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鷲田清一『〈ひと〉の現象学』〜「9 ヒューマン 「人間的」であるということ」

☆mediopos3594(2024.9.21)

数年前に文庫化されている
鷲田清一『〈ひと〉の現象学』の
第9章「ヒューマン」をガイドに
「人間的であること」
「普通であること」について

「人間主義」とも訳される「ヒューマニズム」は
「人間」というものに、他の何とも替えることのできない
固有の「尊厳」を見出す思想」だが

「人間的」という概念は
「アプリオリに存立しているのではなく、
アプリオリなものとして構成されたものである」ように
「概念として奇妙な性格をもっている」

「人間」という概念の下敷きにされている
「人類」(mankind/anthropos)としての人間の概念について
ジャンケレヴィッチは

「人間一般を、人間であるというだけの理由から愛するのは
《矛盾を含んでいる》」
「だれかを愛するように人類を愛し」
「人類の次元まで拡張された人を愛するこの愛は
あきらかに逆説をはらんでいる」というのである

パスカルがさらに辛辣にかつ皮肉なまでに
「人は、決して人そのものを愛するのではなく、
その性質だけを愛している」
「したがって公職や役目のゆえに尊敬される人たちを、
あざけるべきではない。なぜなら。人は、だれをも
その借り物の性質のゆえにしか愛さないからである」と
「人」への「愛」について語っているように

「「人間的」といわれるものは、コンテクストによって」
「人間的とも非人間的」ともなり
「その内深くに非人間的なものを内蔵している」
つまり「人間に固有なことは、
「人間的」として確定できるものがない」
といえるのかもしれない・・・

「人間は「人間的」という自己解釈の規則を
過剰なまでに厳格に護りとおすことで、
「人間的」の名のもとに、
逆にもっとも「非人間的」な行為に走ることもある」

また人間にとって「普通」であることにしても
「他者たちとおなじ世界解釈の規則を
共有している状態」にすぎず
それは「揺るがない確固としたものという意味でも、
融通がきかない硬直したものという意味でも」
「世界を前にしてある特定の解釈に
憑かれることを意味」しているといえる

「赤信号みんなで渡ればコワくない」のように
みんなが「普通」で「人間的」だとしていれば
その規準に応じた行為がなされるということである

そんな人間的-非人間的な観点でいえば
「カントの『実践理性批判』を枕頭の書としていた人物が
ナチスの副総統に」もなり
もっとも多く世界中で戦争を引き起こした人物が
ノーベル平和賞を受賞したりもするように
現代では日本のそして政治の状況を見渡すだけで
いくらでもそうした例を挙げることができる

そんななかにおいて重要な観点として
メルロ=ポンティは『シーニュ』という著作のなかで
「たえず他者によって自己を吟味し
自己によって他者を吟味することによって
手に入れる側面的普遍をこそめざすべきだと」示唆している

つまりそれは「われわれ自身のものを異邦のもののように見、
われわれにとって異邦であったものを
われわれのものであるかのように見ることを学ぶ」視線である

「このような経験を見失ったとき、
人間は産業による動物の虐殺を超え、
他の人間を強制収容する技術を洗練させて、
ついには人間自身の大量殺戮へと向か」ってしまう

「人間的」であろうとすること
「普通」であろうとすること
そのために
「赤信号みんなで渡ればコワくない」
のように行動してしまうとき
「人間」であるための「尊厳」を見失うのである

■鷲田清一『〈ひと〉の現象学』(ちくま学芸文庫 2020/1)

**(9 ヒューマン 「人間的」であるということ)

・「ヒューマン」であるということ

*「ヒューマニズム。人間主義。それは、「人間」というものに、他の何とも替えることのできない固有の「尊厳」を見出す思想である。」

「ここで、「人間的」という、ひとのあらゆる権利の最終的な尺度となっている概念は、概念として奇妙な性格をもっている。それは、アプリオリなものとして構成されたものだからである。アプリオリに存立しているのではなく、アプリオリなものとして構成されたものであるということは、それが人間自身によってもっとも根源的な価値として選択されたということであり、さらに、その選択する主体が「人間」としておのれを捉えなおしたということである。

