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対談 北村匡平×宇野常寛「SNSの快楽に抗うためには開かれた場所が必要だ」「いま人間に足りないのは「放課後の時間」だ」(集英社新書プラス)/北村匡平『遊びと利他』/宇野常寛『庭の話』
☆mediopos3727(2025.2.1.)
北村匡平と宇野常寛の対談が
「集英社新書プラス」で公開されている
北村匡平には『遊びと利他』
宇野常寛には『庭の話』という近著があり
それぞれの著書をふまえた話となっている
北村匡平『遊びと利他』では
職場や教育現場・公共施設や都市などの管理化が進むなかで
その流れが子供たちが遊ぶ「公園」にも押し寄せ
そうした効率化・管理化が
子供たちの自由な発想や創造性を損ってしまう状況に対し
他者への想像力を養う社会の在り方が
「利他」と「場所作り」からアプローチされている
また宇野常寛『庭の話』では
プラットフォーム経済に支配された現代社会において
人間本来の多様性が失われているなかで
「庭」という概念を通じ
テクノロジーと自然の共生する新たな社会像として
プラットフォームでもコモンズでもない
あらたな公共空間のモデルが構想されている
以下断片的にはなるが対談の内容から
宇野常寛は
みずからの都市開発や地方創生に関係する仕事のなかで
「ケアとか民藝とか公衆浴場やごみ捨て場などの、
小さくて身近な物事や空間を論じ」
「その知恵の総合としてプラットフォーム資本主義を
内破していく方法」としての
「庭」という「空間」によるアプローチを行っているが
そのアプローチは北村匡平のそれと近しい
北村は「これまでの「利他」の議論は、
どうやって与えるかという議論ばかりがされてきたので、
受け取り手のことはあまり考えられていなかった」こともあり
一般的にいわれている「利他」には懐疑的であり
「「利他」という言葉の持つ不自由さを認識した上で、
それを社会に組み込む」ために空間や環境に注目し
そこから自ずと他者について想いを馳せる
「利他」が生まれればという思いから
「人間が世界とどう関わることができるのかを
空間から考えている」のだという
しかし日本の公園では
「「利他的」な設計がどんどん無くなり、効率化が進」み
公園での禁止事項をはじめ
さまざまな管理上の制限が設けられるようになっている
公園は無目的でいてもいい場所であって
「庭」的な場所であるべきなのに
そうではなくなってきている
公園をテーマパークにしてしまい
遊び方を押しつけ指示通りに遊ぶような空間として
目的を持った「閉じられた場所」にしようとし
公園を過剰なまでに「管理」することが
普通になってきているのである
しかも「親が関与しない空間の構築がすごく大事」なのに
親が子どもに近すぎて
「見守る」といった距離をもつことができず
日本では「子どもが遊ぶ場所としての公園」を
みんなで担う意識が低い
たとえば「ドイツはシュタイナー教育の影響もあって、
自然と人間が共生する」という意識が強くあるように
「大きな砂場があって
大量の水で泥遊びをしていたりする」のだが
日本の公園では泥遊びを嫌がる親も多く
「自意識の話ばかりを日本は考えてしまっていて、
幸福という社会の目標を忘れてしまっている。
その問題が、公園の問題にわかりやすく露呈してる」という
宇野は「「複数の時間」を持つために、
人間は「時間的な自立」をすべきだ」といい
『庭の話』では「時間的な自立」をするために
どのように空間を使えば良いのかを示唆している
北村は『遊びと利他』のなかで
「放課後の時間を取り戻す」ことについて書いているが
「昔は、放課後は子どもだけの何もない、
何が生まれるかわからない時間帯」だったものの
「この時間が、今は明らかに少なくなっていて、
それを親が管理している。
例えば、都市部だと、とにかく子どもに習い事をさせて、
そういう何もない、豊かな時間を無くしている」という
宇野は「大人が遊んで見せることが大事」で
そのためには「複数の時間を持つ」必要があり
「思いがけないことをやったときに」
「自分が変わってしまうことを経験」したりできるような
「労働環境を整え」る必要があるといい
北村は「傷付くこと」が大事であるにもかかわらず
「現在は、社会全体が傷つくことを恐れすぎていて、
そうならないように大人が整えてしまうのが問題」で
そうなると「自分の世界を広げていくことに対して、
