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平田オリザ「ことばと演劇」(『群像』)・『対話のレッスン』/山極壽一『共感革命』
☆mediopos3725(2025.1.30.)
劇作家演出家・平田オリザの連載
「ことばと演劇」がはじまっている(『群像』)
はじめに
初等教育で行う演劇の授業である
その場の身近なものや教員が用意した遊具などを
何かに見立てて演技をするという
「見立て」というカリキュラムについて語られている
昨夏の公開授業では小学校四年生を対象とした
教員がウレタンで出来た棒などを用意し
それを何かに見立て班ごとに寸劇を作るという構成だったが
棒を持った子どもが人をぶったりもしていたという
授業の振り返りで平田オリザは
「棒で人をぶつのは見立てではない/見立てにはなっていない」
と最初に伝えておけばよかったのではないか
また「ウレタン棒で人を叩くのは『見立て』ではない
という理(ことわり)は、
たとえば広島に修学旅行に行く小学校なら
平和学習の一環に使えるかもしれませんね。
人は武器を持ったら使いたくなる。
だから核は廃絶しなければならない」
と述べたという
ちなみに「見立て」とは
何かを別の何かになぞらえて喩え表現する行為であり
物が持つ本来の性質や用途に基づいた行為は「見立て」ではない
従って棒を棒として使って人を叩くのは
「見立て」とはいえない
また「見立て違い」という表現もあるように
「見立て」が違ってしまうこともある
演劇を授業に取り入れるというと
「子どもたちに嘘をつけと教えるのか」
と非難を受けることもあるのだというが
紙幣はただの紙切れであるにもかかわらず
それに価値を与えるのは
「嘘」ではなく「虚構」である
人間には「虚構を共有する」能力がある
演劇はその能力に関わるものであるといえる
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは
「貨幣も、企業も、国家も、そして神も」
「形のないものを信じることができる」ようになったことを
「認知革命」と呼んでいる
この革命は七万年前から三万年前に起きたとされているが
ゴリラの研究で知られる山極壽一は
『共感革命』(河出新書)において
「認知革命」の前に
「共感革命」があったのではないかと示唆している
(『共感革命』については
mediopos3273(2023.11.3)でとりあげている)
ヒト以外の類人猿にも多少の共感力はあったが
「リズムに乗って多くの者が身体を動かすといった
共感の広がりは人類だけが持つもの」で
「さらにそこに好奇心、とりわけ他者への関心が加わり、
共感の輪がひろがった」という
類人猿のなかにはエチオピア北部の高地に棲む
ゲラダヒヒという特殊なサルがいて
その家族はなわばりを持たず家族や群
さらには群が集まってできる「社会」を形成しているが
そのような類人猿はヒトとマントヒヒのほかには
このゲラダヒヒだけだという
ゲラダヒヒのこうした特異な集団形成は
その言語能力であり
「ラダヒヒの声、表情、身振り手振りは大変複雑」で
「三十種類以上の音声が観察され」
音声も単独にではなく組み合わせて使用することもある
他のサルの社会では力による支配が一般的であるため
細かいコミュニケーションのための言語は必要とされないが
「ゲラダヒヒのような重層的で平和な社会を築くためには、
どうしても複雑な音声コミュニケーションが必要とされ」
そのなかには「なだめる、懇願するなど、
人間で言えば「まぁまぁまぁ」「いやいや、そこはさ」
といった曖昧な表現が多く存在する」
そんなゲラダヒヒは
「他のサルに比べて闘争的ではないために、生存競争に敗れ
「エチオピアの高地に追いやられたとされている」が
「他の類人猿よりも身体能力に劣る人類」も
生き延びていくために「共感力」を発達させてきたといえる
そんな「共感力」から
「認知革命」の広がりとともに、
歌やダンスは少しずつ様式化され、
それが祭りや芸能、さらには演劇の起原となった」と
