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『談』no.131 特集◉「空と無」(『〈精神的〉東洋』第2回 2024/11)

☆mediopos3637(2024.11.3.)

『談』no.131(特集「空と無」)は
『〈精神的〉東洋』の第2回目

『〈精神的〉東洋』の第1回目については
『談』no.130(特集「トライコトミー …二項対立を超えて」)
mediopos3549(2024.8.7)/mediopos3554(2024.8.12)
mediopos3556(2024.8.14)/mediopos3557(2024.8.15)で
とりあげているが
今回は比較的一般的なテーマが選ばれ

主に仏教における重要な概念である
「空」についての内容となっている

「色即是空 空即是色」は
『般若心経』にある有名な経文だが
その「空」の解釈については
「学界の共通理解といえるようなものさえ
ほとんど存在しないのが現状」(彌永信美)で

その根本的な理解の相違は
「「空」を現実的肯定的な意味をもつものと捉えるか、
あるいはその逆と捉えるか、ということに帰する」という

仏陀は「空」を説いたといわれるが
その「空」が仏教教義の中核に据えられたのは
大乗仏教初期の『般若経』において
大乗仏教の基本的教説として位置づけられ
さらにナーガールジュナ(龍樹)が
哲学的・理論的に基礎づけてからのこと

それ以前には
原始仏教を代表する仏典『スッタニパータ』に
「自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り超えることができるであろう」
とあるだけであり

その意味における「空」は
「自我に対する執着を離れること
 =「空」を観じることという認識」である

やがてそれが大乗仏教の
「空観」へと展開されていくことになったが
一義的に理解されてきたわけではなく
多様な意味や理解・解釈がなされてきた

今回の特集では
正木晃/石飛道子/彌永信美の三者から
「空」に関する視点が紹介されている

正木晃の視点では
バラモン教(ウパニシャッド)の教えである
「梵我一如」を否定することが「空」の意味であり

「世界が空であるとすれば、
その世界に属する自己(自我)もまた空であり、
自我が空であるであるということは、
死もまた空ということで、恐れるに足らず」であり
自我自体が存在しないのだから
自我に執着する必要はないということだったという

石飛道子の視点では
空性それ自体は見解ではなく
「あらゆる見解から離れる」ものであって
「空」は空っぽという意味のとおり
「何もない」「こだわらない」ということではないかという

また彌永信美の視点では
「「空」とは、一切の言語的表現や思念を超えた超越、
あるいは絶対の別名」であり
「この種の思考体験は、あらゆる概念の二項対立を止揚し、
不二の超越的次元に「超越-突入」することを試みる」
ものだという

「「空」や「無」は、そのような「存在/非在」の対立を
「空に帰した」ところで現れる超-存在論的境地を表現」し
その視点に立てば「色即是空、空即是色」とは
「現実世界はそのまま絶対である、
絶対がそのまま現実世界である」ということを意味する

なお上記とは少しばかり異なり
諸教典云々による解釈の数々とはズレるかもしれないが
個人的に理解している「空」と「無」についていえば

「空」とは実体的に世界をとらえる仕方から離れるために
縁起による関係性によって現象する
諸存在のありようをとらえるための概念であり

それが自我については
自我への執着を解くものともなり
世界(現象世界)については
世界そのものを実体的に捉えることを去るものともなる

「無」とは多分に中国の老荘思想にも関係づけられながら
「有」(存在)の源にある(「有」がそこから生まれる)
アンチコスモス的なものを表現する概念であり

それを「空」との関係でとらえるならば
すべての「有」(存在)はほんらい
「無」から出来する現象であるがゆえに
それを「空性」としてとらえることができる

といったところだろうか

■『談』no.131 特集◉「空と無」
 (『〈精神的〉東洋』第2回 2024/11)

*(「佐藤真:editor's note」より)

・「空」とは、何の隠喩なのか
あるのでもなければないのでもない

*「「色即是空、空即是色」、日本人なら誰もが知る『般若心経』の一文です。仏教教義を示す言葉のなかで、おそらくもっともよく知られた文言ですが、意外にもその解釈をめぐっては、今日でも議論が絶えないといいます。『般若心経』などの初期大乗経典は、菩薩(悟りを求める人)たちの実践の具体的な事例を述べ伝えつつ、一方で、批判相手の世界解釈の根本を揺るがそうとしました。しかも、大乗仏教徒たちの主張の仕方は大変ショッキングなものだったというのです。なぜならば、彼らは、日常の論理とは、まったく異なることを述べたからです(立川武蔵『空の構造:「中論」の論理』)。「色は空である」は、まさにそうしたとっぴな表現の一つでした。

