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田村均「宇宙と世界」(『コスモロジーの闘争(【岩波】新・哲学講義5)』)

☆mediopos-2461  2021.8.12

宇宙と世界はどう違うか

「universe」と「world」の
訳語のようにイメージされるが
その両者はラテン語では同じ「mundus」の訳語であり
ギリシア語では「コスモス(κοσμος)」にあたる

ちなみにドイツ語のWeltは
世界であり宇宙であり天体であり
星々の宇宙でもあり地上の世界でもあるので
日本語に訳すときには
その意味合いにより
宇宙にするか世界にするかが分かれてくる

宇宙は天体的なイメージが強く
世界は地上的なイメージが強いので
宇宙観と世界観という言葉でも意味合いが違ってくる
宇宙は人間から離れた天体的なイメージがあるが
世界は人間と関わった地上的なイメージがあるのである

宇宙と世界の捉え方は
時代とともに変化してきた
それはデカルト以降
魂と物体・身体を
分けるようになったこととも関係している

近世以降は天文学が飛躍的に進んできたが
その天文学では人間の魂との関係は論じられず
それを論じるのは占星術ということになる
かつてはその両者は分かれてはいなかった

現代の科学的世界観では
人間の魂や世界で起こる事象は
星々の世界と関連づけて論じられることはないが
かつての神話的な世界観や現代における占星術においては
その関係こそが物語られているといえる

しかし今世紀初頭から量子力学的な世界観が広がるにつれ
(実際の世界ではそれ以前の素朴な世界観のままだが)
そうしたことは微妙となってきているところがあり
人間原理のような宇宙論さえも論じられていたりする

科学者を自称する人のなかには
魂など存在せず
それを脳の働きに還元することも少なくないが
じっさいのところ
天文学的な物質的世界と
わたしたち人間の魂の世界との関係は
「現代の科学では説明できない」
としかいえないというのは実際のところだろう
「説明できない」ことは
存在しないことではないにもかかわらず

宇宙と世界はどう違うか
というその問いは
わたしたちがどのような
「コスモロジー」を持っているかによって
異なった意味を持ってくる

かつては宗教によるコスモロジーが主だったが
現代では多くのばあい
科学(主義)によるコスモロジーが主となっている
(だからそれは信仰的なまでに絶対化されたりもする)

どちらを生きるにせよ
またあらたなコスモロジーを生きようとするにせよ
みずからがどんなそれを生きているのか
生きようとしているか
それを意識して生きることが必要ではないだろうか

■『コスモロジーの闘争(【岩波】新・哲学講義5)』
 (岩波書店 1997.12)

(「IV 定義集」〜田村均「宇宙と世界」より)

「宇宙は星々のあるあたり、世界は人々が住んでいるところ、こんな使い分けが漠然と現代の日本語にはある。現代宇宙論の難問は天文学が解くけれど、現代世界の難問は政治学や経済学が扱う。もちろん、神が世界を創造したと言えば、全宇宙を創造したという意味だから、この使い分けは大まかなものではある。「宇宙」も「世界」も由緒正しい漢語だが、今では英語の「universe」と「world」の訳語のように感じられる。一方、「universe」と「world」は、羅英辞典において「mundus」の訳語として並ぶ。ラテン語のムンドゥスは宇宙や世界を意味するとき、ギリシア語のコスモス(κοδμοζ)に相当する。そして、コスモスは広く秩序を意味し、特にピタゴラス派では天体の成すよき秩序のことであり、一般に宇宙の意となる。というわけで、はたして星々のあるところと人々の住むところで、その秩序が同じか違うかというあたりに、宇宙と世界の何とはなしの違いをさぐる手がかりがある。
 天文学には古代オリエント以来の長い歴史があるが、宇宙論として近代にまで影響を及ぼしたのは、アリストテレスに由来する天球の理論である。天球とは、星がくっついて回転する巨大な球である。この球体の内側、中心にあたるところに球形の大地がある。天球は一つではない。諸天体の運動がちゃんと説明できる数だけある。アリストテレスはその数を五五としたが、中世には、おおむね地球から順に月天球、水星天球、金星天球、太陽天球、火星天球、木星天球、土星天球、恒星天球の八つがあるとされた。近世初頭まで、宇宙はこれらの難渋もの同心天球によって閉じられた全体として思い描かれていた。
 アリストテレスは、月天球を境に天上の領域と月下の領域とを分けた。天体は永遠不変の円運動をしているが、われわれの身の回りの物体は明らかに永続的ならぬ不規則な運動しかしない。ここからして天上界と月下界とではそもそも物のできが違わねばならない。つまり元素が違う。月下界は、火、風、水、土の四元素から成るのみ対して、天上界はアイテールと称する第五の元素から成る。アイテールは永遠的自発的に円運動をなす性質を持つが、他の四元素から成る物は、上から下へとか熱から冷へというような終局を持つ運動しかなし得ない。星々のあるあたりと人々の住むところとでは、こうして運動変化の根本の秩序が違うのであった。
 コペルニクスの地動説にも天球という考え方は生き残っていた。天球概念は、一七世紀のデカルトの自然哲学で決定的に破られる。デカルトは、円運動を完全な運動と見なすドグマを捨て、運動の根源的形式を慣性的な直線運動であるとした。同時に、物質を三次元空間そのものと見て、物質的宇宙の全体をユークリッド空間と見なした。無際限の幾何学的空間の中を諸天体が動くのであり、その運動の秩序は地上の物体の運動法則と基本的には変わらない。宇宙を閉ざす天球の重なりは消え失せ、天上界と月下界の区別は無意味になったのである。
 とはいえ、人々の生の秩序と自然物の運動の秩序が一つになったわけではなかった。物質はヒトの身体においても宇宙の果てにおいても同一の法則に従うが、人間の魂のあり方と根本的に違う、とデカルトは考えた。アリストテレスでは、天体は生ける神的な存在であり、また生物が月下の自然物の典型であった。いわば、生あるものとしての全宇宙が、天上界と月下界に分かたれていたのである。これに対し、デカルト以降、近代においては、思惟する魂の生の秩序と空間を占有する物体の運動の秩序とが截然と分かたれた。物心二元論である。以来、魂と物体の関係、特に魂と身体の結びつきが難問になる。われわれは、古代よりはるかに進んだ天文学を得たが、依然として、全宇宙の秩序における人間的生の位置は解らない。宇宙と世界の曖昧な使い分けは、たぶんこの解らなさの現れなのである。」

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