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荒俣宏×高山宏 対談「雑に、密かに—編集工学のアルファとオメガ」(『ユリイカ 特集 松岡正剛』/高山宏「雑密のルイス・キャロル」(松岡正剛 編著『別日本で、いい。』)

☆mediopos36453(2024.11.19.)

『ユリイカ 特集 松岡正剛』(2024年11月号)に
荒俣宏と高山宏の対談
「雑に、密かに————編集工学のアルファとオメガ」が
掲載されている

「雑に、密かに」というのは
空海の密教が
東密として真言密教になるまえの「雑密」を
あらわしているようだ

松岡正剛のいう
密教とマニエリスムをくっつけたような
「直接的に伝わる想像力」
つまりは「一目惚れの力学」であり

それはまた「フラジャイル」という言葉が
ラテン語において「壊す」という意味をもっているように
定説や定義を「壊」し
「それ以外」を許容するものでもある

松岡正剛は『遊』の時代の工作舎をでて
編集工学研究所を設立し
イシス編集学校を運営するようになってから
次第に教育色を強くするようになり

「遊」のもっていた「雑密」的な
どこかわけのわからないところが体系化され
収斂してしまう方向性を持つようになっていったようだ

荒俣宏や高山宏は
当初の「遊」的な松岡正剛に出会い
その「雑密」をともに生きる機会を得た人たちであり
それだけにこの対談から伝わってくる松岡正剛像からは
かつての野生が伝わってくる

高山宏はいう
「彼とある程度の付き合いをした人間はみんな思うだろうけど、
知の巨人なんてイメージは全然ないよね。
そこは人間的に見て非常に興味のある対象だったな。
フラギーレを知るこころ優しきインテリ・ヤクザ。
まさに兄事(!)しました。」

松岡正剛は『別日本で、いい。』において
空海と編集工学をつなげ
それをアルス・コンビナトリアというのだが

それはエンジニアリングとしてのエディットであり
「単に単発の記事をまとめて
一つの媒体にしていく」ような編集技術のことではない

「雑密で一番重要なのは」
「ストレンジャーのアイデアを持っている人たち」で
「本来はコア」じゃなく「周縁」である「その他」

荒俣宏や高山宏もまた
ほんらいその根っこに「雑密」をもっているようだ

高山宏はそんな「雑密」について
『別日本で、いい。』に
松岡正剛との「今生の別れ」の一文
「雑密のルイス・キャロル」を寄せている

そこでは最晩年になってA・P・シネットの
『エソテリック・ブッディズム』に凝っていた
ルイス・キャロルの最後の文学作品
『シルヴィとブルーノ』における
「メービウスの輪」について語られている

「表と思っていたら裏だった、
そもそも表って何、で裏とは何?
「空」と思っていたら実は「色」という
問いかけの入り口に晩年のキャロルは
立っていた可能性が高い。」

『シルヴィとブルーノ』はそうした
人間界と妖精界の時空のごたまぜの方法論で
書かれた「雑密の文学化」だというのである

「遊」は「雑密」でありたい

「編集」というエンジニアリングにおいても
そうした「雑密」的な「周縁」性「その他」性が
失われることのないようにと切に願う

■荒俣宏×高山宏 対談「雑に、密かに————編集工学のアルファとオメガ」
 (『ユリイカ 特集 松岡正剛』2024年11月号 青土社)
■高山宏「雑密のルイス・キャロル」
 (松岡正剛 編著『別日本で、いい。』春秋社 2024/4)

**(荒俣宏×高山宏 対談「雑に、密かに」〜「フラジャイルな人文主義」より)

*「高山/
 人文主義の何たるかという骨子がわからないまま、人文に未来はあるか、現在の陣ブツン主義とは何かと議論をしているけれど、一五、一六世紀に二〇〇年かけて出した人部主義の定義が「賢いように見えるこの自分はバカだと知ること」なんだ。数学も宗教もなにもできたのに、自分はこんなになにもわかっていないまま死ぬんだろうかと、モンテーニュもパスカルもみんなそう。」

「荒俣/
 どうして人文主義なんて訳したんでしょうね。(・・・)そもそも、フラジャイルって「壊す」という意味のラテン語に由来しているんですよ。安定していたものを壊す。だから中世の終わりごろになり、アラビアなどという異国語の科学が入ってくると、壊すという言葉は思想信条を壊すという意味にも使われ、それがいつか、「改宗しやすい人」という意味にまで変化した。とすれば、人文主義者は弱い人どころか「壊し屋」でしょ?」

