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『談 no.129 ドロモロジー 自動化の果てに』〜宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション 高次脳機能障害の病態の不思議さ」

☆mediopos3402  2024.3.11

『談 no.129』の特集は
「ドロモロジー 自動化の果てに」である

「ドロモロジー」とは
フランスの思想家P・ヴィリリオが名付けた
近代に特有の
「瞬間を抹消させ」
「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」であり
それは「〈今ここ〉で生きている
このリアルな空間や光景を喪失」させてしまうこと

それを避けるためには
世界規模での「警察化(監視化)」による「自動化を減速させ」
「自律性=オートノミーへ舵を切」ることが求められるという

ここでは特集のなかから
宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
をとりあげる

宮本氏は高次脳機能障害における運動麻痺を回復するためには
「世界に意味を与える身体」を取り戻すことが必要だと考え
運動療法のように
単に身体を動かしたり動作を反復するのではなく
運動イメージという「経験の言語」によって
患者に「考えること」を求める
そんな新しい医療=リハビリテーションの地平を開こうとしている

高次脳機能障害として
「失語症」「失認症」「失行症」が挙げられているが
それらの障害はどれも感覚器官には問題がない

しかし「たとえばそれが四角なモノであるとしても、
「四角」という言葉とその形が合わない。
手で持てば四角とわかるはずなのに、
そうした体性感覚とも合わない」というように

「視覚系、聴覚言語系、体性感覚系で外部世界の情報」は
「脳に入っているのに」
「入ってくるさまざまな感覚同士の関係性」が
認識できないのだという

「世界は目に見えない関係性でできてい」るのに
高次脳機能障害の患者は
そうした関係性によってつくられている
意味世界が欠落しているのである

意味世界をつくりあげるにあたって重要となるのは
「予測におけるコンテクスト(文脈)」であり
そのコンテクストにおいて自分が予測したことが
その行為による結果と一致することを繰り返すことで
「自分の認知や思考や行動」を「自動化」できるようになる

リハビリテーションにおいては
まずはそうした「自動化」が必要である

「ドロモロジー」を克服するためには
自動性から自律性へということが課題となるが

「自動性と自律性はどちらも生命システムの自己制作
(自己組織化、オートポイエーシス)にかかわ」っていて
まずは「自動性」を獲得することで
自己を「安定化」させ「既知の世界を安楽に」
することが重要となる

高次脳機能障害とは
「感覚同士の関係性」が「自動性」されることで
生み出される「意味」が欠損している状態だからである

わたしたちはふつう日常的に
一つの意味領域だけではなく
複数の意味世界を行き来しながら生きているが
脳を損傷した患者たちは
ひとつの意味領域のなかだけで生きてしまっている

そのためにそうした「境界」をこえ
複数の意味領域を行き来できるようにならなければならない
そうした意味における「自動性」である

しかしながらさらに
そうした自動性から自律性へと向かうためには
むしろ「自動性」を越え「自己の不安定化」へと向かい
未知の世界へと冒険しなければならない

重要なのは「新たな自己」の創発だからである
「自動性」だけでは
そのひとだけのかけがえのない生を取り戻すことにはならない

宮本氏の議論を敷衍して考えると
私たちはだれもが多かれ少なかれ
魂における「障害」を抱えて生きているともいえる
逆にいえばその「障害」をを克服するために
この世界に生まれてきているともいえる

その「障害」とは
教えられた「意味領域」のなかだけで生きることで
その境界を越えて未知の諸領域と
行き来することができなくなっているというもので

私たちは多分に
じぶんの置かれた限られた意味領域のなかで
自己を「安定化」させ
「既知の世界を安楽に」しようとするあまり
過剰に「自動化」してしまっている

その「自動化」がなければ生きることは困難になるが
それが過剰になると管理下におけるロボットのような
画一化された存在になってしまうのだ

「新たな自己」の創発のためには
「自動化」による安定化と
「自律性」による不安定化をともに生きることで
未知の領域を含めや多様な意味を横断しながら
「魂」を変革させることが必要となる

