中村昇「哲学者は何を言っているんだ?」/「もの」と「こと」/限りなく「絶対無」に近い「存在」
☆mediopos2694 2022.4.2
ハイデガーのいう
「存在」と「存在者」
という存在論的差異は
日本語の「こと」と「もの」
としてとらえることができる
としているのは木村敏(『時間と自己』)である
芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」は
「こと」(「存在」の次元)を表現しているのだという
「「もの」たちが関係することによって、
手で触ることも眼で見ることもできない「こと」」が、
「たしかに「現れている」」
「ことはものに現れ、ものはことを表し、
ものからことが読みとれる」というのである
その「こと」を「存在」に
「もの」を「存在者」の置き換えれば
「存在は存在者に現れ、存在者は存在を表し、
存在者から存在が読みとれる」ということになり
「「存在者」が存在できるのは、
「存在」の次元があるから」であり
その意味でいえば
「存在」は「存在根拠」であり
「存在者」は「認識根拠」である
「もの」(存在者)がなければ
「こと」(存在)にたどり着く手がかりはないけれど
「こと」(存在)
さらにいえば
「存在そのもの」(純粋存在)は
「限りなく「絶対無」」に近いといえる
ベルクソンは「絶対無」は言葉にすぎないとしたが
それに対してレヴィナスは
「純粋存在」は、「純粋無」ではなく
「存在というあり方で<ある>」(il y a=イリヤ)だと言った
「イリヤ」は「存在者(物)」なき「存在」という「ある」なのだ
哲学者の議論は
なんだかむずかしいそうにみえるけれど
(実際にとてもむずかしい言い方をするけれど
そして西欧では「無」が避けられる傾向にあったからだけど)
たしかに「もの」と「こと」としてとらえれば
すべての根底には「もの」が生まれてくる
「無」としての「こと」はたしかにある
それを西欧でさらにあえていえば
プラトンの「イデア」を「こと」としてとらえてみると
「イデア」は「無」だが「ある」ともいえるのかもしれないし
むしろ「もの」によって「こと」が知られるということからいえば
「ことはものに現れ、ものはことを表し、
ものからことが読みとれる」のだから
「こと」はアリストテレスの「エイドス」(形相)や
ゲーテの示唆している「原植物」の「原」とも
近しいといえるようにも思える
■中村昇「哲学者は何を言っているんだ?」
・連載11回 「もの」と「こと」
・連載12回 限りなく「絶対無」に近い「存在」
(「トイ人」の連載より)
https://www.toibito.com/series/series-1/3281
(「連載11回 「もの」と「こと」」より)
「「存在論的差異」(「存在」(Sein)と「存在者(物)」(Seiendes)との違い)については、ハイデガーみたいに、もったいぶってあれこれ言わずに、ひじょうにわかりやすく説明してくれる人がいます。木村敏さんです。『時間と自己』のなかで、「こと」と「もの」という概念をつかって実に見事に説明しています。
(…)
木村さんは、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を例にだします。この句は、まさに「こと」(「存在」の次元)を表現しているというわけです。
日本人ならばだれひとりとして、この俳句をものの世界の単なる報告文として読む人はいないだろう。ここには一つのことが隠されている。このことは、蛙の飛びこんだ古い池の水の音のあたりで生じていることかもしれないし、芭蕉の心の中で生じていることなのかもしれない。あるいは、音と芭蕉とのあいだに生じていることだというのが一番正しいかもしれない。(『時間と自己』中公新書、23頁)
われわれ日本人が使う「こと」という語は、とても不思議な単語です。この語が意味する事態は、どこにも具体的な姿を現すことはありません。われわれが確認できるのは、「もの」だけなのです。古い池の水、飛び込む蛙、水の音などの眼で見て手で触って耳で聞くことのできる「もの」たちです。ところが、それらの「もの」によって、そして、その「もの」たちが関係することによって、手で触ることも眼で見ることもできない「こと」(古池や蛙飛び込む水の音)が、たしかに「現れている」というのです。
この「こと」と同じあり方をしているのが、ハイデガーのいう「存在」ということになるでしょう。「あり方」などというおかしな言葉を使いましたが、ちょっと言葉にするのは難しいですね。それは、「存在」と「こと」とが、同じだということを表す言葉(言葉は、ものですね)がないからだと思います。言葉にはできない領域に、「こと」と「存在」は「ある」とでもいうほかありません。
木村さんは、「もの」と「こと」との関係を、最後につぎのように見事に表現します。
ことはものに現れ、ものはことを表し、ものからことが読みとれる。(同書、24頁)
「こと」が成立しているということは、だれにでも理解できる。しかし、「こと」そのものは、そのものとして表現したり、知覚したりできるものではない。表現したり知覚できるものは、すべて「もの」にすぎない。しかし、「こと」がないかぎり、「もの」も意味をもたないし、「もの」がないかぎり、「こと」はみずからを示すことができない。こういう関係だと思います。
