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河合隼雄『夢・神話・物語と日本人: エラノス会議講演録』/河合隼雄『宗教と科学の接点』

☆mediopos2684  2022.3.23

河合隼雄には井筒俊彦のように
エラノス会議での講演録がある

河合俊雄が解説で指摘しているが
その講演のなかでもっとも重要なテーマであると思われる
「じねん」及び華厳経的な「相互浸透」については
『宗教と科学の接点』(一九八六)の
第五章「自然について」で一部触れられているものの
日本語での著書や論文としては展開されていない

河合俊雄がこのエラノス会議講演録を
翻訳刊行(2013年)したのは
そうした日本語ではあまり展開されていないテーマを
多くの人に伝えることを意図しているのだという

日本語の「じねん」には
「おのずから」と「みずから」に対応し
「自然発生的に」と「自由意志から」という
両方の意味があるが

そこで関与している「私」は
ただ受動的になっているのでもなければ
自由意志を働かせているだけでもない

東洋では「じねん」という観点において
「自我の力を減じることの重要性が強調されてきた」が
「真に個性的な生は、
ユニークな転回点も一般的な法則も、その両方を必要とする」

河合隼雄は『宇治拾遺物語』や明恵の夢から
さまざまな示唆を受けながら物語や夢について論じ
そうした「転回点への感受性を増す」ようにコミットする
「物語、そして私の関与についての」重要な示唆を行っているが

その先を論じてはいない河合隼雄の論考を
「今後に引き継いでいくことは、物語論、臨床の思想として」
重要だというのである

華厳経的な「相互浸透」の視点においては
「この世における何ものも
他の独立したものとしては存在していない」が

それぞれの存在は「有力」と「無力」のように
「「有力」な要素の現れだけが目に見え」
「他の領域(たとえば夢など)」など
無意識のものは見えないでいる

それら「無力」のままでいるものの
積極的な働きを生かすために
物語や夢からの示唆が重要になる

意識の働きからの「みずから」と
無意識の働きからの「おのずから」をともに
ユング的にいうならば「個性化」へと導くために
「たましいの現象」を探求してゆこうとすることを
河合隼雄は広義の意味で「科学」的に意図していたのだろうが
現代の「科学」の多くはむしろ逆に
「たましいの現象」を「脳」に還元さえしようとする

河合隼雄はそうした現状のなかで
「じねん」の「おのずから」と「みずから」を
ともに働かせるための有効な視点を
常に模索しつづけていたのだと思われる

■河合隼雄(河合俊雄訳)
 『夢・神話・物語と日本人: エラノス会議講演録』
  (岩波現代文庫 学術 444 岩波書店 2022/3)
■河合隼雄『宗教と科学の接点』
 (岩波書店 1986.5)

(『夢・神話・物語と日本人』〜河合俊雄「解説」より)

「第一章「相互浸透/中世日本における夢」は、『宇治拾遺物語』を題材にしている。河合隼雄は中世の物語を題材にした著書や論文を多く書いていて、たとえば『物語を生きる/今は昔、昔は今』(二〇〇二)では、各章で様々な物語が取り上げられている。また、『物語と人間の科学』に収録されている「物語と心理療法」では、『落窪物語』を取り上げている。ところが、『宇治拾遺物語』を題材にした対談や講演録はあっても、論文や著者は見当たらないようである。
 第一章は内容的には、先述の『宗教と科学の接点』(一九八六)の第五章「自然について」と一部重なっている。しかし大部分は日本語で発表されずに終わったように思われる。今回翻訳のために読み直してみても。、この第一章が圧巻で、また著者としてもこれに中心的なアイデアがあると考えたからこそ最初に持ってきたと考えられるのに、日本語の著書や論文で展開されずに終わったのは不思議である。それだけに今回の出版を通じて、多くの人に伝えることができればと願っている。」

「第一章において、転回点に関して「じねん」という考え方が用いられるのは非常に興味深い。「じねん」には「おのずから」と「みずから」に対応して、「自然発生的に」と「自由意志から」という両方の意味がある。「私」の関与というのは、単に受動的に従っているのでなければ、全く自由意志に基づいているのでもないのである。これは、物語、そして私の関与についての、非常に重要な示唆であるように思われ、河合隼雄が完成させなかったこの第一章を今後に引き継いでいくことは、物語論、臨床の思想として待たれることかもしれない。」

(『夢・神話・物語と日本人』〜「第一章 相互浸透/中世日本における夢」より)

「真に個性的な生とは何なのだろう。『宇治拾遺物語』にみられる夢への態度は、多層的な現実とさまざまな次元での生を指し示す。自我を中心におかない、存在の自生的な流れである。「じねん」が導く先なる生の在り方を考える。」

「他者と自分の関係は非常に微妙なものである。あなたと私ははっきりと区別できると感じてはいるものの、多くの相互浸透するような要素があって、それは特に夢の世界において顕著である。」

「日本語の(・・・)第一人称の言い方には、「わたくし」、「ぼく」、「俺」、「うち」などのように多くのものがある。どれを選ぶかは、状況と話しかける相手によって決まる。このような点で、日本人はもっぱら他者の存在を通じて「私」を見出していると言ってよいのである。
 しかしながら、この側面が強調されすぎると、日本人はあまりにも受動的で、何でもふりかかってくることを受け入れ、何の自律性も持っていないという結論になるかもしれない。実際はもっと複雑なものなのである。」

「明恵は、日本に伝わってきた様々な仏教の宗派や教えに対して比較的オープンだったけれども、自分は第一に華厳宗の徒であった。「華厳経」において、全てのものはお互いに自由に相互浸透し合っている。この完全に相互的な浸透と透過は、「一塵のなかに無量の諸仏が入る」とよく言われる表現のなかに見事に捉えられている。
 一九八〇年に、井筒俊彦は[エラノスで]華厳哲学についての講義を行った。