■『談 no.129 ドロモロジー 自動化の果てに』(水曜社 2024/3)

*(佐藤真「editor's note 自動化の二つの側面/自動化する自律性、自律化する自動性」より)

「認知運動療法を研究・実践する宮本省三氏は、すべての運動麻痺を「身体を使って世界に意味を与えることができなくなった状態」と解釈し、それゆえ、運動機能の回復とは、「世界に意味を与える身体」を取り戻すことだと喝破します。それは別言すれば、自動性を失った身体に、再び自動性を回復させ、同時に自律性を創発することです。脳の中に身体を発見し、身体を脳と陸続きに考える新たなリハビリテーションの地平。それは、経験する主体の誕生を意味することになるでしょう。」

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「高次脳機能障害の病態の不思議さ」より」

「高次脳機能障害として挙げられる「失語症」「失認症」「失行症」という症状は、まだまだ一般的には知られていないかもしれません。比較的知られているのは、言葉を失う失語症でしょうか。失語症では発話もそうですが、聴く、読む、書くといった言語機能のすべての面にさまざまな障害が出ることもあります。

 失認症は、左側の空間を完全に無視してしまう症状(半側空間無視)です。目はそれを見ているのですが、絵を描いても左側は空白のままだし、ヒゲを剃っても左側は剃り残してしまう。まさに無私するんですね。無理に左を見るように促しても、そのまた左側を無視するので、非常にややこしい。しかしその出現率は非常に高くて、重症度は違いますが、左辺麻痺の約五〇%の人には、失認症の症状が現れます。失認症の人がクルマを運転すると、左側の状況には注意を払えませんから、非常に危険なことになります。

 失行症には、他者の動作のマネ(模倣)ができなくなるとか、道具の使い方を忘れてしまうという症状があります。これは今非常に増えている八達障害の子どもたちの病態ともよく似ていると思います。彼らもうまくマネができないんですね。高次脳機能障害はなかなか回復が難しくて、研究生かは世界中で数多く発表されていますが、「謎」はまだ続いている。」

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「世界に向かう複数のまなざしの必要性」より」

「失語症、失認症、失行症のいずれでも感覚器官に問題はなく、それそのものは聞こえているし見えてもいる。ただ、たとえばそれが四角なモノであるとしても、「四角」という言葉とその形が合わない。手で持てば四角とわかるはずなのに、そうした体性感覚とも合わない。人間は視覚系、聴覚言語系、体性感覚系で外部世界の情報を集めます。その情報は脳に入っているのに、そうして入ってくるさまざまな感覚同士の関係性——僕たちはそれを「異種感覚情報変換」と呼んでいますが————が認識できない。

 世界は目に見えない関係性でできています。でも、カップルを見れば、それが恋人か夫婦か、ただの友だちか、推測しながら見ることができますよね。しかし高次脳機能障害の患者には、そういう能力がありません。僕はこうしてお茶の入ったコップを手にしても、僕がお茶を飲もうとしていることが、わからない。見えていても関係付けたっれないんです。子どもは最初空気を読めず、所構わず奇声をあげたり踊ったりします。でも成長の過程で常識を身につけ、その場、その時々のシチュエーションに応じて適切に行動できるようになる。高次脳機能障害の患者は、そうした一度はつくられてきたはずの意味世界が、すっかり欠落してしまうんです。」

「脳は情報で動いています。情報は二つ以上の要素間の関係性を捉えることで生まれるわけですから、その関係性を作れない、つまり情報を使って行為できなければ、回復はないということですね。この情報の定義はなかなか捉えなくくて、僕はいつも学生たちに、「恋愛」は一人ではできなくて、必ず二人の関係性によって創発されるものだ、それと同じだと説明しています(笑)。

