保坂和志「鉄の胡蝶は歳月の夢の記憶を彫るか 67」(群像2024年3月号)/谷川俊太郎『バウムクーヘン』・内田也哉子『BLANK PAGE』)
☆mediopos3381 2024.2.19
昨日(mediopos3380/2024.2.1)は
時間感覚についてふれたが
保坂和志は(群像2024年3月号)
「鉄の胡蝶は歳月の夢の記憶を彫るか 67」で
老年期の感覚をめぐってあれこれと考え
「自由とはおのれの欲望の奴隷でないことだ」
「猿が話さないのは仕事をさせられるのが嫌だからだ」
という命題が
「現役である若いうちの考え方、言葉や概念」とは
別のものとして示唆され
そこからあらわれてくる
「過去は在ることをやめたことがない」
「過去はそれ自体として残存する」
「過去は現在と並行して在りつづける」
という現象をめぐって
あれこれと「小説的思考」を展開している
保坂和志のいうように
「四十年前の記憶は四十年前の記憶を持ってみないと
本当の意味で驚きをもって感じない。」
いうまでもなく若いあいだは
その顕在的な記憶の絶対量が少ないが
年を経ていくに従ってそれは次第に多くなっていく
社会生活を送っていくためには
共通理解を可能とするような
ある意味固定化された言葉や概念を身につけ
常識的な「出来事の順番や因果」に反しないよう
生きていくことが必要だが
老年期になると若いときにくらべ
ずっと多くの「過去」を「記憶」のなかに持ちながら
「現在」と並行して「過去」をも生きる
つまり「現在」が「過去」をも
含んだものとなることが多くなり
「若いうちの考え方、言葉や概念」や
「出来事の順番や因果」の縛りにとらわれにくくなる
(それらの制御を受け難くなるといってもいいが)
谷川俊太郎の詩「まいにち」のように
「いつのまにか
きのうがどこかへいってしまって
きょうがやってきたけど
どこからきたのかわからない
きょうはいつまでここにいるのか」
「そのひはどこへもいっていない
いつまでもきょうだ
あすがきてもあさってがきても」
時間感覚や因果感覚の「常識」から離れ
自由な感覚で生き(られ)るようにもなる
そのことををネガティブにとらえなければ
むしろ常識的な「言葉や概念」
「出来事の順番や因果」をふまえながらも
それらにあえてとらわれないでいることは
「自由」の可能性でもある
それは若くても可能ではあるのだが
少なくとも年を経るに応じて
そうした「自由」にひらかれる可能性は高まっていく
とはいえ年を経るに従って逆に視野狭窄になるとすれば
それは若い頃の記憶の檻にじぶんを閉じ込めながら
それにふりまわされてしまうことにもなるのだが・・・
保坂和志は言う
「ともかく知の外に広大な無知か非知がある、
私は高齢者に分類される年齢になって二年するあたりから
そこに触れられる可能性が出てきたのかも」
無知に非知
なかなかいいではないか
世の中はあまりにも視野狭窄の「知」で雁字搦めだ
その果てには機械が人間にとって代わろうとさえする
そんな「知」からの自由へ
■保坂和志「鉄の胡蝶は歳月の夢の記憶を彫るか 67」
(群像2024年3月号)
■「谷川俊太郎 a pet is a son」
(内田也哉子『BLANK PAGE/空っぽを満たす旅』文藝春秋 2023/12)
■谷川俊太郎『バウムクーヘン』(ナナロク社 2018/8)
*(保坂和志「鉄の胡蝶は歳月の夢の記憶を彫るか 67」より)
「何かについて語るのに言葉や概念はほぼ問題なく社会生活を送ることができて、大人として生きることのできる人を基準にできている、これは今さら私が指摘するようなことではないが、言葉が想定している範囲はここ十年くらいで多様性が注目されてその過程で見直されている言葉や概念の偏りよりももっとずっと偏っている。
私はもともと老年の感じの話をしようと思って今回はじめた、ここ二十年くらい、
「今年で私も七十歳になります。
年賀状は来年から失礼させていただきます」
みたいなことをする人が増えたが私はなんか違うと思っていた、そしたら今年、ここ年年か年賀状が来てない人から年賀状が届いた」