 「色」とは、色形あるもののことですが、ここでは、さらに「迷い」の世界すなわち「俗なる」世界を指しているといいます。では、「空」は何を指しているのでしょうか。「悟り」の世界すなわち「聖なる」世界を指しているといいます。「迷い」と「悟り」以外の第三者の存在は許されていないのです。そして、その二つの和は一切です。ゆえに「色は空である」という表現は表面的には「AはBである」ということを述べているかのように思われますが、じつはそうではなく、「色は色以外のもの(非色)である」すなわち「Aは非Aである」と言っているというのです。この種の表現は般若経典ばかりではなく他の大乗仏教経典類にも見られます。

 「Aは非Aである」? これは、日常の世界ではあり得ないことです。そもそも形式論理学的思考がそれを許さないことを、当の大乗仏教徒たちはよく知っていたはず、と指摘するのは、「空」を仏教の歴史全般から読み解く仏教学者の立川武蔵氏です。立川氏によれば、「Aは非Aである」ということが日常の言語活動においてはあり得ないからこそ、なおさら彼らはそのような表現を用いたのではないか。それは、悟り(絶対的真理)の世界がわれわれの言語を拒否しているという考えの、われわれの日常的言語による表現なのだ、というのです。真理が言語を拒否しているということも言語によって語られねばならない。人間には一つの言語のみが許されているのであって、絶対的真理そのものを語る言語が日常的言語の他に許されているわけではないからです(立川武蔵『空の構造:「中論」の論理』) 。

 「迷いと悟り」は、「人と神」「俗なるものと聖なるもの」などと同様に、宗教に常に存在する「二つの極」だと立川氏は言います。これらの二極は相反するものであり、Aと非Aです。しかし同時に、二極間の交わりは可能であり、時として二極はまったく同一のものとなること、つまり俗なるものの「聖化」が可能であること、が宗教の存立の必要条件です(立川武蔵『空の構造:「中論」の論理』)。この交わり、あるいは同一性をいかに成立せしめるかが、すべての宗教の問題ではなかったかと立川氏は問いかけます。

 相反するものの同一たること、これが大乗仏教の根本精神になります。その精神が「Aは非Aである」というように論理学者に弁証の必要を感じさせるようなかたちで表現されていたために、後の仏教思想家たちがこのような表現の内容を「論理学」と呼ぶべき領域において取り上げたのです。「Aは非Aである」をいかにして論証するか。それが大乗仏教の思想家たちのいわば任務だったというのです(立川武蔵『空の構造:「中論」の論理』)。

 「Aは非Aである」が「空」の根本に据えられる。それ自体非常にパラドキシカルな表現です。仏教にとって最重要の概念のひとつであるにもかかわらず「空」は、時代や地域、もしくは学派や宗派によって、さまざまな理解や解釈を生み出しました。たとえば、無我/非我や縁起には概念規定のようなものがあります。ところが、「空」にはそれがないのです。というのも、「空」は時代や地域によって、大きく変容を遂げてきたからだというのは、宗教学が専門で、主に日本・チベット密教を研究する正木晃氏です(正木晃『「空」論』:空から読み解く仏教) 。

 正木氏によれば、インド仏教の歴史において、最初に登場した頃の「空」と、日本仏教の歴史において認識されてきた「空」とでは、理解や解釈がほとんど一八◯度、逆転しているというのです。さらに面倒なことに、一般的には最初の理解や解釈が正しく、後になればなるほど理解や解釈が正しくない方向へ向かっていくものと思われがちですが、そうとも言いきれないというのです。仏教もまた社会とのかかわりなしには成り立たず、社会の変化に対応できなければ、滅びるしかありません。仏教にとって、「空」は他に比べられるものがないほど重要な位置付けにあるので、文字どおりありとあらゆる手段を駆使して、生き延びさせる必要がありました。その結果が、「空」に多様極まりない理解や解釈をもたらした、と正木氏は指摘します。」

・世界を空なりと観ぜよ

*「ところで、日本仏教では、ブッダが「空」を説いたことになっていますが、じつは、ブッダは「空」を説いてはいません。そもそも「空」が仏教に登場し、脚光を浴びるようになったのは、大乗仏教が誕生してからです。とりわけ、ナーガールジュナ(龍樹)が現れて、「空」を仏教教義の中核に据え、高度な宗教哲学を築きあげてからのことです。

 現存する最古の仏典と考えられているものに『スッタニパータ』があります。仏教学者中村元氏によれば、『スッタニパータ』は原始仏教を代表する仏典ですが、その「第五 彼岸に至る道の章」におさめられている第一一一九偈げ(詩句)では、次のように説かれています。