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「関係性を育むリハビリテーションへの試み」より」

「たとえば空間の複数性と多様性を考えてみましょう。空間には自己の身体を空間座標原点として身体空間、身体周辺空間、遠位空間があります。ルネサンスの線遠近法では、一点の網膜の中心座標から遠位空間(視覚空間)を見ています。しかし僕たちの身体空間(体性感覚空間)はもっとキュビズム的です。たとえば右の手のひらは、自分の身体にとっては右側にありますが、肘から見れば前にあり、肩から見れば下にある、というように、自己中心座標の原点をさまざまにもつことができます。たくさんある身体各部の座標点々を変化させながら、普段は無意識に使って行為をするわけですが、それは発達のなかでオートマティックに獲得してきた理解です。

 一歩踏み出す足も、股関節から見れば前とも下とも言える。そういう空間の座標の変換は身体に無限にあって、コップの水を飲むためには、どの座標のシステムがもっとも必要なのか、行為によっても重要度というか優先度が違ってくるわけです。その優先度も、コップを取ろうとする時、口に近づける時、飲む時と、行為の一つひとつでどんどんと変わっていく。このアタリは治療者も一生懸命勉強しないと、どの行為にはどの身体部位や身体運動の優先度が必要なのか、それは教科書にも書いてありませんし、僕たち自身はいつも自動的にできてしまっているので、意識化することも、まして患者さんにそれを指導することも、とても難しいわけです。」

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「予測におけるコンテクスト(文脈)の重要性」より」

「脳は予測器官です。カール・フリストンというイギリスの著名な神経学者が、とても難解な「自由エネルギー原理(FEP)」ということを言っていますが、これは「脳は予測しかしていない」という考え方だと思います。みんなと話をする時は、次に誰がどんな話をするのか、自分は何を話したいのか、予測しながら話しています。(・・・)フリストンはこれを数学的に解析して、脳は、その予測の確率を上げようとしているのだと結論付けています。予測の確率が高い程、自分の認知や思考や行動は自動化できます、確率が低いことは自動化できないし、確立があまりにも低いと諦めて、やめてしまうことにもなる。

 ですから、予測と結果の一致が脳を学習させ、発達させる基本だと考えられます。」

「脳科学では、運動イメージをしている脳は、実際に行動した時と同じ働きをしていることが知られています。でもそれだけでは不十分で、単なる運動イメージ想起だけでは、その運動に至る理由やシチュエーションといった文脈(コンテクスト)がありません。しかし行為のイメージなら、そうしたコンテクストがある。(・・・)

 とはいえ、行為のイメージをすれば麻痺した手足が動くようになるわけではありませんから、あくまでも治療のなかでの、行為の記憶と認知問題(課題)の感覚との比較や関連付けということで、それが「行為間比較」と呼ばれる療法へとつながります。」

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「複数の「中間世界」を行き来する「行為間比較」」より」

「ペルフェッティ先生はバレーラやベイトソンのような思想的な知を求めて、自身の友人であるピサ大学のアルフォンソ・イアコノ教授との議論を始めます。イアコノ教授は、現実世界とは異なる「中間世界」という概念を提唱する哲学者です。その中間世界はたくさんあって、一つの中間世界は、必ずもうひとつの中間世界を参照することで成立する。ですからどこかでつながり(関係性)が生じている。

 たとえば遊んでいる子どもは、遊びの世界に没頭すると同時に、どこかで母親に見守られていることを知っている、ということがありあす。遊びの中間世界と見守られているという中間世界が、ここではつながって現実席をつくっている。それはあたかも絵の額縁のようなもので、絵は一つの意味領域をなしていますが、額縁によって外部との境界ができ、その境界によって外部と区別されながら、同時に外部との交流も生まれています。絵=世界は一つの世界に閉じ込められているのではなく、額縁があることでその外部と出たり入ったりできるものとなる。僕たちも、視覚の世界へ行ったり、言葉の世界と現実を行き来したりしていますよね。それぞれの世界は完全ではないけれど、その境界を飛び越えて行ったり来たりして、その飛び越える時に、ベイトソンの言う差異が生まれる、というわけです。」