「ことばと演劇」の起原について語られているが
せっかく得ることのできた「共感力」にもかかわらず
人類は「戦争」をし続けている
平田オリザはこう問いかけている
「私たちは、どこで共感の道を過ったのか。
ゲラダヒヒのように「まぁまぁまぁ」という言葉を
ヒトはもう持てないのか?」
人類は「共感能力」を得ることで進化してきたが
今やそれが破壊的な未来をもたらそうとしている
「共感」によって他者とともに暮らしてきた人類が
その能力を別の集団に対する敵意という形で利用し
暴発した共感力が戦争や他の集団との争いに
つながってしまっているのである
「共感」がネガティブに働いたとき
そこに武器があれば使いたくなる
そしてそのとき
小学四年生がウレタン棒を人をぶつために使うように
「見立て」という想像力/創造力の働かないまま
「武器」が「武器」として過剰使用されてしまう
その「武器」には「言葉」もあるだろう
「言葉」による攻撃によって「戦争」さえ生まれる
平田オリザが演劇の授業で
「見立て」というカリキュラムを用いるのも
その「見立て」の力を
想像力/創造力として働かせるためなのだろう
■平田オリザ「ことばと演劇」(新連載/『群像』2025年2月号)
■平田オリザ『対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術』
(講談社学術文庫 2015/6)
■山極壽一『共感革命: 社交する人類の進化と未来』 (河出新書 2023/10)
**(平田オリザ「ことばと演劇」)
*「初等教育で行う演劇の授業の一つに「見立て」というカリキュラムがある。教室や体育館で、身近にあるものを何かに見立てて子どもたちが様々に演技をする。その場の身近なものを「見立てる」こともあれば、教員があらかじめ用意した遊具などを使って授業を進める場合も多い。
昨夏、私が見せていただいた公開授業は小学校四年生が対象で、あらかじめ教員がウレタンで出来た棒や円盤状のもの、小さな三角錐(コーン)など安全な遊具を用意し、それを何かに見立てて、四、五人の班ごとに寸劇(三十秒から一分程度のもの)を作るという構成だった。
私立の小学校で、日頃から「演劇」の授業があり、児童たちも慣れているようで楽しみながら様々な「見立て」を行っていた。ただもちろん、まだ四年生だからウレタンの棒を振り回して隣の子を叩いてふざけてしまうといった光景も見られた。
授業の振り返りの研修会では、何人かの教師がこの点について言及した。「棒を持つと子どもたちはすぐに人をぶってしまうので、棒は用意しないほうがよかったのではないか」という意見もあれば、「小学四年生ならば、あれくらいは仕方がない。安全は確保されていたし」という先生もいた。
この日は午後から私が教員対象のワークショップと演劇をすることになっていて特別ゲストという扱いだったので、午前中の公開授業の振り返りでも最後に総括を述べることになった。
私はウレタン棒の是非について「棒で人をぶつのは見立てではない/見立てにはなっていない」と最初に伝えておけばよかったのではないかと申し上げた。実際、この授業の冒頭で担任の先生は、手近にあった傘を持って「傘を傘として使うのは見立てではありません。何か他のものに見立てて面白い芝居を作ってください」と指導していた。
さて、私のライフワークの一つは、日本における演劇教育の普及・推進なのだが、演劇を授業に取り入れるなどと言うといまだに「子どもたちに嘘をつけと教えるのか」と言いがかりのような非難を受けることがある。この点について、最近、私は以下のような文章を書いた。
******************
私はそんなときよく、財布から一枚の紙幣を取り出し「これは何ですか?」と逆に問いかける。質問舎は怪訝な顔で「お札です」と言う。私は続けて「でも本当は何ですか?」と問いかける。答えは必ず「・・・・・・紙です」となる。
「これをお札と呼び、このただの紙切れに価値を与えるのは嘘ではないんですか? 嘘と言って失礼なら虚構と呼んでもいいのですが」
