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保坂和志「連載小説72 鉄の胡蝶は夢は記憶を歳月は彫るか」(『群像』)/デヴィッド・グレーバー『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』

☆mediopos3537(2024.7.24)

デヴィッド・グレーバーの『万物の黎明』を
最初にとりあげたのはmediopos3256(2023.10.17)だが

保坂和志の「鉄の胡蝶は夢は記憶を歳月は彫るか」
(『群像』で連載中の連載小説)のなかで語られた
『万物の黎明』の訳者・酒井隆史との対談予定についての話は
mediopos3281(2023.11.11)と
mediopos3463(2024.5.11)でとりあげている

ちなみに当初2023年11月18日に行われるはずの対談は延期され
実際に行われたのは2024年5月26日のこと
今回はその対談後の話である

『万物の黎明』では副題に
「人類史を根本からくつがえす」とあるように
これまで事実であったかのように示されてきた
人類史を見直すための視点が示唆されている

それによればほんらいの人類の歴史は
遊び心と希望に満ち可能性にあふれたもので
「人類はさまざまな可能性を試しては放棄し、
試しては採用する、イヤになったらとんずらしたり、
別のシステムをつくったりする」
そんな「遊戯」であるという

mediopos3281(2023.11.11)では

「カラヤンの指揮による演奏」が
「寸分のズレもなくきっちり足並みが揃っている」のに対し
「バーンスタインの指揮にはぞろっとしたズレがある」という
「寸分のズレのなさ」に不自然さを感じたことが

「「未開」社会」における
変わりもの(エキセントリシティ)に対する寛容」と
関連づけられている

「寸分のズレのなさ」が「本当に厄介」なのは
「一貫性」が求められることで
「全、一、秩序、中心、それらを良しとする世界観支配」が
浸透していきかねないということであるという

これまでの人類の歴史はそうした世界観によるもので
そこでは「変わりもの(エキセントリシティ)」は
許されなくなってしまい
言葉にならない状態そのものが
単に「不完全」なものとして排されてしまうことにもなっている
というのである

またmediopos3463(2024.5.11)では

『万物の黎明』は人類の歴史の既定路線とされていることを
根底からとらえ直そうとするものだが
人類の歴史にかぎらずなにかを探求するというとき
最初に「既定路線」を前提としてしまうと
「既成の価値観や学説を言い方を変えて擁護する」
ことにしかならないことについてふれた

「人類の歴史には既定路線、
こうとしかなりえなかったなんてことは何もない、
人類の社会はいまあるこのような形とは
まったく違う姿になりえたということ」が
『万物の黎明』では繰り返し語られている

さて今回は以上のことをふまえながら

「後の時代で前の時代を説明する、
結果を見てから原因を捜しはじめる、
運命が人間に理解できる程度のものだと思う」

そんな思考を「完全に払拭して、
誠実に、のろのろと、ぎこちなくであってもいいから、
ただひたすら前方向だけの思考を積み重ねる」
必要があることが示唆されている

グレーバは「農耕以後の世界観で
農耕のはじまりを説明しようとしてはいけない、
農耕をはじめたのは
農耕以前の社会に生きていた人たちであった」し

農耕がこの土地ではじまったというように
その初源を特定できるものでもなく
(人類は今の我々から見るととても気まぐれに
はじめてみたりやめたりを繰り返していた)

そしてそのことは「彼らが知的に劣ったからでなく、
彼らは意識的にそうなることを避けてもいた」
というのである

現代では「「名もなき」という言葉には
独特のバイアスがかかって」いて
「民藝やアーツ&クラフツ運動の「名もなき職人」」でさえ
「名の知られた人が先にいてそれに対する「名もなき」」
となっているのだが

かつての人類は「仮りに今生きていたとしても
自分の名を残すことに関心がない」

現代において「歴史」とされていることは
「「映像の世紀のように過去の出来事を
一つや二つの流れに整理して語るやり方」であり
それが「全体として学者・研究者の硬直した発想」
となっている

極論をいえば大河ドラマ的な視点である
そこには主人公がいて
その周辺にさまざまな「名」が連なっている
それはほんらいの歴史ではない

現在の視点を過去に持ち込むことで
過去の人も私たちのように
生きていたと思いこむところからとらえられた歴史は
現代人の語る(語りたい)創作でしかなくなっているのである

■保坂和志「連載小説72/鉄の胡蝶は夢は記憶を歳月は彫るか」
 (『群像』2024年8月号)
■デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
 『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)