(・・・)

 もし一が全てならば、個人のアイデンティティーが問題となってくる。〝A〟はどのように〝B〟から区別できるのであろうか。これを井筒は存在論的な「有力」と「無力」という法蔵の概念によって説明している。それぞれの現象(〝A〟、〝B〟、〝C〟・・・・・・)は同じ内容をもっているけれども、違った現れ方をするのは、それぞれの要素でどれが有力であるのかの総和になっている。
(・・・)
 深層心理学の立場からは、「有力」と「無力」の意味は相対的になり、意識の状態によると言えよう。通常の意識では、「有力」な要素の現れだけが目に見えるけれども、他の領域(たとえば夢など)においては、「無力」な要素も見ることができるのであろう。」

「人間を含めた全てが単に自生的におのずから流れていくのならば、「じねん」の現実における人間の役割は何なのであろうか。言葉を換えれば、自我の役割は何なのであろうか。東洋においては、「じねん」に自分の自生を従えていくために、自我の力を減じることの重要性が強調されてきた。しかしこれが十分な答えのようには思われないのである。」

「自分の転回点が訪れているというのは、いつどのようにしてわかるのであろうか。それを決める基準は何なのであろうか。答えは明らかである。つまり「じねん」に従うのである。これがいわゆる自然科学的な観点からすると無意味であるのはわかっているけれども、筆者の観点は個性という概念を検討することでより明らかになるであろう。」

「もしも個性が自分、他者、物、自然の間の明確な区別をすることで確立されるならば、世界を観察する一般法則が多く発見される。これらの法則を適用することで、自然は効果的にコントロールされる。しかしながらこのような集合的な意識に支配されている限りは、自分のユニークさを確立することはできない。(・・・)
 他者に対して開かれているとユニークな生がおくれるかもしれない。しかしながらこの道は危険にさらされている。(・・・)ユング派の用語で言うと、自分の個性は集合無意識のなかで見失われるかもしれない。
 真に個性的な生は、ユニークな転回点も一般的な法則も、その両方を必要とする。これらの転回点には当然ながら法則がないかもしれないけれども、われわれはどこまでもコミットして物語を読むことを通じて、転回点への感受性を増すことができるかもしれない。われわれの夢というのは実際のところこのような物語であって、区別を超えた領域、すなわち「じねん」においてわれわれ個々人に授けられるものなのである。」

(『宗教と科学の接点』〜「第1章 たましいについて」より)

「人間存在を全体として、たましいということも含めて考えようとすることは、宗教との必然的なかかわりを生ぜしめる。しかし、そこであくまでもたましいの現象を探求してゆこうとする態度は科学的と呼んで差し支えないものであり、ここに科学と宗教の接点が生じてくるのである。しかし、そんなことを言っても、たましいなどということを対象とすること自体、既に科学的ではない、と反論する人もあろう。つまり、たましいなどという測定不能なものは科学の対象外なのである。この点をどう考えるべきであろうか。これを考えるためには、西洋近代に確立された、自我の問題について少し考察する必要があるだろう。今回トランスパーソナル会議で議論され、多くの人を惹きつけら、たましい、死、狂、身体性、などということは、考えてみると、西洋近代の自我が自らの体験のなかから排除してきたものではなかったろうか。このように考えると、ともかく自我について検討してみることの必要性が了解されるであろう。」

「西洋の自我に対して、東洋の自我は知ることと信じることを明確に分けようとはしない。ユングは東洋にあるものは「認知的宗教か宗教的認知のどちらかである」と述べたが、このことは、東洋人の意識は自と他とをそれほど切り離して考えていないことを意味している。「観」という字は、そもそも内界を観ることを意味していた、というよりは外界と内界などという区別を最初から立てていないのである。」

(『宗教と科学の接点』〜「第5章 自然について」より)

「日本語で自我とか自己とか言うとその「自」は、自然の「自」でもある。自然はもともと「オノズカラシカル」という意味で、「自」は「おのずから」を意味している。しかし、「自」は「おのずから」を意味するのみではなく、「みずから」をも意味している。前者の場合は、主体の営為によらず、ものごとがひとりでに生じ、存在することであるが、後者は主体の自主的、能動的かかわりのある場合である。英語であればこの二者はまったく異なる語によって表現される。ところで、日本人は「おのずから」と「みずから」とを使いわけていきながら、漢字を移入したときに、どちらも同じ「自」という文字で表記することにした。この点について、木村敏は次のような重要な指摘をしている。つまり、「『おのずから』と『みずから』とは、一応の現象的な区別はあっても、根本においては一つの事柄を指しているという、いわば現象学的な理解がそこにはたらいていたに違いない」というのである。」

「この際、「みずから」はユングの言う意味での自我から発することであり、「おのずから」は自己から発することであることと考えられるであろう。そして、日本人の場合は自我と自己との境界線があいまいであり、両者は融合した形で体験されるので、「おのずから」も「みずから」も、木村敏の指摘するように「根本においては一つの事柄」という理解が生じてくるのではないかと思われる。」

「現代に生きるわれわれとしては、あいまいな形での「自然」との一体感にしがみつくことなく、対象化し得られる限りは、自然を対象化して把握することを試みつつ、科学と宗教との接点に存在するものとしての「自然」の不思議な性質をよく弁えて、より深く探求を重ねてゆくことが必要であろう。人間がどう叫ぼうと、どう考えようと、神そのもの、あるいは自然(じねん)は簡単に死ぬものではない。ヨーロッパにおける神の死の自覚がより深い神への接近をもたらしつつあるように、日本において「自然」の死を自覚することが、自然のより深い理解をもたらすであろう。」

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