「虚構を共有する」この能力のことを、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは「認知革命」と呼んだ。数万年前、ホモ・サピエンスは自分の主観だけではなく、他人も同じものを認識していると感じる能力を持つに至った。この「
虚構を共有する力」によって、私たちは形のないものを信じることができるようになった。貨幣も、企業も、国家も、そして神も。(暉峻淑子『サンタクロースを探し求めて』岩波現代文庫 解説より)」
******************」
『サピエンス全史』で使われる「認知革命」は、歴史上七万年前から三万年前あたりに起きたとされるホモ・サピエンスの認知能力の革命的な変化を指す。その核心部分が、先に示した「虚構を共有する能力」だ。
霊長類研究所、とりわけゴリラの研究で知られる山極壽一氏は、『共感革命 社交する人類の進化と未来』(河出新書)において、この認知革命論を土台としながら、さらに「認知革命」の前に「共感革命」があったのではないかと指摘している。」
「他の類人猿にも多少の共感力はあった。しかしリズムに乗って多くの者が身体を動かすといった共感の広がりは人類だけが持つものだ。さらにそこに好奇心、とりわけ他者への関心が加わり、共感の輪がひろがった。」
*「多様な音声という点で思い出されるのは、ゲラダヒヒという特殊なサルの話だ。もう三十年近い昔になるが、私は当時、日本の霊長類研究の第一人者であった故・河合雅雄先生に、専門であるこのゲラダヒヒについて、お話を伺ったことがある。この件は、その後『対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術』 (講談社学術文庫)という書物に詳しく書いたのだが、重複を怖れず加筆修正して記しておこう。」
「ゲラダヒヒはエチオピア北部の高地に棲むヒヒの一種だ。このサルは、進化の系統から考えるとチンパンジーやゴリラといった類人猿と比べてヒトから遠い存在である。ちなみに英語では類人猿=apeとサル=monkeyは厳しく区別される。(・・・)ゲラダヒヒはapeではなくmonkeyだ。
しかしこのゲラダヒヒは、類人猿よりも複雑な社会を形成している。まず、ゲラダヒヒの家族は、不思議なことに、なわばりを持たない。いくつか家族が集まってバンドと呼ばれる群を形成する。家族と、その上位の集団(例えば村)といった重層構造を持った社会を形成しているのは、霊長類のなかでもマントヒヒ、ゲラダヒヒと、そしてヒトしかいない。チンパンジーは群単位で行動するし。ゴリラは家族単位で行動する。ヒト以外の類人猿は、一つの共同体にしか所属しない。
ゲラダヒヒの群には、上下関係もないとされる。群を構成する家族同士は対等で、きわめて平等な社会を築いている。多くの生物は個食だが、ゲラダヒヒだけは二匹で一つの餌を仲良く並んで食べる行為が見られる。上下関係のある弱肉強食の野生の世界では、そういったことは決して起こらない。
ゲラダヒヒも野獣だから、小さな衝突はある。しかし他のサルなた、そういった衝突の際には序列の上のものが下のものを威嚇し、時に噛みついたりして追い払うだろう。ところがゲラダヒヒの場合には、暴力は使わずに、なだめたりすかすなどして、どうにか物事を丸く納める。相手からの攻撃を事前に回避したり、攻撃性を和らげたりして寛容な仲間関係を作る。
また、この非能力主義は、群の内部だけではなく、外部に対しても示される。大きな群同士が偶然出会い、互いに何事もなかったかのように融合して、悠々と餌を食べ合っている姿は感動的でさえあるという。
すなわち、ゲラダヒヒは、家族、群にとどまらず、こうして一次的にではあるが、いくつかの群が集まって出来るさらに大きな地域共同体とでもいうべき「社会」までをも形成するのだ。
逆に言えば、ゲラダヒヒにはなわばり意識がなく、したがって他のサルに比べて闘争的ではないために、生存競争に敗れ、気候変動などもあいまって海抜三千メートルのエチオピアの高地に追いやられたとされている。」