**(保坂和志「連載小説72/鉄の胡蝶は夢は記憶を歳月は彫るか」より)

*「京都の徳正寺でやった酒井隆史さんとの対談はとても充実した、大成功だった(・・・)、その対談の前、私は〈万物の黎明〉を読み出して最初の頃に書き出したノートをあらためて読み返してみると、それはもともとは去年の十一月に予定していた対談より前に書き出した、ノートはヨコ書きだが書き写すとこうだ、

78  教義の正しい解釈を身につけた革命的前衛が人類史の全体的な方向性を理解できる————という発想の誤り
109 「未開」社会————変わり者に対する寛容
135 初期の祖先が私たちと知的に対等
144 人間は過剰な生き物である→という迷信
148 富の差が命令や服従につながらない
156 無知でなく自覚的な決断(サルは働かされたくないから言葉を話さない)
158 真に「初源」である状態は存在しない
    人類が社会的組織の柔軟性を失い、支配と服従に閉塞したのは何故か?
160 農耕民でなく、文字も持たなかった←ポヴァティ・ポイント
173 (学者の硬直した発想)1万年前の狩猟民が20世紀の狩猟民を模倣した(という図式になる)
    現在の基準で過去を考える」

*「〈万物の黎明〉の〈アドニスの庭〉という章はひじょうに大事な章で、この章によってこの本に書かれた思想あるいは思考の方向が明確になる、

「不発の革命、すなわち、新石器時代の人びとはいかにして農業を回避したのか」

 というのがこの章の副題で、農耕はこれまで考えられてきたようなはじまりと発達をしたわけではなかったということを言うためにまずプラトンの〈パイドロス〉にある農業とはどういうものかという説からはじまる、」

「アドニスはギリシャ神話の人物でアフロディーテに愛された美少年で、ヘラクレスやテセウスなど雄々しい男性形象と対照的とされているそうだがここでは農業と計画性ということが結びついている、農業というのがギリシャで一般にどういうイメージだったか私は知らないが今の日本で穏健な、どちらかというと女性的なイメージで思われるだろうが、(・・・)ソフォクレスの〈アンティゴネ〉のコロスの歌では、(・・・)農業もまた人間の雄々しさ、過剰さとして描かれる(・・・)。」

(プラトンは)真面目に農業をしようとする農夫は計画性がある、そうでない農夫など農夫と呼べるだろうか、ということを言っている。これは文学作品、フィクション全体に通じる理屈であり、そうだからこそ主人公はヒーローと呼ばれるわけだ、いい加減に種を蒔いて、テキトーに放っておいて、実がなった分だけ喜ぶ、というようなやり方は農業とは言えない、しかし農耕の起源はそんなような遊戯的なものであったとこの本でグレーバーじゃ言う、しかも遊戯的で真面目でない植物栽培で収穫を得るようになったら新石器時代の人たちは栽培方法を発達させていったかというと、そんな単純なことではなく、その人たちは自分の生活が植物栽培に束縛されることを嫌って、他所の土地に移動したりもした。

 グレーバーが〈万物の黎明〉で繰り返し言っていることだが、農耕以後の世界観で農耕のはじまりを説明しようとしてはいけない、農耕をはじめたのは農耕以前の社会に生きていた人たちであった————これが一つ目で、もう一つ————農耕は、この土地で、この時代にはじまったというように初源を特定できるものではない(・・・)、人類は今の我々から見るととても気まぐれにはじめてみたりやめたりを繰り返していた、————そして三つ目————それは彼らが知的に劣ったからでなく、彼らは意識的にそうなることを避けてもいた。」

*「アドニスの庭の考え方は歴史に残らない、個人が歴史に何かをして名前が残ることが大事なのではなく編み物の仕方とか編み物の柄や模様とか人から人に伝わっていく過程で少しずつ変化したり進歩したりする(・・・)

 私が生きてきた二十世紀から二十一世紀では「名もなき」という言葉には独特のバイアスがかかっていて私がさっき使った「名もなき」は(・・・)なんというか、とても情緒的な段階で「名もなき」
を読まれてしまうと、日本の懐かしい風景に回収されてしまう。

 温かい、心温まる、やさしい風景の中での人々の営みがかつてあった・・・・・・

 いや、そのとおりなのだ、たとえば白川静やハイデガーによる古代人の像は穏やかで悠久の時の流れの中で人々は自然とともに安らいでいたわけではなく、自然から離陸して、自然を支配するための苛烈な闘いをしていた、ということになるんだが、〈万物の黎明〉ではアドニスの庭的に、つまり集中せずに遊戯的に、気ままに自分たちの生活の改良をしたりしなかったりしていた、————