 高山/
 あるとき、真夜中の長電話で松岡さんが「高山くんさ、fragile って英語あるよね、あれってどういう意味だと君は思ってる?」と言うから、「普通には弱いとかなんかとかいう意味だけど、もともとは壊れやすい郵便物に貼る「天地無用」というサインだよ」と言ったら、「ちょっと待って書いておくから」って(笑)。

「荒俣/
 松岡正剛的に言うなら、百科事典によくある最後の「その他」なんていう雑っぽい項目も、フラジャイルの意味の一つだったんじゃないかと思うんですよ。せっかく決めた分類が、この項目によって「それ以外」を許容することになっちゃうからね。」

**(荒俣宏×高山宏 対談「雑に、密かに」〜「G感覚の発見」より)

*「荒俣/
 幸いなことに松岡さんとは最後に、角川武蔵野ミュージアムの設計を本当に偶然、二人でやれたんです。そのときに松岡さんは話がわかりすぎるようになったなという感じがとてもした。赤ん坊を育てるように生徒の面倒をみるお母さん的な役割になっていたんじゃないかと。我々の間柄はどちらかというと、任侠の世界に近かった。「へい、親分」みたいな、義理と度胸の任侠映画みたいな懐かしさもありましたね。松岡さんが工作舎を離れなくちゃいけなくなったときのことも、『遊』に少し書き遺しています。珍しく気落ちしたお顔で家に帰ってきて、(まりの・)るうにいさんにそれを話したら、「そうなの、悔しいね」とるうにいさんに慰められた。松岡さんも、「自分の周りにいた遊塾の人たちに役割を押し付けすぎたんじゃないか」と反省していたしね。僕は松岡さんの工作舎退社については真相をまるで知りませんが、独立して事務所と編集工学研究所を設立したときに、その運営方法を変えたんじゃないかと思う。幕末の私塾みたいな雰囲気を感じさせるところがなくなり、パブリックな学校というイメージに変わった気がします。松岡さんが到達した編集工学の奥義は、津田一郎さんとの『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』(文春新書、二〇二三)のなかで生後の秘宝伝授のように語られているように、ある程度決着がついたんじゃないかな。だから優しくなったんじゃないか。最後に角川武蔵野ミュージアムの計画づくりで数年ぶりに松岡さんと仕事ができて楽しかった。ただ、ガンガンやるリーダーシップの方法はあまり使わなかったみたい。救いの手を差し伸べる先生のような雰囲気がありましたね。みんなになるべく多くのものを伝授しようとしたところには、ためらいがなかったようだけども。僕らのは泊まり込みで話し合うようなムチャクシャさが面白かった。『遊』の時代でしたから、基本は遊びですよ。学ぶんじゃない。食うや食わずで給料もご飯のないのに、それでもみんなやっていたのですから、雑誌名とおりの「遊び」以外の何者でもなかった。だから、松岡さんの晩年にかかわった人たちょが、松岡さんから得たものをどう継承していくかが興味深いです。まだ何年か松岡さんより長く生きることになった僕らは、ちょっとそこを見てみたい。今日の対談で高山くんがいろいろな無理難題にニコニコ笑いながら答えているのも、ある意味、晩年の松岡さん的ですよね。松岡さんは冷静で、すごく優しく、博物館づくりを指導されました。その優しさの一番の発露y表現で、いま思い出すのは「ささやき声の対話」でした。聞き取りにくいほどだったけど、みんなを説得する神仙じみや穏やかさがあった。あの小さな声に一番魅了されました。なんかね、自分は消えてうつろな容器になるという感じ。うつろな容器って、いまハッと思いついたんだけど、これってパラメーターのことでもあるよね。「うつろ」はパラメーターだったァ! 僕も今から、言い争いをするのを控えたほうが、自分の真意をより精確に伝えられると、考えを改めますよ。パラメーターになろうっと。」