リスクを負いたくないという思考や、
傷つきたくないという思考が」強く働いてしまうというが
宇野は「否応なく人間の心身を作り変えてしまう、
表現に触れる」という「受動的な体験」の快楽が
「むしろ共感による安心の快楽に負けてしまっている」
のではないかという
「表現や芸術作品など、いわゆる虚構が持っていた
マゾヒスティックな快楽が、
圧倒的に負けてしまっている」
宇野の『庭の話』では
「「時間的な自立」を求める過程の中で、
<制作>の重要性を押し出し」
「日常の中で自分が<制作>することを重視」しているが
北村は「そうした<制作>が現在、
普通の公園では味わえなくなってきてい」て
「世界の手ざわり」がどんどん希薄になっているという
いわゆるプラットフォーム資本主義としての
2010年代のソーシャルメディアの流れは
「交換そのものが経済的価値を帯びていく中で、
使用価値が失われていく時代」だったが
そんな状況においてこそ
「自分で<制作>して世界とつながることの価値を
捉え直さないといけない」
という示唆で対談は終わっている
あえて論じるまでもなさそうな
あたりまえの話ではあるのだが
事態はいまやそこまできている・・・という感がある
管理社会的な流れは
時間においても空間においても
私たちを「世界の手ざわり」から
切り離そうとするばかりのようだ
「公園」や「ソーシャルメディア」だけの話ではない
いまやそれらを離れては「遊ぶ」場所を持てなくなっている
「開かれた場所」「放課後の時間」
といった空間と時間において
じぶんで「制作」することで「世界とつながる」機会を
あえて設けなければならなくなっている
そんな時代のなかで・・・
■対談 北村匡平×宇野常寛
「SNSの快楽に抗うためには開かれた場所が必要だ」
「いま人間に足りないのは「放課後の時間」だ」
(集英社新書プラス 2025.1.30/1.31)
■北村匡平『遊びと利他』(集英社新書 2024/11)
■宇野常寛『庭の話』(講談社 2024/12)
**(北村匡平×宇野常寛「SNSの快楽に抗うためには開かれた場所が必要だ」)
・プラットフォームの問題を「空間」を考える
「宇野/
北村さんの『遊びと利他』を読んで最初に感じたのは、『庭の話』との問題意識の近さです。(・・・)SNSをはじめとする情報プラットフォームの設計が「利他」の設計に失敗してきた、という問題意識が北村さんの中にありますよね。
インターネットプラットフォームの設計者たちは、人間が「いいね」をはじめとする承認欲求の奴隷になるだろうという、「刺激-反応モデル」に従ってプラットフォームを作っている。その結果、多くの人がもっとも簡単に快楽を得るために、SNSプラットフォームに支援されて、共同体に接続しています。具体的に言えば、敵を殴って味方から承認されようとしている。そんなものは共同体ではない、という人もいるかもしれないけれど、僕に言わせればSNS上では常に高速で共同体が立ち上がって瞬時に分解されている。だからネット論壇の「党派」からカルト宗教まで、共同体を持続しようとすると、常に「敵」を設定する必要があるし、その攻撃対象を定期的に変化させていくことが必要になる。SNSプラットフォームはむしろ共同体と親和的だというのが僕の立場です。(・・・)そこに利他的な姿はありません。
そんな中で北村さんは、環境工学的に人間を見つつ、その根底にある人間観を少し変えれば、利他の空間は作り得る、という強い確信のもとでこの本を書いていますよね。
そこで登場しているのが公園です。公園空間の試行錯誤の中に考えるべきものがたくさんあり、それを分析・抽象化することによって、利他が設計できることを丁寧に書いている。」
「北村/
ありがとうございます。宇野さんが2020年に刊行された『遅いインターネット』(幻冬舎)では「遅さ」という「時間」が論じられていたのに対し、今回刊行された『庭の話』は「空間」が論じられていて、僕が『遊びと利他』で試みたアプローチと近い印象を受けました。この「空間」への着目は、どのようなきっかけがあったのですか。
宇野/
『遅いインターネット』は、いま述べたようなSNSプラットフォームによるインスタントな承認の快楽の奴隷になる人々が多発する現実に対して、戦略的にプラットフォームからメディアに撤退することで情報への距離感や進入角度をはかり直すことを呼びかけました。
でも、その後もインターネットはどんどん速くなっていった。