*「この特異な集団形成を可能にしているのは、ゲラダヒヒの言語能力だ。言語といっても人間のそれと単純には比較出来ないが、河合先生の話では、ゲラダヒヒの声、表情、身振り手振りは大変複雑で、見ていて少しも飽きないのだそうだ。
この特殊なサルに関しては、三十種類以上の音声が観察されている。また、色々な意味の音声を単独で発生するだけではなく、ときにそれを組み合わせて使用している例もある。
力による支配が一般的な他のサルの社会では、細かいコミュニケーションのための言語は必要とされない。(・・・)だがゲラダヒヒのような重層的で平和な社会を築くためには、どうしても複雑な音声コミュニケーションが必要とされる。現にゲラダヒヒの持つ伝達メッセージのなかには、他者を安心させる、なだめる、懇願するなど、人間で言えば「まぁまぁまぁ」「いやいや、そこはさ」といった曖昧な表現が多く存在する。他のサルのコミュニケーションが、喜怒哀楽といった激しい感情表現のレベルにとどまっているのとは大きな差異がある。」
*「ヒトもまた、ゲラダヒヒと同じくジャングルから追い出された残存種であった。私たちは、腕力ではゴリラどころかチンパンジーにも勝てない。ジャングルから逃げてしまった私たちは木登りも恐ろしく下手だ。」
「他の類人猿よりも身体能力に劣る人類が、ジャングルを出て危険の多いサバンナに降り立って生きていくためには、群で生活し互いに協力しあって子どもを育てていく必要があった。そのためにホモ・サピエンスの登場以前から、ヒトは「共感力」を発達させてきたのだろう。
言語の獲得以前に、私たちはおそらくダンスや歌で身体のリズムを他者と同調させ、コミュニケーション能力を発達させてきたのではないか。食べ物を仲間のところに運ぶことが可能になった人類は、その結果として、一つの食卓(おそらく最初は火)を囲み、食事を仲間と分かち合う習慣が生まれた。個食ではない「共食」も人類だけが持つ特徴だろう。これらが山極氏が指摘する「共感革命」だ。」
*「やがてホモ・サピエンスが世界を席巻し、言語の発達、そして「認知革命」の広がりとともに、歌やダンスは少しずつ様式化され、それが祭りや芸能、さらには演劇の起原となった。」
*「中近東の情勢は渾沌としている。イランの現政権に対して批判的な人々にとっては、パレスチナの問題にも複雑な思いがあるだろう。
戦争が止まらない。
私たちは、どこで共感の道を過ったのか。ゲラダヒヒのように「まぁまぁまぁ」という言葉をヒトはもう持てないのか?
私は冒頭に記した公開授業の振り返りで、次のような話もした。
「ウレタン棒で人を叩くのは『見立て』ではないという理(ことわり)は、たとえば広島に修学旅行に行く小学校なら平和学習の一環に使えるかもしれませんね。人は武器を持ったら使いたくなる。だから核は廃絶しなければならないと」」
**(山極壽一『共感革命: 社交する人類の進化と未来』 )
・はじめに
「共感によって進化した人類は、今、共感によって滅ぼうとしている。」
「人類の繁栄は、約七万年前の言葉の獲得が大きな起点だったとされている。言葉の獲得によって「認知革命」が起き、現在までの発展につながったというのだ。
しかし私は、この「認知革命」の前に、もっと大きな革命があったのではないかと考えている。それは「共感」による革命だ。人類は「共感」によって仲間とつながり、大きな集団を形成し、強大な力を手にした。「共感革命」こそが、人類史上最大の革命だったのではないか。
そうやって進化したはずの私たちだが、現在、大きな危機に瀕している。
人間の本性は暴力的だと思い込み、いつの間にか争いが当たり前になってしまった。同じ種でありながら憎み合い、殺し合う。仲間を仲間と認識せずに排除する。(・・・)人類を進化させたはずの共感が暴走する時代を迎えているのだ。
だが、思い出してほしい。
(・・・)私たちが二足歩行を選択したのは、仲間の存在、気持ちを想像し、仲間のために離れた場所から食物を運ぶためだ。それは弱みを強みに変える人類特有の生存戦略の出発点だった。それ以来私たちは、長い間、「共感」によって他者とともに暮らしてきたのだ。」