 つねによく気をつけて、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。
(『ブッダのことば:スッタニパータ』中村元訳 岩波書店 一九八四 二三六ページ)

 「世界を空なりと観ぜよ」とは、文脈から考えると、「自我に固執する見解をうち破」ることと、深い関係があるようです。そして、「世界が空なり」と見抜くことができれば、その人は「死を乗り超えることができる」と説かれています。

 『スッタニパータ』には、これ以外に「空」ということばは見あたりません。たとえ一カ所でもあれば、ブッダが「空」を説いたことになるかもしれませんが、一カ所しかないということは、ブッダにとって、「空」という概念はさして重要ではなかったのではないか、とも考えられると正木氏は言います。ただし、中村元氏は、自我に対する執着を離れること=「空」を観じることという認識が、やがて大乗仏教の「空観」に至る道の端緒となったとも指摘しています。その意味では、「空」は、いうまでもなく、大変重要な文言であったのです。

・どこまでもただ「かくあること」

「今号は、「〈精神的〉東洋」の二回目として、この「空」を、もう一つの重要な概念「無」と関連付けて考察します。

 仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」と呼びます。「空観」とは、あらゆる事物(一切諸法)「空」であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想のことです。この思想は、すでに原始仏教において説かれていましたが、大乗仏教の初期の『般若経』ではそれをさらに発展させ、大乗仏教の基本的教説としました。その後この「空観」を哲学的・理論的に基礎付け、大乗仏教の思想を確固たるものにしたのがナーガールジュナです。ナーガールジュナはこのため仏教史においてひときわ重要であり、わが国では、「八宗の祖師」と仰がれているほどの存在なのです(中村元『龍樹』)。

 先に述べたように、「空」は驚くほど多様な意味をもち、さまざまな理解や解釈がなされてきました。この決して一義ではない「空」の概念について、まず仏教史、とくに大乗仏教誕生以降の仏教にフォーカスして俯瞰します。お聞きするのは、正木晃氏です。

 仏教の開祖ゴータマ・ブッダの教えを、伝統的かつ革新的に受け継いだのがナーガールジュナです。伝統的というのは、ナーガールジュナもブッダ同様に善なるものを探し求めて、論理と法の地で活動し続たという意味です。革新的というのは、その実践の順序がブッダとは逆で、まず論理と法の地で活動したうえで、その後に善なるものへと向かったという意味です(石飛道子『龍樹:あるように見えても「空」という(構築された仏教思想)』) 。どんなに優れた見解でも、押し付けられるならば、それは苦しみです。ブッダの法すらも見解の一つとみて、そこから離れることを可能にするのが「空性」です。例外なく、あらゆる見解から離れるのです。「空性」それ自体は見解ではありません。(石飛道子『龍樹:あるように見えても「空」という(構築された仏教思想)』)「空」は、理論ではなく論理です。であるならば、「空」は一種の形式に過ぎません。こう言いい切るのは、札幌大谷大学特任教授で、インド哲学とナーガールジュナの思想を研究する石飛道子氏です。「空」が形式であるということは、簡単に言えば、「中身は空っぽ」ということです。「空」は「空っぽ」という意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはありません。「空」は、決して人々に苦痛をもたらすことはないのです。この「中身は空っぽ」という意味について、石飛氏に改めてお聞きします。

 仏教学および仏教神話学を研究される彌永信美氏は、『事典 哲学の木』の「空」の項目において、それは一切の言語的表現や思念を超えた超越、あるいは絶対の「別名」であると言います。また、「空」や「無」は、そのような「存在/非在」の対立を「空に帰した」ところで現れる超―存在論的境地を表現するものであり、言語表現や思考が希薄になって、ほとんどの概念が使用不可能になっていく、そのような次元に残った数少ない表現の一つが「空」であり「無」であるということができる、とも言います(彌永信美「空」『事典 哲学の木』所収)。

 「空」とは、まさに実体がない、正真正銘の「空っぽ」のことであり、言語表現を超えた先にあるような、もはや比喩ですらない何か、あえて言うならば語り得ぬもの。その語り得ぬものについて、彌永信美氏にお話しいただきます。」