そのとき、僕が考えたのは『遅いインターネット』は間違えていないけれど、やっぱりメディアの問題を、メディアの内部だけで解決する戦略じゃあ、足りないんだなということなんです。実空間も含めた総合的なアプローチが必要だと考え直した。僕は、ここしばらく都市開発や地方創生に関係する仕事が多かった。有楽町の再開発に関わったり、安宅和人さんの「風の谷を創る」プロジェクトに参加してきた。それらで得た知恵を使い、情報プラットフォームの外側から、こうしたプラットフォーム資本主義の問題を考えたのが『庭の話』です。だから、ここではケアとか民藝とか公衆浴場やごみ捨て場などの、小さくて身近な物事や空間を論じていて、その知恵の総合としてプラットフォーム資本主義を内破していく方法を考えています。あくまで「内破」ですね。(・・・)ロマンチックな外部を語ってあまりものを考えていない人を騙すんじゃなくて、しっかりと現場で試行錯誤している人と並走しながら試行錯誤することで、「内部」から変えていきたい。そんな思いがあります。」
・「利他」への疑問から「空間」に着目した
「宇野/
一方で僕は「利他」という言葉はあえて使わなかった。そもそも、僕は贈与的なコミュニケーションに懐疑的というか、慎重な立場です。たとえば2016年のアメリカ大統領選の民主党内でのヒラリー対オバマの構図で、ヒラリー側が要するに「自分たちのようなパワーエリートが経済成長を進めて、それを再分配するから、私たちの言うことに従え」というメタメッセージを結果的に発してしまったことに違和感を持ったんです。要するに強者のブランディングとしての「施し」の側面を感じさせる言説になっていた。
しかし、それがどれだけ、施される側の人々のプライドを傷つけたか。その言い方は、やはり与えられる側の尊厳を損なうことで、与えられる側の彼らを世界から遠ざけるものだと思う。「利他」という言葉はかなり慎重に、精密に使わないとこの罠にハマる危険性があると感じたので、安易には使えないなと思ったわけです。
北村/
分かります。これまでの「利他」の議論は、どうやって与えるかという議論ばかりがされてきたので、受け取り手のことはあまり考えられていなかった。だから、僕も一般に言われている意味での利他に対してすごく懐疑的なんです。(・・・)
この「利他」という言葉の持つ不自由さを認識した上で、それを社会に組み込むことが必要だと思いました。それで、人ではなく、空間や環境に注目しました。偶然性に開かれていて、お互いに利己的にならないように、多様な人と出会うことができる空間を設計できれば、自ずと他者について想いを馳せる「利他」が生まれるんじゃないか。
宇野/僕も、その意味で「利他」を考えているというより、人間が世界とどう関わることができるのかを空間から考えている、といえます。」
・テーマパーク化する公園
「北村/
一方で、日本の公園を見ていると、この「利他的」な設計がどんどん無くなり、効率化が進んでいる気がします。公園での禁止事項がどんどん増えているんですよ。特に2000年代からその傾向は顕著になってきました。例えば、僕が一番嫌なのは、遊具に年齢別にシールが貼ってある公園ですね。年齢で遊ぶ人が区切られてしまって、多様性とは程遠い。」
「北村/
それに、最近は遊ぶ回数も指定されていたりします。ある公園では、人数制限と体重制限まで書いてあったりする。このブランコは3人まで160キロ以内ですと書かれていたりしました。海外の公園と比べると、これが異常だとわかります。デンマークやドイツにはそんなものは一切ない。親も一緒に遊具で遊んでいるぐらいです。
日本において、このままこうした遊びの空間を放置していていいのだろうか、という危機感をすごく抱いてますね。
宇野/
僕が都市開発関係の仕事をしている中で感じたのは、良くない公園はそこをテーマパークにしてしまっている、ということなんです。たとえば、無自覚に階級的に閉じてしまった公園は少なくない。(・・・)
何が問題かといえば、今、僕らが公園を、目的を持った「閉じられた場所」にしようとしていることが問題だと思うんです。本来、公園は無目的でいてもいい場所のはず。僕の言葉でいえば「庭」的な場所であるべきなのに、そうでないのが今の「イケている公園」だと思うんです。
北村/
階層や階級の話は、今指摘されて、はっとしました。僕は二子玉川に住んでいるのですが、確かに二子玉川の公園は、みんなモンクレールを着て、マダムがいる(笑)。そういう場所になっています。