「今こそ「共感」の起原、歩んできた歴史を見直し、新たな未来への第一歩を考えていきたい。」
(「序章 「共感革命」とはなにか————「言葉」のまえに「音楽」があった」より)
「歴史は繰り返すと私たちはよく口にする。しかし今こそ、歴史の繰り返しを止めないといけない時期だ。
資本主義経済と自由主義が科学技術によってサポートされ、後戻りできない場所まで来てしまった。私たちがここまで来たのは、ある面では進歩の結果かもしれないが、間違いの結果でもある。その一番典型的なものが戦争だろう。地球環境破壊が進んでしまったのも、あるいはもっと身近なレベルでいえばいじめだって、歴史のどこかで人間が間違えたから起こったものだ。我々はどこで間違えたのかを、真剣に考え直さなければ、未来は拓けない。」
「政治家はよく二つのことを言う。「後戻りはできない」「あなたの言っていることは絵に描いた理想」だと。でもそれは違う。後戻りはできるし、私たちは理想を掲げなければ前には進めない。人類は言葉を持ち、その言葉によって虚構をつくった。より豊かな未来を虚構によって描きながら進んできた。言葉のない時代と言葉のある時代では、進むスピードが全く違う。言葉のない視覚優位の世界では、現物を見なければ納得できなかったのに、言葉ができてからは、現物を見なくても情景が描けるようになった。しかしその虚構は、やがて科学技術と手を組み、地球環境の破壊へと進んでしまった。
今、改めてリアルな世界と通じる虚構をつくらなくてはいけない。これまで人類が描いてきた虚構は間違っていた。だから私たちは過去に戻り、これまでとは違う別の虚構をもう一度つくり直し、未来を変えなくてはいけない。」
・第一章 「社交」する人類————踊る身体、歌うコミュニケーション
「人類の共感能力は、直立二足歩行を始めたことによって高まった。」
「直立二足歩行による世界の拡大は、人類の進化にとって相当大きな出来事だった。直立二足歩行によって自由になった手で食物を安全な場所に持ち帰り、仲間と一緒に食べる。そうすることにとって、これまでにはない社会性が芽生えた。自分で獲得したわけではない食物を食べる経験によって、見えないものを欲望できるようになったのだ。」
「サルや類人猿を観察していると、基本的に食物は見つけた場所でしか食べないし、離れた場所にいる仲間に分配することもない。(・・・)しかし人類は、自分の目だけを信じるのではなく、持って来た仲間を信じて食べるという、信頼感を持っている。」
「人類は何万年もかけて、共感力を育て上げてきた。
小規模な社会で共感力は発達史、大きな社会を構築していく上で、巨大な力を発揮した。だが、共感力は大きな効用とともに残酷な悲劇をももたらした。その能力は方向を間違え、戦争のような取り返しのつかない事態を招いてしまった。
人類の間違いのもとは、言葉の獲得と、農耕牧畜による食料生産と定住にある。
長い間、人類は個人の所有という概念を持っていなかったし、定住もしていなかった。」
・第七章 「共同体」の虚構をつくり直す————自然とつながる身体の回復
「私はまず、資本主義の基になっている還元主義的な考えを改めるべきだと思う。それには人と人、人と自然つながりを再認識することが必要だ。これまで私たちは自然から距離を置き、自然を操作可能なものとして搾取し、利用してきた。果ては人間自身も、自分の臓器や心までも改造しようとしてきた。
その際、私たちはとった方法は、対象を分類して部分別に切り分け、それらを徹底的に分析してそれぞれの機能を高め、ある目的のために統一して機能を発揮させるように仕向けることだった。しかし、これまで見てきたよういに、自然も人も部分に切り分けられるものではなく、すべてが繋がり合って影響を与え合っていると考えるべきなのである。」
「これまで人類は、科学技術に頼って個人の欲求を満たし、個人の能力を拡大するように技術を使ってきた。これが現代における生き方で、その典型が自己実現、自己責任論だ。まわりに迷惑をかけなければ個人の実現を目指して何をやってもいいという思想が広まった。自分がやったことは自分で責任を持ちなさい。自分が成功したら自分で褒めてあげなさい、というのが一九八〇年代から現代にまで行き渡った思想である。