 白川静&ハイデガー的古代人もアドニスの庭の古代人もどちらも名もなき人たちだが、白川静&ハイデガーの名もなき人たちは歴史以前で何も記録に残らないから遺憾ながら名前がわからない人たちである、しかし本来ならそれぞれが歴史に名を刻むにじゅうぶんに値することを為した、

 一方アドニスの庭的な遊戯的な人たちは仮りに今生きていたとしても自分の名を残すことに関心がない」

*「民藝やアーツ&クラフツ運動の「名もなき職人」はやっぱり名のある柿右衛門とかイギリスの誰々とか名の知られた人が先にいてそれに対する「名もなき」となっていて、支配者とか社会の中心にいる人物とか社会をリードする特定の人物たちがいることが前提となっている、だからアドニスの庭の名を持たない、そして歴史を必要としない世界観とはまったく違う、そこに生きる人たちのメンタリティは事を為す、人物が主人公となる文学にはならない、そもそも文学はその社会ではありえたか?(・・・)」

「映像の世紀のように過去の出来事を一つや二つの流れに整理して語るやり方に私はこのところ、とても嫌なものを感じて仕方ない、いろいろ起きた出来事を俯瞰すること、それに対するものすごく強い抵抗が私の中にどんどん育っている、それは全体として学者・研究者の硬直した発想だ。」

*「「正岡子規のいう「写生」とは、風景を散歩し見つめる日々の体と、風景の側にある植物や生き物、さらには季節や風習のような抽象概念までもが俳句を介して相互に摩擦し合う、その結果として各々の持つ持続性が各々の外に《世界の全構造の秘密》として作られていくプロセスだった。」

 これは山本浩貴自身の文章だ、この文章は自分より先に生きた人たちが書いた膨大な文章があって書かれたことがじつによくわかる、私は感嘆する、山本浩貴の文章を書く態度はまったくアドニスの庭的ではなく圧縮あるいはネットワークの集積そのもので、人間が大地と格闘する農耕という構想力や計画性つまり人間の圧倒的な主体性の主張に通じるかのようなんだが、ところが、彼の世界観というか、世界と言語と人間の接し方というか、そういうことはとてもアドニスの庭にちかいと私は感じる。

 彼は言葉を人間の所有物とは思っていない、言葉とは、ここまで言ったら彼からも離れてしまうかもしれないが世界が人間に世界とはどういうものであり、そこで起こる様々な現象、もちろんとりわけ生きることと死ぬことについて人間に考えたり感じたり触れたりするきっかけとして与えた、人間以外の動物たちは言葉など使わなくても世界をわかるわけだが人間だけは言葉を持ってしまったために言葉が障壁となって世界と隙き間ができてしまった、その隙き間を埋めるのは言葉なのか人間と世界との摩擦なのか、というか人間が世界と摩擦するにはどうしたらいいのか、————

 つまり山本浩貴はこの「日記と重力」で関心はあたり前なんだが他の書き手や読者にマウントをとったり「スゴイだろ!」と言おうと思ったりまったくしていない、彼の文章を読んでいるとそんなことあたり前だ、そんなことしてどうなるんだと人は私に言うだろうが、小林秀雄も江藤淳も柄谷行人も蓮實重彦もみんなそれがある、みんな人間に気持ちが向いているからだ」

*「物事の成り行き、展開、進展は結果や後の時代にとらわれずひたすら前から考えを重ねるべきだ、「予言した」という一見気の利いた言い回しは前方向に考えていったときに考えるべきことを全部ひとつの箱に放り込んで物事をあいまいなままに収めてしまうことだ、だいたいにおいて、時間をかけてちゃんと考えるべきときに気の利いたフレーズを書いてしまうのは考える態度としてダメなんだが世間ではそういう文章の方が歓迎される。

 後の時代で前の時代を説明する、結果を見てから原因を捜しはじめる、運命が人間に理解できる程度のものだと思う、それらは今いる人間が共通に持っている思考というか了解事項で、それらを完全に払拭して、誠実に、のろのろと、ぎこちなくであってもいいから、ただひたすら前方向だけの思考を積み重ねるようになると「死なない」の意味は強引さは何もなしに、すっと腑に落ちるのではないか・・・・・・と、さっきの山本浩貴自身による、