同じような傾向は遊具にも見られますよね。本書でも触れたタコ遊具は、適度に死角ができるようになっていて、アジトのような空間が生まれます。さらに、遊んでいると誰に出会うか分からない「偶然性」に開かれています。けれど、今の複合遊具ではほとんど死角がない。」
「今の公園はまさにテーマパークのようになっていて、それぞれの遊具が何をすべきか丁寧に解説があって、子どももその指示通りに遊ぶような空間になっています。いわば、遊び方を押しつけている。」
・監視と管理が広がる社会空間
「宇野/
僕は2023年に『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)という中高生向けの本を書きました。そこでカブトブトムシを取りに行く話を書いたのですが、カブトムシは人間界のルールと関係なく生きているので、人間の基準で探してもなかなか見つからない。生活する時間帯も違うし、場所も違う。ちょっと人間の基準からすると「なぜ、そこ?」と思うようなところにいたりするわけです。けれど、自然と関わるのは、そういったコントロールできないものと関わることなんですよね。
僕は、公園のような場所は、コントロールできないがゆえに、それが逆に快楽になることを覚える機能が大事だと思う。特に、それは子どもにとっては大事なんじゃないか。そうした回路を今の公園がどこまで提供できているのか、疑問です。
北村/
僕もそう思いました。特に日本の公園を観察してると、とにかく人に迷惑をかけたくないという意識が親側にあって、他人とのかかわりを制御しようとしている。かつての公園は、そもそも親がそんなにいなかったと思うんです。子どもは勝手に遊び回っていたし、けがもいっぱいしていた。けれども、今は公園において「管理」することが普通になってきています。
こうした「管理」は社会の色々なところに広がっています。デヴィット・ライアンの議論をはじめとして2000年代は監視社会論が盛り上がったじゃないですか。」
「北村/
まだ2000年代には監視カメラに対して反対する人が多かったのですが、それが明らかに2010年代に入って変わってきた。僕は、たまたま2010年代後半にマンションの理事になって、マンションの住人全員に監視カメラについてのアンケートを取ったんです。そしたら、未回答の一人を除いて、あとは全員が賛成だったんです。社会がすごく変わった。監視されるほうが安心だ、という意識が強くなりました。
子ども自体も管理されたがってますよね。僕は大学で教鞭をとっていますが、大学生を見ていると、やることを全て指示してほしい、何をやるのか誘導してほしいという意識がすごく強い。
宇野/
僕自身今の大学生と話していて思うのは、とにかくSNSを見過ぎなんじゃないか、ということです。多分、監視カメラみたいな無機的な存在に監視されるよりも、ソーシャルメディアでの相互監視のほうが人々を縛ってるし、そこに息苦しさも感じながら依存もしてる状態が、相対的に物理的な監視カメラのことを気にさせなくしているんだと思います。
北村/
その意見は面白いですね。
僕はこの本の中で、いくつかの幼稚園や公園を利他的な空間として紹介しているのですが、それらの公園では、大人が子どもを管理しすぎていない。全部コントロールするでもなく、逆に全部放棄するでもなく、中途半端な管理をしているんですよね。それが、すごく大事だと思っています。本当に危ない遊びをしている場合は止めますが、例えばけんかをしても、しばらくは見ている。
でも、普通の公園に行くと、親と子どもの物理的な距離はあったとしても、心はぴったりくっついている。何かトラブルになりそうだったらすぐに止めるし、親が子どもに近すぎる。「見守る」ことができないんですよね。親と子どもがある程度離れるような、親が関与しない空間の構築がすごく大事だと思います。
宇野/
見守るスタンスが取れないのは、「自分の子ども」に対する過剰な思い入れがあるからだと思います。子どもは「親のもの」ではなく、「社会全体のもの」だと全員で共有する必要がある。新幹線の中で赤ちゃんが泣いて、うるさいと怒鳴るおじさんがいるのは下の世代を社会全体の財産だと認識することができないからですよね。「自分の子ども」という発想が強すぎるからそうなっている。」
・「子ども」や「幸福」を日本社会は考えてきたのか
「北村/
僕の本では、特に日本でそうした「子どもが遊ぶ場所としての公園」をみんなで担う意識が低いんじゃないかと書いています。