**(荒俣宏×高山宏 対談「雑に、密かに」〜「編集工学のオイコノミアに向けて」より)

*「高山/
 僕はこの機会を与えていただいて、彼が空海にこだわった理由がわかってきたんだけど、編集工学の工学はメカニックというよりエンジニアリングでしょう。「エンジン」「エンジニアリング」の語源「インゲニウム ingenium」を見てもわかるとおり、マニエリスム美学の中枢概念でもあります。松岡さんがカタカナで一番好きなのがエンジニアリング。空海は密教のお坊さんということとは別に、エンジニアなんだよね。僕は一八、一九歳まで高知にいたから空海が掘って、水に困っていた農民信者たちを救った香川の満濃池の話も小さい頃からよく聞いていたんだよ。だから治水のエンジニアとしての空海というのは僕の頭のなかにしっかりあった。エンジニアリングとエディットといったときに、 edit がどういう意味かというと、edo から出てきている。調べていくと腰を抜かすよ。ほとんどなんでも意味できるんだ。綴りにも残っているけど、英語の do、does,did と同じ、あれはみんな edo。つまり松岡さんが本当の狭い意味での編集から始めたのが工作舎なんだと思う。それがだんだん人に教えるという意味の edo に転換していくのが編集工学研究所からイシス編集学校になった二〇〇〇年頃なんだろうね。彼は『別日本で、いい。』(春秋社、二〇二四)で空海と編集工学をつなげるときにアルス・コンビナトリアと言うわけだけど、それは単に単発の記事をまとめて一つの媒体にしていくのが編集技術ではないということなんだよね、まさに edo であって、強烈なお世辞になっちゃうかもしれないけれど、松岡さんはそういう意味で自分の作った edit という感覚、edo を他の人間では考えられないようなレンジとアレンジメントでやり遂げたんじゃないかなと。それに対して「非凡社(平凡社)」の二宮隆洋さんのような基本的には古典的な編集者は紙の上できちっとした本を作る編集作業にコンピュータなんか必要ない、それを必要だという松岡正剛は編集者の名折れだと批判するわけだ。それは編集工学の「工学」を履き違えていると思うね。最初からずっと読み続けていると荒俣君のおっしゃるとおり、全活動が一本の太い線でつながっている。局面は大きく変わったけれど、彼には見る目があったから、空海と工学の両方で成功を収めた。大往生と言ったのはそういう意味でね、普通の人はどちから一方をもう十分やりきったという評価を受けるんだけど、彼の場合は教えるということもマニエリスムだった。言葉を使って、それまでそう考えなかった人間を自分と同じような考えに達していくようにしたんだ。

 荒俣/
 松岡さんは電気だとか脳髄だとかいろいろなことを言うんだけど、これはどういうふうに伝わるかとうことにも興味がある。普通、脳のシナプスが命令を出すプロセスというのは一回電磁波になって、それから化学物質に変えないと次の細胞に伝わらない。脳というのはトランスレーターなんだ。ただ、そういう伝達ごっこをやっていると、非常に長大な時間がかかるし、いちいち翻訳が必要になる。この遅さとわずらわしさをなんとかできないかと発想したときに出てきたのが、重力とも関係あるけれど、加速度だったんだ。加速度も松岡さんのキーワードだよね。どんどん早くする。そのためにはテクノロジーを入れないと駄目なんです。角川武蔵野ミュージアムの図書館も一瞬で本のクラスターを見渡せるようにしてある。本をいちいち検索するのではなく、パッとやれば向こうから出てくるというシステムにこだわった大きな理由なんです。だが、加速度のためにはトランスレーターの脳なんか介さないほうがいい。脳のトランスレーターを経ずに一発で雷のようにズバッとつながる方法があるんじゃないか。事実あるんです。センサーと電撃による神経回路が、動物にはある。例えばイバカランザシというイソギンチャクに非常に近い生物がいて、花のように開いているんだけど、手をちょっとかざして日陰を作るとものすごい速さでピュッと閉じる。もともと脳がないから、光があるかないかというセンザーだけで判断している。その代わり、物の形や色や距離なんかはわからない。つまり、目が像を結ぶのではなく、センサーとして機能するわけですよ。これが生物の情報の伝え方の別報です。形は結ばないけれど、感覚でわかっちゃう。松岡さんがいつも言うのは、この感覚は君たちの体験にも絶対ある、一目惚れだと。一目惚れの力学はいろいろなタイプのものに存在している。一目惚れする素養を人間はどこかにもっていて、その一つが直接的に伝わる想像力だと言うわけです。次々といろいろなものを置き換えるのは蓄積の問題だから脳が必要なんだけど、松岡さんは恋に脳はいらないと言っていてね、ほとんど一目惚れらしいです(笑)。松岡さんはこの二つの伝え方を両方できたんじゃないですかね。僕も松岡さんに一目惚れだっかかもしれません。姿を見て、なにをやっている人だかわからない。高山君も同じだけど(笑)。」

*「高山/
 彼とある程度の付き合いをした人間はみんな思うだろうけど、知の巨人なんてイメージは全然ないよね。そこは人間的に見て非常に興味のある対象だったな。フラギーレを知るこころ優しきインテリ・ヤクザ。まさに兄事(!)しました。

 荒俣/
 松岡さんが密教とマニエリスムをくっつけるのも一瞬の電波が走るかどうかだと思うんですよ。松岡さんが仏教をやって、なぜ最終的に空海にいったかたというと、空海は雑密なんですよね。空海自身が密教のスタイルを日本で決めたので、それまでは雑密だった。雑密とはなにかというと、「その他」なんだよね。その他をやった人がそれを本家にしてしまった。雑密で一番重要なのは、人文主義者と同じで、ストレンジャーのアイデアを持っている人たちなんですよ。だから本来はコアじゃないんだよ。