□主な内容

・正木晃〈空の多様性〉
 「空という泡沫(あぶく)」

*「「世界は泡沫、まぼろしのようだ」という。「泡沫」はあぶくであり、いずれは消えるものである。「まぼろし」とは当人は存在すると思っているが、じつは存在していなかったという仮象のことをいう。つまり、「無」が「空」であるというわけだ。世界が空であるとすれば、その世界に属する自己(自我)もまた空であり、自我が空であるであるということは、死もまた空ということで、恐れるに足らずということだ。 自我は空であるという教えは、「諸法無我」の教えと呼ばれてきた。ダルマ(仏法)は、あらゆるものには「実体」(我=アートマン)がないという真理である。したがって、自我に執着する必要はない。なぜなら、自我自体が存在しないのだから。これは非常に面白い。バラモン教(ウパニシャッド)の教えが「梵我一如」、すなわち、自己の本体(アートマン)と宇宙の本体(ブラフマン)が一体のものであるという究極の真理をブッダが自ら否定するのである。ブッダが最後に悟った真理は、バラモン教は成立しないということだ。バラモン教の否定こそ、「空」の意味そのものなのだ。」

*「自然から何らかの意味を読み取るとか、天候やいろいろなものの変化から根本的なことを読み取るような、日本人の共通感覚としてある何かを思想や哲学として明確なかたちにしたのが、日本版の「空」になるのかもしれません。」

・石飛道子〈ブッダとナーガルジュナ〉
 「中身は空っぽ」とはいかなることか

*「どんなすぐれた見解でも、押しつけられるならば、それは苦しみである。例外なく、あらゆる見解から離れるのだから、空性それ自体は見解ではない。「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができず、一切世界からはじき出されることになるのである。したがって、仏教においては、「空」をもちだして、反対する人々と争うことはない。ここが重要である。「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。」

*「「空」という時には心のなかに本当に何も残っていないというか、「何もないな。今日は気持ちがいい朝だな」とかって、そういうところで考えてもいい。「こだわらない」というところで考えてもいい。青空みたいにすごくきれいさっぱり何にもないところというような、そういうふうであるといいのかなと。」

・彌永信美〈語りえぬものへ〉
 縁起から空への「飛躍」

*「思想における「空」とは、一切の言語的表現や思念を超えた超越、あるいは絶対の別名であって、その「絶対」について人間が考え、あるいは体験し得ることはほとんどないといえる。この種の思考体験は、あらゆる概念の二項対立を止揚し、不二の超越的次元に「超越-突入」することを試みる。「非在」に対立するところの「存在」は「絶対」を指し示すものではない。「空」や「無」は、そのような「存在/非在」の対立を「空に帰した」ところで現れる超-存在論的境地を表現するのである。言語表現や思考が希薄になって、ほとんどの概念が使用不可能になっていく、そのような次元に残った数少ない表現のひとつが「空」であり「無」であると彌永氏は言う。「色即是空、空即是色」の「空」がこのような絶対を示すものであるならば、このことばは、「現実世界はそのまま絶対である、絶対がそのまま現実世界である」ということを意味することになるのである。」

*「「日常性の基本構造」がある状況で崩れかけると、突然ぱっくりと大きな地割れが口を開き、その向こうに、何か底知れない深淵が顔をのぞかせる。ぼくはそれを「絶対的存在の狂気の光」とか「絶対的非存在の暗黒」と表現していますが、それを「空」と言い換えることも可能かもしれません。」

○正木晃(まさき・あきら)
1953年生まれ。早稲田大学オープンカレッジ講師。専門は宗教学。主な研究課題は日本密教、チベット密教、宗教図像学(マンダラ研究)など。著書に『「ほとけ」論:仏の変容から読み解く仏教』(春秋社 2021)、『マンダラを生きる』(角川ソフィア文庫 2021)、『「空」論:空から読み解く仏教』(春秋社 2019)他多数。

○石飛道子(いしとび・みちこ)
1951年生まれ。仏教学者。北星学園大学非常勤講師、札幌大谷大学特任教授。専門はインド哲学、龍樹思想。著書に『古代インド論理学の研究:ブッダ・龍樹・ニヤーヤ学派』(起心書房 2023 )、『「スッタニパータ」と大乗への道』(サンガ 2016)、『「空」の発見』(サンガ 2014)、『龍樹:あるように見えても「空」という』(佼成出版社 2010)他多数。

○彌永信美(いやなが・のぶみ)
1948年生まれ。専攻は仏教学、仏教神話研究、比較文化。著書に『幻想の東洋:オリエンタリズムの系譜 上・下』(ちくま学芸文庫 2005)、『仏教神話学 1・2』(法藏館 2002)、『歴史という牢獄:ものたちの空間へ』(青土社 1988)がある。また、ヨーロッパ精神史や仏教文化史・神秘思想史などについての論文がある。

◎『談』no.131 特集◉「空と無」


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