海外の公園に行くと、遊ぶ場の空間や遊具の在り方がぜんぜん違うんです。例えば、ドイツはシュタイナー教育の影響もあって、自然と人間が共生することの意識を公園から感じました。ドイツの公園は、本当に木が多いんです。それに、遊具も木でできた遊具が多い。日本だと維持管理の問題から、メンテナンスが大変な木ではなくて、プラスチックにガラスの繊維を混ぜ、弾性と強度を加えたFRP遊具がとても多いです。
それと、ドイツでは大きな砂場があって大量の水で泥遊びをしていたりする。日本の公園だと泥遊びを嫌がる親が多いですよね。小さい頃から毎日のように木と触れ合ったり、泥で遊んでいたら、世界とのかかわり方がすごく変わるんじゃないかなと思うんです。
宇野/
子どもに対してどうコストをかけるのか、という社会的なコンセンサスの問題ですよね。人を育てることは社会そのものなんだから、無条件で最優先だという同意がまずあって、だから、子どもが泥遊びをしたいんだったら、それを重視すべきだという前提に立つことができる。
でも、日本は子どもを育てることが、コスト計算されてしまってるんです。その結果、壊れにくい遊具と汚れにくい砂場を置く選択になってしまう。子どもに対してコスト計算をすることは、明確に良くないと思っています。」
「宇野/
日本は幸福を最優先にしていないんだと思います。これは戦後社会の問題だと思っていて、もう戦後80年になるのに、高度成長からバブル、そして失われた30年という、対外的なプライドの話ばかりを、みんな考えてるんです。
でもそれは、自分たちが外向きにどう見られるかという自意識の問題で、国家や社会の目標は国民の不幸を減らすことだと思う。でも、自意識の話ばかりを日本は考えてしまっていて、幸福という社会の目標を忘れてしまっている。その問題が、公園の問題にわかりやすく露呈してるんだと思います。」
**(北村匡平×宇野常寛「いま人間に足りないのは「放課後の時間」だ」)
・「歩くこと」と「走ること」
「北村/
宇野さんは近年の著作のなかで、繰り返し「走ること」について論じられてます。僕は人類学者のティム・インゴルドがすごく好きなんですが、彼は「輸送」と「徒歩旅行」を対比させている。輸送には目的があってそのためにどうするかといった効率性が重視されるが、「散歩」とも言い換えられる「徒歩旅行」は目的に向かってゴールすることではなく、歩く過程の中で世界と呼応する、と。」
・「時間的な自立」をする
「宇野/
「複数の時間」というか、「複数の速度」があることが、僕は大事だと思っています。例えば、高田馬場から雑司が谷は隣の町で、歩いたり走ったりすると実はすぐなんです。でも、電車の接続は悪くて、電車だと結構時間がかかっちゃうんです。むしろ渋谷や飯田橋のほうが近く感じる。それによって、高田馬場と雑司ヶ谷はどこか遠く感じることがある。これは、やはり人間の土地の感覚が交通によって規定されていることだと思うんです。
同じことが、情報デバイスなどによって、より深刻に起こっています。
実際、実空間はプラットフォームの支配下にあると思います。例えば、今、オーバーツーリズムで悩む都市は、Google マップが市民の足であるバスを表示せず、観光用のバスのみを表示させるようにしています。その傾向はおそらく、今後もっと強くなっていくでしょう。つまり、空間的にも、もうプラットフォームの外部はないと僕は思っている。
特に日本で言うと、Xのタイムラインによって、人々の時間が全部規定されすぎていて、全員の精神的な、主観的な速度が一緒になってしまっています。
そのときに大事なのは、実空間かリアルかを問わず、僕たちが複数の時間を生きられるかどうか、ということなんです。歩く、走る、電車で移動するという移動手段を複数持つこともそうだし、オールドメディアの速度、ソーシャルメディアの速度が昔は全然違った。でも、今は一緒じゃないですか。
僕は、「複数の時間」を持つために、人間は「時間的な自立」をすべきだと思う。『庭の話』は、そうした「時間的な自立」をするためには、どのように空間を使えば良いのかの話をしています。
北村/
「時間的な自立」ができる空間でいうと、かつて僕はメタバースの空間にすごく可能性を感じていたんですよね。ただ、結局その空間も現実世界の引き写しのようになってしまって居心地悪く感じるようになり、あまり興味を持てなくなったんですよね。メタバースについては、どう評価されていますか?