 高山/周縁、山口昌男に取られちゃった言葉だ。雑密、ソウミツが出てくるとは嬉しいね。ルイス・キャロル(チャールズ・ダドソン)が最晩年、A・P・シネットの『エソテリック・ブッディズム(esoteric Buddhism)』に凝ってね。台密なんだけど、当然不徹底なんだよ。ただ、雑密とは呼んであげたい。それが、僕から見て松岡さんの遺著となった『別日本で、いい。』に僕が寄せた「今生の別れ」の一文でした。荒俣君にそこまで言われるとは感無量だなあ。

 荒俣/
 そこが日本にとっては特に重要なんだけど、この構造を空海はわかっていたんだね。その先、東密になちゃって、ひとつのスタイルに固まってしまった。比叡山も密教の伝統は持っているけれど、雑密じゃないんです。最澄は国費の遣唐使ですから、国のために密教をもってきた。空海は雑密で、わけのわからないことをどろどろとやって、見張りもいないかたなんでもできた。このプロセスで西洋の大国から文明開化を輸入したのが、明治の福沢諭吉ということになる。彼も雑密だったか。その力があとで生きてきたということも大変重要ですよね。編集工学も今後必要なときがいずれきますよ。その意気込みで、松岡さん以来の雑密的文明開化を目指したほうがいいんじゃないか。高山君の話を聞いていたらだんだん寂しくなってきちゃったな、僕らも残り少ない余生なんだから、大学の代わりに雑密塾でもやったほうがいいんじゃないですか(笑)。」

**(高山宏「雑密のルイス・キャロル」より)

*「アウグストゥス・メービウスが誰をも驚倒させる「メービウスの輪」を公表するのは1965年。キャロル最後の文学作品『シルヴィとブルーノ』(1889,1893)には、ハンカチを使ってメービウスの輪を作って、いくら金を入れても外に出てしまう財布という細工をするドイツ人教授が登場する。

 180度ひねられた一本の紙の帯の上で表と裏という疑いようのない二項対立的空間感覚があっさりと消滅する。この奇跡的な紙わざは現にパーラーゲームの域を越え1880年代にはマジシャンたち一番の演目になっていた。それに便乗した自身マジシャン(魔術哲学者/奇術師)たりりドジソン/キャロルの傑作『シルヴィとブルーノ』は、発明意欲一杯の「アリス」物語時代のキャロスからの後退、ないし堕落と言う評価が多いが、時代の末世の様相、故の新時代への展望を考えると随分目の利かぬ愚かな文学観だ。

 表と思っていたら裏だった、そもそも表って何、で裏とは何? 「空」と思っていたら実は「色」という問いかけの入り口に晩年のキャロルは立っていた可能性が高い。

 残念、彼ではないけれど精神医学者パウル・メービウスがパラノイアに陥ったプロテスタンティズム・ピュリタニズムの二元論的硬直を近代の文化病理と診て「治療」するのに即動員してみせたのが祖父の発見したメービウスの輪であったことは是非にも覚えておくこと。世紀末と言えばこの世紀末と言われるほどの19世紀末の、まだまだ知られていない「アグノスティック」な側面がいくらでも、驚きとともに剥き出しだ。肉体と精神という表と裏の、こういう観念的解消は哲学史であは二元の一致ということでモニズムと称す。この相反物の一致哲学を表現する藝術思想を今ではマニエリスムと言い、その方法が結合術(アルス・コンビナトリア)。キャロルがマニエリストだったこととその最後に読んでいた本が『エソテリック・ブッディズム』という真言密教の指南書であったこととの重大極まる関係をきちんと議論した者はまだいない。マギア、マジア、マジックの驚異的脱領域的アプローチが必要な相手は、空海、玄奘に限った話ではない。ルイス・キャロルをいきなり『神学大全』に系譜させて日本ばかりか世界中のノンセンス文学ファンを茫然たらしめた『ノンセンスの領域』(1952)のポリマス、エリザベス・シューエルの炯眼に改めてふるえる。ジョージ・スタイナーが誉める究極の炯眼。

 『シルヴィとブルーノ』は人間界と妖精界の時空がごたまぜし、最終章(意味深くも「東へ」と章名に謳う)のセンチメンタリズムが鼻についてかなわんとして評価が低いのだが、何故両界ごたまぜかはごたまぜの方法論を予め序にきちんと説明できている上に、ごたまぜ文学(litterature わざとtが2つ)でいう雑密の文学化だからだと言いたげで見事だ(litter 寄せ集め、ゴミ!)」

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