しかし、それではもう生きられなくなってきている。迷惑を掛け合ってもいい、という社会に戻さなくてはいけない。社会の至る所にひずみができ初めて、格差が広がっている。能力の違う者同士が助け合って、自分にはできないことを他人にやってもらい、他人にできないことを自分が率先してやり、協力し合って生きていく。」
・終章 人類の未来、新しい物語の始まり————「第二の遊動」時代
「人間の共感力は高めることが可能なのかと問われれば、十分可能だと私なら答える。」
「共感力だけならサルにもある。しかし人間の場合はそこに認知能力が加わり、共感力をより高く発達させた。
共感と同情は違うものだ。共感は相手に共鳴し、相手の気持ちがわかることを指す。英語で共感は「エンパシー」で、同情は「シンパシー」になる。シンパシーは共感の上に成り立つものだ。進んで自分から助けることが相手のためになる、とわかっていないと成立しない。
(・・・)
さらにもう一段階、認知能力が上がると、今度は「コンパッション」になる。つまり一人ではなく、みんなで助けようという気持ちが湧いてくるのだ。人間は誰かがある方向を指差したとき、その方向にみんなが目を向け、その時に何が起こっているかを瞬間的に共有できる。(・・・)「視線共有」だ。これがサルや類人猿にはできない。
誰かがある方向を見ていると理解し、みんなが視線と同じ方向を共有し、その場で何が起こっているのか理解した上で、みんなと一緒に行動しようという考えを人間は持つ。このコンパッションに至るまでは人間の共感力だ。(・・・)
共感力は、心や体の成長とともに、経験を積むことによって身についていくものだ。人間はサルと違い、元々そういう能力を持っていて、その能力はだんだんと成長していく。」
「共感能力と認知能力は違う。共感能力とは、相手の気持ちを感じること、認知能力は相手の考えや意図を知ることだ。本来はそれぞれ違う能力であって、人間はこの二つをそれぞれ発達させて合体し、コンパッションという相手を思いやる気持ちと行為を生み出した。相手のシチュエーションが自分とは違うことを認識し、自分がどう振る舞ったら相手の役に立つかを想像できるようになったのだ。
反面、共感力は悪いことにも使えてしまう。相手の気持ちがわかるからこそ、相手をいじめてやろうという方向にも進みかねないのだ。共感力を高めたことは、人間にとって利益をもたらすだけではなく、ネガティブな結果ももたらしている。相手がどういう気持ちを抱くかがわかるから、気に食わない相手を陥れることも可能になってくる。ここにパラドックスが生まれてしまう。」
「やはり、人類は虚構の使い方を間違えたのだろう。
もちろん使い方を間違えなければ、虚構は人類に幸福をもたらすこともあるし、これまでもその恩恵の中にあった。
しかし、そのために私たちは、強い倫理感を持たなければならない。そうでなければ、恩恵へとフリーライダーも出てくるし、邪なことを考える人間も出てくるだろう。
科学技術も本来は人間に恩恵をもたらすものだった。
(・・・)
科学技術は使い方を間違えると大きな災厄になる。(・・・)新しい技術を開発すればするほど、技術が悪いことに使われる可能性をもう一方で考え、賢く使わなくてはいけない。これまでその規制ができなかったことを深く反省しなくてはいけないだろう。」
「元々、共感力は小規模な社会の中で、人々が助け合って生きるために大きな力を発揮した。しかしその能力は別の集団に対する敵意という形で利用されてしまった。敵意を共有できれば、自分たちの集団は結束できる。そうやって暴発した共感力は、戦争や他の集団との争いにつながった。そんな歴史の苦い教訓が常に私の脳裏にある。
共感力は小規模な社会でしか通用しない。それが集団の外や大規模な社会では違う目的で使われてしまうことを肝に銘じないと、うまく使いこなせないのだ。」