「正岡子規のいう「写生」とは、風景を散歩し見つめる日々の体と————」の段落を読んでいると思う。」

**(『万物の黎明』〜「第1章 人類の幼年期と訣別する」より)

*「人類史のほとんどは、手の施しようもなく、闇に埋もれてしまっている。なるほど、われらがホモ・サピエンスは、すくなくとも二〇万年前から存在している。だが、いったいその二〇万年のあいだになにが起きていたのか、わたしたちにわかっているのは、ごくごくわずかの期間にすぎないのだ。」

*「もし人類史にまつわる大きな問いが浮上してくるとしたら、ふつう、人がこう自問をするようなときである。どうして世界はこうも混乱しているのか、どうして人間はかくも傷つけ合うのか、どうして戦争や貪欲、搾取があるのか、どうして他者の痛みに対する徹底した無関心がはびこるのか。わたしたちは太古の昔からそうだったのか、それともどこかの時点でなにかひどくまちがってしまったのか?

 しかし、これは基本的には神学論争である。そこで問われているのは、人間は生まれながらにして善なのか悪なのか、なのだから。しかし、よく考えてみれば、こんな問いに意味などほとんどないことがわかる。」

*「にもかかわらず、人が先史時代から教訓を得ようとするとき、ほとんど例外なく、この種の問いに舞い戻ってくるのだ。なかでもなじみ深いのは、かつては無垢な状態で暮らしていた人間が、あるとき原罪によって汚染されてしまったという、キリスト教による解答である。人間は、神のごとき存在にならんと欲し、そのため罰を受けた。いまや堕落の状態にありながら、将来の救済を待ち望みながら生きている、といった具合だ。ジャン=ジャック・ルソーは、一七五四年に『人間不平等起源論』という著作を執筆したが、まさにこの著作のアップデート版の数々こそ、いまこのストーリーを普及させている主役である。むかしむかし、わたしたちが狩猟採集民だった頃、人類は大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからです。この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を種類の作製に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどです、と。」

*「問題なのは、それにかわるものを探してみつかる唯一のものが、もっとひどいということだ。すなわち、トマス・ホッブズThomas Hobbesである。

 一六五一年に公刊されたホッブズの『リヴァイアサン』は、多くの意味で、近代政治理論の基礎となった書物である。人間が利己的生物である以上、初源的自然状態での生活はけっして無垢なものではなく、「孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい」もの————基本的には、万人が万人と争い合う戦争状態————であるはずだ。ホッブス主義者なら、こう論じるだろう。この悲惨な状態から進歩があったとすれば、それはおよそ、まさにルソーが不満を抱いていた抑圧的機構————すなわち政府、裁判所、官僚機構、警察————のおかげであった、と。

(・・・)

 この考え方によれば、人間社会は人間の卑しい本能を集団で抑圧することで成り立っているのであり、多数の人間がおなじ場所で生活しているようなとき、そんな抑圧がいっそう必要になる。それゆえ、現代のホッブズ主義者は、以下のように主張することになろう。なるほど、人間は進化の歴史のほとんどを小集団というかたちで生存してきた。そしてその小集団は、主に子孫を残すという関心事(・・・)を共有するおかげで、いっしょにやっていくことができた。ところが、このような集団も、けっして平等を土台としていたわけではない。ここにはつねに、「ボス男性」であるリーダーが存在していた。ヒエラルキーと支配、そしてシニカルな利己主義が、つねに人間社会の基礎だったのだ。とはいえ、集団として短期的な本能よりも長期的な利益を優先するほうがじぶんたちの有利になる、もっと正確にいえば、最悪の衝動を経済のような社会に有用な領域に限定し、それ以外の場所では禁じることを強制する法をつくることが、じぶんたちの有利になると学んできたのだ、云々。」

*「本書で乗り越えたいのは、この〔ルソーかホッブスかの〕二者択一なのだ。わたしたちの反論は、大きく三つのカテゴリーに分類することができる。これらの議論は、人類史の一般的な流れを説明するものとしては、

  一、端的に真実ではない。
  二、不吉なる政治的含意をもっている。
  三、過去を必用以上に退屈なものにしている。

 本書の試みは、これらとは違い、もっと希望があり、もっとわくわくするようなストーリーを語りはじめることにある。過去数十年の研究が教えてくれることを、もっとうまく説明するようなストーリーである。」