 ひとの存在は、「人間である」というただそれだけの理由で尊重されねばならないという、このアプリオリな権利は、そのひとがたまたまここに生まれ落ちた、このように生まれ落ちたという偶然的な境遇に左右されることなく、その人自身に認められるものである。」

*「けれどもここでいう「人間」とはどのような存在のことなのか?」

「ここで下敷きにされている「人類」(mankind/anthropos)としての人間の概念について、ジャンケレヴィッチはこう疑義をはさむ。「《人類愛》は逆説を含んでいる。というのは、人間一般を、人間であるというだけの理由から愛するのは《矛盾を含んでいる》からだ」、と。「人権および人間の義務の道徳上の主体である人間、この人間はああこうとみなされる人間、あれそれの人間、要するに〈として〉(quatenus)の人間ではなくて、端的純粋に人間、他の明細も特記もない人間、〈として〉なしの人間だ。(中略)人間が人間であるという事実を愛する愛、だれかを愛するように人類を愛し、人一般をわけも分からずに愛し、人に化身した人類、人類の次元まで拡張された人を愛するこの愛はあきらかに逆説をはらんでいる」(『道徳の逆説』仲沢紀雄訳)というのである。

「誰かを愛するように人類を愛し・・・・・・」? だれか個人を愛することきであればそのひとが有する属性にたいしてまったく無関心であるような愛が可能なのだろうか。

 ジャンケレヴィッチよりもさらに辛辣に、十七世紀のひと、パスカルはだれかへの「愛」についてこう語る。

  (『パンセ』断章323、前田陽一・油木康訳)
  だれかをその美しさのゆえに愛している者は、その人を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。そして、もし人が私の判断、私の記憶ゆえに私を愛しているなら、その人はこの「私」を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、私はこれらの性質を、私自身を失わないまでも、失いうるからである。このように身体のなかにも、魂のなかにもないとするなら、この「私」というものはいったいどこにあるのだろう。滅びうるものである以上、「私」そのものを作っているのではないこれらの性質のためではなしに、いったいどうやって身体や魂を愛することができるのだろう。なぜなら、人は、ある人の魂の実体を、そのなかにどんな性質があろうともかまわずに、抽象的に愛するだろうか。そんなことはできないし、また正しくもないからである。だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。

 国籍や性別、職業や社会的地位とは無関心にというだけでなく、美しいから、賢いから、思いやりがあるからという理由でだれかを愛することも偽りであると、パスカルは言うのである。それらは「私」そのものではないから。しかしそれらの性質に無関心なまま「抽象的」にだれかを「ひと」として愛することもできない。こう言ったあと、パスカルは皮肉いっぱいに続ける。「したがって公職や役目のゆえに尊敬される人たちを、あざけるべきではない。なぜなら。人は、だれをもその借り物の性質のゆえにしか愛さないからである」、と。」

・焼け跡という形象

*「「人間的」といわれるものは、コンテクストによって自然とも不自然ともなる。人間的とも非人間的ともなる。また、その内深くに非人間的なものを内蔵している。非人間的になることでかろうじて人間的でありつづけているという面もある。とするならば、人間に固有なことは、「人間的」として確定できるものがないことであると言い切ったほうがいいのだろうか。」

・naturalとnormal

*「そもそも「正常」ということは定義が難しい。おかしなことがないこと、つまり異常なもの、異例なところがないこととしか言いようがない。逆に「異常」は正常でないこととしてしか規定できない。ここのところは、自/他という概念対とよく似ている。「自」とは「他」でないこと、「他」とは「自」でないことである。この鏡像性に注目したところから、「自己」とは「他者の他者」のことであるという、ヘーゲルやキェルケゴール流の弁証法的な規定も出てくる。