「僕たちは日常的に、やっぱりオートマティックに複数の世界を行き来しています。しかし脳を損傷した患者たちはその境界が越えられなくて、障害という一つの意味領域のなかだけで生きてしまう。たとえば境界の行き来がない子どもたちに発達障害が多いように、また一つの世界に没入し過ぎてオタク化してしまう人のように、境界の行き来がない患者の回復は、やはり難しいのではないでしょうか。(・・・)

 その境界を越えるきっかけとなるのは、ひょっとすると物理的な形の同一性、つまり「相似(シミリー)」であったり、とくに思考や想像力がつながる「類似(アナロジー)」であるのかもしれませんね。ベイトソンはそれを、「関連性」や「比較」という言葉で表現しています。一つの要素ではなく、複数の要素に関連性は生まれるし、その比較によって相似点や類似点やそれぞれの差異も発見できる。比較がなければその世界がどのように成立しているかということもわからない。」

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「新しい自己をつくる学習としてのリハビリテーション」」より」

「新しい自己をつくることができればいいわけですね。自分が変わる————いろんな経験ををとおして何かが「できる」ようになることも学習ですが、自分が変化していくことが学習だと捉えると、新しい自分をつくれば、学習したことになるわけです。」

*「宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
  〜「創発する関係としての「自動化」と「自律性」」」より」

「自動性と自律性はどちらも生命システムの自己制作(自己組織化、オートポイエーシス)にかかわっていますが、自動性が「自己の安定化」に、自律性は「自己の不安定化」に向かっているように想います。また、自動性は既知の世界を安楽にし、自律性は未知の世界への冒険のようでもあります。」

「リハビリでは「自立性」という言葉もよく使われます。自分で立つ「自立性」は、子どもの社会的自立だったり、自分でトイレに行けるというように、ある制限のかかった状態の行為だと思います。また、歩行における杖や下肢装具への依存や、日常生活動作の介護という他者への依存が発生します。そして、「依存から自立へ」がリハビリの理念です。これに対して、自ら律する「自律性」は、そういう制限や依存も含みながら、脳も身体もぜんぶ使って、自分のなかで「人間というシステム」が未来に向かって作動している状態、というふうに僕はイメージしています。選択もするけれど、同時に自分の意志でその選択の自由度も広げていくというようなことですね。」

「たとえば生き延びることだけを欲することと、自分の思考をもっと自由に羽ばたかせたいと欲することは、かなりレベルの違う自律性だと思います。あるいは前者は、むしろ自立性に誓う願望かもしれません。さらに絵を描くということもまたレベルの違う自律性でしょうし、同じ絵を描くにしても、自由きままに描く絵とアーティストが向きあう芸術としての絵とでは、やはり自律性の度合いは異なるでしょう。それらはいずれも「自動化」を含みながら、自律的である。自律性をもつ自動化は、かなりレベルが高い生き方なのではないかと考えています。」

「自動化に突き進んでいったその先に、自律性をつくりあげるくらいじゃないと、本当に新しいものは生まれてこないかもしれません。そういう意味では、確かに没入する自動化も必要なんでしょうね。ただ、自動化して、没入し過ぎてそこから出られなくなって、前に進めなくなってしまう人もいるでしょうから、そこのバランスを取ることは、とても難しいところだと思います。

 リハビリの臨床には苦悩する人びとが大勢います。そうしや人びとも自己の自動性と自律性を生きています。自己を生きるために、その身体、物語、人生を懸命に生きています。もっと「新たな自己」を創発するようなリハビリの世界をつくりたいです。そのためにはリハビリの世界そのものを変革する必要があると考えています。」

○宮本省三(みやもと・しょうぞう)
日本認知神経リハビリテーション学会会長/高知医療学院学院長
著書に『恋する塵:リハビリテーション未来圏への旅』(共同医書出版社 2014)、『脳の中の身体:認知運動療法の挑戦』(講談社新書 2008)他

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