*「いま浮上しはじめている世界像がこれまでのものとどう異なっているか、ちょっとだけ紹介してみよう。農耕開始以前の人類社会が平等主義的な小集団(バンド)にとどまっていなかったことは、いまやあきらかである。それどころか、農耕開始以前の狩猟採集民の世界は、大胆な社会的実験の世界でもあり、進化論のような貧しい抽象の提示するイメージより、政治形態のカーニヴァル・パレードこそふさわしいといった具合である。かたや農耕も、それが私有財産の誕生のきっかけをつくったわけでも、不平等への不可逆的なステップを画したわけでもなかった。実際、最初の農耕共同体の多くは、身分やヒエラルキーから相対的に解放されていたのだ。また、世界最古の都市の多くが、確固たる階級的区分を有していたどころか、強固なまでの平等主義にもとづいて組織されていた。権威主義的な統治者や野心的な戦士=政治家、あるいはボス然とした役人すらも必要としていなかったのだ。

 このような論点にかかわる情報が、世界のあらゆる場所から寄せられている。その結果阿、世界中の研究者が民族誌や歴史資料をあたらしい見地から検証するようになった。まったく異なる世界をつくりだすことのできる断片がいま、積み重なっているのだ。ところが、いまのところ一部の特権的な専門家以外は秘匿されたままである。(・・・)この本の目的は、パズルのピースを組み立てはじめることにある。」

**((『万物の黎明』〜
   酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」
〜「6 ラフな手引き(1)構成について」より)

*「本書はある意味では人類史を「遊戯(プレイ)」という視点から再構成する試みでもある。人類はさまざまな可能性を試しては放棄し、試しては採用する、イヤになったらとんずらしたり、別のシステムをつくったりする、そうした「遊戯」である。」

*「本書の全体を駆動するのは、「先住民による批判」に対して動揺したヨーロッパの、長年にわたる反動が積み上げてきた知、もはやその重量によって桎梏となりはてたピラミッドの解体の意志である。その反動は「平等」や「進化論」、あるいは「段階論」といった観念のような証拠をあちこちに残している。わたしたちは、メソポタミア、エジプト、アフリカ、中国、日本、オセアニア、ポリネシア、そしてアメリカスを経由する壮大な時間旅行のあとで、ようやく、その謎の解明に立ち会うことになる。」

**(『万物の黎明』〜
   酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」
   〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第3章 氷河期を解凍する」より)

*「第3章は、本書全体の基盤をなしているといっても過言ではないが、その核心を『ワイアード』誌でヴァージニア・ヘファーナンがみごとにまとめている。

*「ウェングロウとグレーバーはさらに、先住民の社会は原始的な方法で組織化されていたにすぎないという仮説にも疑問をなげかける。実際、その社会は複雑かつ変幻自在だった。シャイアン族とラコタ族は警察部隊を組織していたが、その唯一の任務は人々をバッファロー狩りに参加させることであり。オフシーズンに入ると即座に部隊を解散していた。いっぽう、現在の魅しシップ州に暮らしていたナチェズ族は、全知全能の独裁者を敬うふりをしつつ、実は君主は出不精だから追いかけてくることはないと知ったうえで自由に行動していた。さらにウェングロウとグレーバーは、巨大な遺跡や墓は階級制度の証拠であるという通説にも見直しをせます。とりわけ刺戟的だったのは、旧石器時代の墓の大半には有力者ではなく、低身長症、巨人症、脊椎異常など身体的以上のある人々が埋葬されていたというくだりだ。こうした社会では、上流階級の者よりも異端者が崇拝されていたようなのだ」。」

*「人間は当初よりただひたすらに人間だった————かくして、本書の核心をなす問いが定式化される。人類の「社会的不平等の起原はなにか」ではなく、人類は「どのようにして停滞したのか」という問い、平等の喪失ではなく、自由の喪失の問いである。」

**(『万物の黎明』〜
   酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」
   〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第4章 自由民、諸文化の起原、そして私的所有の出現」より)

*「私的所有————私的所有についても、本書では随所で、とりわけヨーロッパの所有の観念との比較で論じられるが、ここでは、所有を知らない(ルソーでいえば農耕の発明とともに私的所有も生まれる)といった単純素朴な狩猟採集民のイメージを覆すために、未開社会の複雑な私的所有のありようが分析される。それを通して、「私的所有」が人類の歴史とおなじくらい古いものであると推測されるが、それが(おそらく非資本主義的近代の)人類社会の大半では「儀礼の檻」によって社会のごく一部の領域に封じられ、権力とのむすびつきを阻止されている。ここにも、奴隷所有と密着していた古代ローマに由来するヨーロッパにおける所有観念を、人類史において異例中の異例のものとし(そしてきわめて暴力的なもの)として相対化をはかる、本書をつらぬく(あるいはグレーバーの著作をつらぬく)問題設定をみてとることができる。」