宇野/
先ほども言ったように、ぼくは人間が「複数の時間」を生きられることが大事だと思っていて、いかに人間が暮らしの中で触れられる時間が複数化できるように、異なる速度の回路を埋め込んでおくのかが大事だと思っています。メタバースがそのうちの一つになるといいと思う。」
・放課後の時間を取り戻す
「北村/
僕は『遊びと利他』で「放課後の時間を取り戻す」ということを書きました。昔は、放課後は子どもだけの何もない、何が生まれるかわからない時間帯でしたよね。この時間が、今は明らかに少なくなっていて、それを親が管理している。例えば、都市部だと、とにかく子どもに習い事をさせて、そういう何もない、豊かな時間を無くしていると思う。
宇野/
僕は放課後の時間の何がいいって、自由に帰れることなんですよ。遊んでいてつまんなかったり、もめたりしたら帰れる。なんなら、明日来なくてもいい。これがいいと思っていて。
僕は子どもの頃、両親が共働きだったのですが、「大人って放課後ないじゃん」ということに絶望してたんですよ。朝出かけて、夜に帰ってきて、あとはもう寝る、って感じで。僕は遊ぶのが好きだったから、遊ぶ時間は大人になると無くなっちゃんだ、と思って、大人になりたくないと思ってた。
北村/
僕も全く同じですね。僕の両親も共働きだったんで、帰ってきてご飯を食べて風呂に入って家事をして寝る、という様子を見てました。
宇野/
あれは絶望しますよね。
北村/
絶望ですね。
宇野/だから、僕は大人が遊んで見せることが大事だと思うんです。そのためには、労働環境を整える必要がある。
それと、『庭の話』で割と終盤に書いたのですが、そうした複数の時間を持つために、労働という回路をうまく使おう、ということなんです。労働はやりたくなくても、やらなきゃいけないことが結構多い。そんな思いがけないことをやったときに、交通事故とか、虫刺されみたいに、後ろや横から不意に襲われる刺激のようなものがあって、それで自分が変わってしまうことを経験すると思うんです。
そのための回路として、労働をいかにちゃんと使うかが大事で、それを用意するためには労働環境も変えていかなきゃいけない。」
・傷付くことと創作
「北村/
「傷付くこと」は大事だとずっと思っています。現在は、社会全体が傷つくことを恐れすぎていて、そうならないように大人が整えてしまうのが問題だと思っています。
例えば、大学の授業でグロテスクな表現や作品とか、セクシャルなものを見せられなくなっています。でも昔は、テレビを見ていても思わずすごい表現に出会ってしまうことがあって、それがずっと忘れない経験になることもあった。今はそういう経験が全体的に無くなっていますよね。
僕が一番傷ついた経験をしたのは、旅なんです。旅をすると本当に傷つくんですよね。昔、ヒッチハイクをしていたんですが、そこで出会うのは、とても優しい人もいればひどい人もいっぱいいる。でも、その傷つく経験を通して、人間の本質というか、自分が知らなかった世界に触れられるような感じもあったし、知らない土地を歩いていくことによって、世界が拡張されていく実感もありました。
自分の世界を広げていくことに対して、リスクを負いたくないという思考や、傷つきたくないという思考が強いと感じます。
宇野/
表現の快楽は、そもそもかなりマゾヒスティックなものなんですよ。テキストでもそうだし、映像でもそうだし、音楽でも全部そうなんだと思うんだけれど、やはり他人の妄想というか、テキストとか音声とか映像が、われわれの感覚器や内面をジャックすることによって、否応なく人間の心身を作り変えてしまう、表現に触れるって、そういう受動的な体験です。
現代は、この快楽が、むしろ共感による安心の快楽に負けてしまっていると思います。それは、そうした安心の快楽がインスタントで大量に供給されてるからで、明らかにSNSプラットフォームがそれを引き起こしている。表現や芸術作品など、いわゆる虚構が持っていたマゾヒスティックな快楽が、圧倒的に負けてしまっている。」
・<制作>で「世界の手ざわり」を取り戻す
「北村/創作についての話になりましたが、『庭の話』では、そうした「時間的な自立」を求める過程の中で、<制作>の重要性を押し出していますよね。「食べること」や「プラモデルを作ること」など、日常の中で自分が<制作>することを重視しています。僕の本の中では、羽根木プレーパークの例を出していますが、あれはまさに自分たちで遊具を作り、自分たちで遊ぶ例です。そうすることによって、遊びがすごく立体的になる。