「「自由とはおのれの欲望の奴隷でないことだ」
「猿が話さないのは仕事をさせられるのが嫌だからだ」
この二つの命題が私が考えている老年期というもの、つまり現役である若いうちの考え方、言葉や概念が若いうちのそれと別の意味や動態、あるいは別の無意味や・・・・・・動態の反意語はここで何なのか————静態ではない非動態とか不動態とか単純な否定ではない、歩いていたものが這うみたいなことか、動きではないが静ではない、微動か? まあ、いい、というかそういう風に律儀に問題に対処してしまうことが若さだ、
「過去は在ることをやめたことがない」
「過去はそれ自体として残存する」
「過去は現在と並行して在りつづける」
私はそのつど憶えで書いてきたからたぶんこんな風にいろいろに書いてきた、この過去とは四十年前五十年前の私自身の経験のことだ、四十年前のことがこんなにも鮮やかに思い出されうるとは四十年前の記憶を持ってみないことにはわからない、脳科学や精神医学やいろいろな分野の専門家の人は二十代から知識としてそれを知るだろうがそういうことなら一般の人たちも、老人が昔のことをありありと思い出すと言ってることはよく知っている、四十年前の記憶は四十年前の記憶を持ってみないと本当の意味で驚きをもって感じない。」
「「自由とはおのれの欲望の奴隷でないことだ」
「猿が話さないのは仕事をさせられるのが嫌だからだ」
「過去は現在と並行して在りつづける」
「ヌアー族の社会には主人も下僕も存在しない」
この四つとも現代の経済と効率が最優先で数字であらわせることにばかり注意を向けさせる社会の逆を言っている、一つ得のおのれの欲望はそのまま経済の勝者になって思いのままに振る舞いたいことでそれを実現させている勝者たちは本当は少しも自由でなく、経済の運動なのか活動なのか変動なのかそれに操られているだけだという意味を超えて、外題には欲望しかないのだからこの社会には自由はないという意味かもしれない。」
「記憶が四十年、五十年、六十年と増えてくると私は出来事の順番があとさきになっていることが増えた、
(・・・)
「物事には順番がある」
とアリストテレスかプラトンなら言いそうだが、
「物事を順番に並べるのは人間の都合だ」
と荘子は言うんじゃないか。
西洋思想は出来事の順番や因果を考えるわけで私もまたそのような教育を受けて育った、しかし荘子は出来事や存在の起こりうるかどうか存在しうるかどうかという磁場みたいなことを問うんじゃないか、
(・・・)
出来事の順番の話だ、あるいは時間や歳月の話だ、いや老いた者は現役世代が当然としているこの社会を成立させている命題の外に出ることができるということだ、いや老いた者が自分を語る言葉や概念を持たないという話だ、それがなけれな老いてからの歳月を正しい自覚をもって生きることができない、という考えもまた老いを知らない者の考えなんだとしたら老いてからは正しいと正しくないの区別を無効にする基準が必要になる、大げさに善悪の彼岸、正誤の彼岸か。」
「ともかく知の外に広大な無知か非知がある、私は高齢者に分類される年齢になって二年するあたりからそこに触れられる可能性が出てきたのかも・・・・・・」
*(「谷川俊太郎 a pet is a son」〜谷川俊太郎「まいにち」より)
「まいにち
いつのまにか
きのうがどこかへいってしまって
きょうがやってきたけど
どこからきたのかわからない
きょうはいつまでここにいるのか
またねてるあいだにいってしまって
まっててもかえってこないのか
カレンダーにはまいにちが
すうじになってならんでいるけれど
まいにちはまいにちおなじじゃない
ハハがしんだチチがひとりでないていたひ
そのひはどこへもいっていない
いつまでもきょうだ
あすがきてもあさってがきても」
*谷川俊太郎『バウムクーヘン』ナナロク社 2018/8 所収
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