**(『万物の黎明』〜
   酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」
   〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第6章 アドニスの庭」より)

*「「アドニスの庭」を導きの糸に設定したのは、読者のイメージに訴えかけるにあたって、きわめて巧みである。そこいは、シリアスではない農耕、祝祭的雰囲気(遊戯性)、そしてジェンダーといった、本章のもくろむ「農耕革命」のイメージの顛覆の諸要素がみごとに集約されている。

 本章は、野生穀物のはじまるおよそ一万年前から、作物の栽培化の生物学的過程の完了までの三〇〇〇年のギャップを対象にしている。本来、さして手をかけなくても、この過程は長くても数世代で完了するはずだ(実験考古学の成果による)。ところが、人類はここではるかに長い時間をかけている。「スローなコムギ」である。ここからハラリのいうような「農業革命」、農耕の発明によって人間は小麦の奴隷になった、というストーリーがどれほど多くのものを見落とし、複雑で興味深いこときわまりない初期の人類と農耕とのかかわりを常識的ストーリーに落とし込んでいるのかが浮き彫りにされる。つまり、この三〇〇〇年もの長期の時間は、人間の未熟ゆえの進歩の遅さではない。そのギャップは、人間がコムギの奴隷となることを拒絶しながら、農耕とつきあい、実験的に戯れ、イノヴェーションを積み重ねていった、長期の時間を示している。」

**(『万物の黎明』〜
   酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」
   〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第8章 想像の都市第8章 想像の都市」より)

*「この章のもくろみは、ウクライナ、メソポタミア、インダス、中国のそれぞれの初期都市を検討することで、都市形成をめぐるこれまでの常識を一新させることになる。とりわけ、重要なポイントは「スケール」である。」

*「一九七〇年代はじめに発見され、現地の考古学者たちによって調査が開始された。それは、前四〇〇〇年紀の前半から中盤にかけてのもので、メソポタミアの最古とされる都市よりも以前に存在したこと、そこに八世紀あまり人が居住していたことが判明する。このような巨大「都市」であるにもかかわらず、都市とは呼ばれていない。なぜなら。そこには一般的に都市の本質とされる特徴とは裏腹に、集権的統治の痕跡も、ヒエラルキーの痕跡もなかったのだから。それどころか、その遺跡の示す構造は、そうしたヒエラルキーの生成の阻止を意図した空間的構成を示している。(・・・)

 かれらはこのような水平的都市のありようを、さらにウルクなどのメソポタミアの初期都市、インダス、そして中国にみいだしていく。」

**(『万物の黎明』〜
   酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」
   〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第10章 なぜ国家は起原をもたないのか」より)

*「ここでのもくろみは、「国家」という概念を、ほとんどお払い箱にしようというものなのだからこれもまた野心的である。」

*「かれらは国家に変えて、あるいは国家を超えて、社会的権力の基盤となる三つの原理に分解してみるよう提起する。暴力、情報(知)、カリスマである。そしてそれらは、具体的には、主権、行政管理、競合的政治フィールドといった形態をとる。近代国家にはこの三つが具わっている。主権、行政装置、そして政治家たちが競合し合う選挙制度。しかし、それ自体、人類史においてきわめて独特であり、しかもその三つの要素の編成の仕方も独特である。それゆえ、近代国家を国家や社会のひな形にするわけにはいかないのである。」

*「メソアメリカ、南アメリカ、ナチェズ即、あるいはエジプトなどの事例でこの考えを実験的に使ってみている。異質な複数の社会組織をこの三つの要素から分析することで浮き彫りになるのは、わたしたちは「国家」の典型とみなしている近代的国民国家の異例性である。それは三つの要素のすべてが合流していること、そしてその合流が独特の形態をとっていること、その点において、人類史においてはきわだって異例なのである。いっぽう、ほとんどの社会組織は、これらの三つの要素をすべて、かつ近代的国民国家のような編成で作動させているわけではない。それらの多くが、これらの三つの要素をひとつ、ないし複数を独特のかたちで編成しているのである。

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