ただ、僕が危惧しているのは、そうした<制作>が現在、普通の公園では味わえなくなってきていることです。宇野さんの言葉で言う、「世界の手ざわり」がどんどん希薄になっている。
宇野/
僕は、人間はどこかで「世界の手ざわり」を求めてしまう生き物だと思っています。世界と関わっている感覚を得たい生物だと思う。
そのとき、今の世界で手ざわりを得られるのは、主に2つです。1つは労働を通じて市場からの評価を得ること。しかし、大多数の人間はそれができません。そうでない人々は、SNSのプラットフォームを通して共同体に接続して、世界の手ざわりを得る。しかし、すでに言ったように、それは敵と味方を強力に分ける回路に巻き込まれてしまうことを意味する。
これを緩和する第三の回路として、<制作>に僕は再注目しています。初期のインターネットでは、やはり制作が中心にあった。それをもう一度再起動したい。
2023年に出した『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)では、みんなでわいわい楽しむのもいいけれど、一人で遊ぶことも世界を味わううえでは大事だと書きました。その本のなかでも、まさにものを作る話をしている。自分に照らし合わせたとき、遊びを極めていくと、最終的に自分で作ることになるんですよね。
僕もずっとオタクで、アニメや特撮が好きすぎて、だんだん評論を書くようになっていった。だから、これも遊びの延長なんですよ。やっぱり作っているときが一番幸せです。だから、<制作>論にどうしても収斂していくところがある。
北村/
僕も2000年代前半に自分でパソコンをいじってインターネットのウェブサイトを作ったりして、いろいろ遊んでいました。あの頃とソーシャルメディアの時代は全然違っている。アメリカの政治学者・ジョディ・ディーンが「コミュニケーション資本主義」という概念を2000年代初頭に打ち立てているんですが、新自由主義下のネットワーク上のメッセージは数の論理に回収されてしまい、交換価値が使用価値を上回って、「真/偽」を問わず「経済的価値」が優先される。その循環が経済を活性化させ、グローバル企業がいっそうヒエラルキーを構成し、格差が拡大し続けるということを言っていたんです。
まさに2010年代のソーシャルメディアの流れ、いわゆるプラットフォーム資本主義の流れは、交換そのものが経済的価値を帯びていく中で、使用価値が失われていく時代だったと思います。そう考えると、やはり自分で<制作>して世界とつながることの価値を捉え直さないといけない、と思いました。」
○北村匡平 (きたむら きょうへい)
映画研究者/批評家。東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授。1982年山口県生まれ。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了、同大学博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員(DC1)を経て、現職。専門は映像文化論、メディア論、表象文化論、社会学。単著に『遊びと利他』(集英社新書)、『椎名林檎論――乱調の音楽』(文藝春秋)、『24フレームの映画学――映像表現を解体する』(晃洋書房)、『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書)など多数。
○宇野常寛(うの・つねひろ)
批評家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』(ともに幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『庭の話』(講談社)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
◎対談 北村匡平×宇野常寛
「SNSの快楽に抗うためには開かれた場所が必要だ」
(集英社新書プラス 2025.1.30)
◎対談 北村匡平×宇野常寛
「いま人間に足りないのは「放課後の時間」だ」
(集英社新書プラス 2025.1.31)