これは、そのままハイデガーのいう「存在」と「存在者(物)」との関係にも当てはまるように思います。「存在」という次元と「存在者(物)」という具体的なものとは、明らかにちがう。同じ地平で比べることはできない隔絶したちがいです。ところが、「存在者(物)」を見て触って聞くことで、「存在」というあり方を、私たちは知ることができるし、それら「存在者(物)」とかかわることで、「存在」という概念にたどり着き、「存在とは何か」という問を、われわれは発してしまう、というわけです。
木村先生の言い方を借りれば、「存在は存在者に現れ、存在者は存在を表し、存在者から存在が読みとれる」と言えるでしょう。これはまた、われわれは、「存在者」から出発し、「存在」の次元に気づくということ、そして、「存在者」が存在できるのは、「存在」の次元があるからだとも言いかえることができる事態だと思います。難しいいい方をすれば、「認識根拠」(「存在者」)と存在根拠(「存在」)ということになるでしょう。」
(「連載12回 限りなく「絶対無」に近い「存在」」より)
「「もの」(存在するもの)によって「こと」(存在)が現れる。つまり具体的に存在するもの(机、鉛筆、人間、犬など)がなければ、「存在そのもの」は確認できないということでした。当たり前ですよね。「存在」という事態は、「存在者(物)」が満ちみちているということなんですから。「もの」が無ければ「こと」(存在そのもの)にたどり着く手がかりは全くありません。」
「「存在者(物)」のいない「存在そのもの」の透明な領域は、たしかに何だかよくわからない場所です。だって、「存在」とは言いながら、「存在しているもの」が、一つもないのですから。「存在者」のいない「存在」という場なのですから、よく理解できないのは、しょうがありません。
こういう不思議な場所ですから、たしかにこの領域を「無」と言ってもいいかもしれません。「存在しているもの」は、どこにもないのですから。ただ、「存在者」がその場所に現れる可能性はあります。何と言っても、あくまでもその場所は、「存在そのもの」(純粋存在)なのですから、いわば、存在側に偏倚している(?)のです。何かが存在する準備はできているのです。存在する可能性は、<ある>と言っていいでしょう。」
「ヘーゲルは、この存在と無とのぎりぎりの境界面(あるいは接触面)を、こういう言い方で表現したのだと思います。「純粋存在」と「純粋無」は、いわば表裏一体であり、決して分離はできないけれども、しかし、表面から裏面へ、裏面から表面へと移ることはできない、つまり、表裏反対の面という、次元を異とする隔絶したあり方をしているとでも言えるでしょう。
純粋存在の方は、存在者(物)が登場すれば、それを対象化し、存在について具体的に語ることができる。しかし、裏面の純粋無は、絶対に金輪際、存在者は現れない。したがって、最初から最後まで認識も対象化も絶対にできない。ただ、われわれには、言語という面妖な道具があるので、対象化も認識もできないものなのに、言語化はできる。つまり、「純粋無」や「絶対無」と言うことはできるというわけです。つまり、ベルクソンが言ったように、「絶対無」は、言葉にすぎないのです。言葉だけの「もの」なのです。」
「レヴィナスは、存在者をすべてなくした「存在」の領域を、「純粋無」とは考えませんでした。
「純粋存在」は、「純粋無」ではなく、存在というあり方で<ある>(フランス語でil y a=イリヤ)というのです。この「イリヤ」は、「純粋無」の裏面というのではなく、「存在」の一番基底に<ある>のです(このフランス語の「il y a」というのは、英語でいえば「there is~,there are~」というのと同じです。「~がある」という意味です)。
レヴィナスの言い方を借りれば、光(存在者)がすべて消えてしまった闇こそが、「イリヤ」なのです。この「闇」(イリヤ)は、通常は「無」といわれるものですが、レヴィナスは、そこに「存在そのもの」(純粋存在)が残っている、つまり「存在そのもの」が<ある>と考えたのです。言いかえれば、レヴィナスの「イリヤ」は、「~がある」の「~が」がすべて消滅してしまった後に残る「ある」ということになるでしょう。再び物理学の用語を使えば、電荷をおびたものは何もないが、「場」(field)だけが<ある>ということになります。「存在者(物)」なき「存在」というわけです。」
「ハイデガーの「存在論的差異」によって析出された「存在」という概念を、もっとわれわれに身近で、われわれの基底にべたっと貼りついている<ある>という事態だと、レヴィナスは考えた(無理やり変更した?)ということでしょうか。どんなに具体的な「存在者(物)」がいなくなっても、「薄く粘っこく闇そのもののようにこの世界に貼りついているもの」が、<ある>といったイメージでしょうか。」
・連載11回 「もの」と「こと」
https://www.toibito.com/series/series-1/3281
・連載12回 限りなく「絶対無」に近い「存在」
https://www.toibito.com/series/series-1/3319
(「トイ人」の連載より)