といった言葉からの随想である
知性を信頼するためにこそ
知性を既知の外へと導く必然的偶然へと
みずからを導かなければならない
ということでもあるだろうか
知性を信じるということは
つねにみずからの知性が
「既知の枠からはみ出す瞬間を、
不意打ちを待っている」
ということにほかならない
つまり知性はつねに
現在のみずからの知の外へ
「未知へ」と向かおうとすることによって
はじめて知性であり得る
アリストテレスが
哲学の出発点に置いた
「驚き」ということでもある
知性がみずからを守ろうとするとき
言葉を換えていえば
知性は未知への衝動を失い既知へと閉じてしまうとき
知性はすでに知性ではなくなっている
知性が未知への衝動を持つためには
現在のみずからの知性を飽和させねばならない
その意味において知がどこまでも
求められなければならない
そうでなければその「外」が導かれないからだ
ヴァレリーが
「未知のもの以上に既知のものを恐れる」
といったのは
「知っている」ということに
自足してしまうことを恐れたからだろう
ゆえに知性はつねに
「計算の外に存在する、
ほとんど偶然といってもいい事件の数々」
としての「不意打ち」をも
知性的な感性によって求めなければならない
という逆接によって
みずからを存続させることができる
その意味においては
「未知は外部にあるのではなく、内部にある」
未知への衝動は
「驚き」によってもたらされるからだ
「驚き」は「外部」にあるのではない
知性には「内部」にある「感性」が不可欠なのだ
■堀江敏幸「既知を恐れる」
(堀江敏幸『坂を見あげて』中央公論新社 2018/2)
*「知性を欠いた直観はひとつの事故である、とポール・ヴァレリーは書いている。一八七一年、南仏セットに生まれたヴァレリーは、マラルメに魅せられて象徴派的な詩を書いていた文学青年だったが、九二年、ジェノヴァの夜と呼ばれる、ほちんど転身と言っていい危機的な方向転換を体験したのち、詩作や正確さを欠いた言辞を棄てて、精神の働きのみを信じる生活に入った。そして、モンペリエからパリに上京し、九五年に『レオナルド・ダ・ビンチ方法序説』を、九六年に『テスト氏との一夜』を発表したあよ、二十年に及ぶ長い沈黙をみずからに課した。
なにもしていなかったわけではない。毎朝、後年『カイエ』として知られるようになった膨大な思索ノートをつけていたのである。一九一七年に『若きパルク』で突如詩人としての復活を遂げてからも、真の活動は、ありとあらゆる知性に基づく直観を投げ入れたこのノートになった。とりわけ目に付くのは科学や数学への言及で、ヴァレリーはアインシュタインの相対性理論をもいち早くその知性の網に捉えていた。分析、整理、統合、そして解体を繰り返す日々の持続は、たしかに知の基盤に支えられていたのである。
ただし、ヴァレリー自身も繰り返しているとおり、緻密な計算によって世界を見定めた科学をさらに高い次元へと推し進めてきたのは、じつは計算の外に存在する、ほとんど偶然といってもいい事件の数々だった。思わぬ結果が既製の器からこぼれ出て、それがべつの出発点となる。こぼれ幸とも言える結果をしかと受け止め、取り込んでいくのもまた知の働きなのだ。」
*「まったく無防備で、空手形のままふらふらしている状態にいるとき、受動的に突発するのがアクシデントだと言っただけでは否定的な言い方に聞こえてしまうのだが、このアクシデントの偶然性にも知性が関与しているとヴァレリーは言いたいのだろう。起こるはずもなさそうなことがらを待ち望むのではなく、事故ではない積極的な偶然を知性によって保証し、導き入れること。知性はたえず既知の枠からはみ出す瞬間を、不意打ちを待っている。思いがけない間合いでやってくるなにかを受け止める必然こそが知性だとすれば、これはもう感性とおなじではないか、と若かった私は納得していたものだ。」
*「ヴァレリーはまた、こうも言っていた。「私は未知のもの以上に既知のものを恐れる」。事故は未知の領域に属し、ヴァレリー的偶然はそれを待ち構えているという一点において既知でもあり、まだ生起していないという点においては未知に属している。未知は外部にあるのではなく、内部にあるのだ。ヴァレリーの知性は、だからまた、ひたすら均質で整合された形象を求める一方で、激しさを、過剰さを求める。その過剰さが積極的な偶然を呼び込んで、「驚き」を用意してくれる。内側に目を向けるために必要なエネルギーは相当なものだ。」
*「べつの箴言でヴァレリーはなおも言う。「濫用されない権力は魅力を失う」。権力を知性に置き換えるのはいささか乱暴だが、「濫用のない知性」と口に出したとたん、それは一挙に肯定的な意味を帯びる。知性が飽和したときの熱量は、事故に形のうえでは似ていながら、まったく異なる「驚き」を産み出すのだ。ヴァレリーが芸術に対して抱いているある種の偶然讃美というのも、じつのところ、このような「驚き」が多くの地歩を占めているからではないか。
心を揺さぶり、転回点を生んでいくのは、じつはこの「驚き」に対する反応だ。知の濫用が必然としてのアクシデントを招き入れ、新鮮な「驚き」を持続させる。想定の範囲内に収まるような物語や筋書きとは異なる次元で言葉を紡ぎ、既知を恐れて生きることによってしか、内なる転身を保つことはできないだろう。」