 なだいなだは、「くるい」をめぐるある対話編のなかで、登場人物に次のように言わせている。

  (なだいんだ『くるい きちがい考』
  自分がクルッテイル場合は、世の中クルッテイルとしか、感じるほかはないんだ。世の中が実際にクルッテイル場合も、そう感じられるだろうし、世の中がクルッテイなくとも、自分がクルエば、世の中がクルッテイルように見える。どっちみち、ぼくたちは、世の中がクルッタとしか、見ることができないんだ。

  あるいは、

  クルッテイない時も、当然おれはクルッテイナイと思っているし、クルッテイル時も、おれはクルッテイナイと思っている。/(中略)すると、すると、ぼくらちにできるのは、クルウのではないか、と心配することだけなのか。

 じぶんと外界とのあいだでことごとく関係の齟齬が生じているとき、ひとは「世の中」がクルッテイルと感じる。じぶんがクルッテイル場合も、クルッテイナイ場合も、「世の中クルッテイル」と思う。とすると、クルイはなにかある実体の性質ではなく。関係の齟齬もしくは撞着の一様態ということになる。」

・解釈の規則

*「「わたしたち」の「普通」とは何だろうか。粗く、他者たちとおなじ世界解釈の規則を共有している状態ということができるかもしれない。ひとは他者たちとおなじ解釈の編目のなかに住み込むことによって、「普通」を手に入れる。これは考えてみれば、狐つきとおなじ。つまり、世界を前にしてある特定の解釈に憑かれることを意味する。そしてそれらに深く憑かれれば憑かれるほど、それが特定の解釈であることを忘れ、それらをとおして見えるものが世界の実像だと思い込んでしまう。他の解釈の可能性が払拭させられるのだ。そうして世界はますます硬いものになってゆく。揺るがない確固としたものという意味でも、融通がきかない硬直したものという意味でも。

 そうすると、「普通」の成立には、それに「われを忘れて」耽溺するということが、あるいは「われを忘れて」なにかに没入するということが前提になっていると言うこともできそうである。そう、ふだん「悪習」や「悪徳」としてカテゴライズされるふるまいが、「普通」の前提になっているということである。」

・「さっぱりわからん」と「おまえはアホか」

*「人間は「人間的」という自己解釈の規則を過剰なまでに厳格に護りとおすことで、「人間的」の名のもとに、逆にもっとも「非人間的」な行為に走ることもある。カントの『実践理性批判』を枕頭の書としていた人物がナチスの副総統になりえたように、民主主義的な手続きが全体主義n猛威を生むことがあったように。」

・側面的な普遍

*「メルロ=ポンティは『シーニュ』という著作のなかで、「民族学的経験」にことよせて、普遍的なものへ向かうもう一つの途について語っている。人びとが客観的方法によっていずれ得られると思い込んでいる「大上段にのしかかる普遍」(l'universel de surplomb)ではなく、「たえず他者によって自己を吟味し自己によって他者を吟味することによって手に入れる側面的普遍」(un universel latéral)をこそめざすべきだというのである。

 それは、「われわれ自身のものを異邦のもののように見、われわれにとって異邦であったものをわれわれのものであるかのように見ることを学ぶ」視線であると言ってもよい。西欧の観相術によく見られる動物に模したヒトの人相描きに対してある画家が似せて描くのはさほど難しくはない〔・・・・・・〕しかし人間に似ていないライオンを描くのは、それよりもずっと気を遣う」、と。他なるものを他なるものとしてそのままとらえるのは難しい。人間の動物性を考えるときにも、動物性を「われわれ」に理解可能な地平に引き入れるのではなく、こうした「ずっと気を遣う」経験をくり返してゆくことがまずは必要なのだろう。このような経験を見失ったとき、人間は産業による動物の虐殺を超え、他の人間を強制収容する技術を洗練させて、ついには人間自身の大量殺戮へと向かうことにもなったのだろう。」

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