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石井ゆかり「星占い的思考 53 「影」に見つかる」(『群像』)/シャミッソー『影をなくした男』/河合隼雄『影の現象学』/ユング『人間と象徴』/『スーフィーの物語』
☆mediopos3524 2024.7.11
石井ゆかり「星占い的思考 53」(『群像』)は
「「影」に見つかる」
今回冒頭で引用されているのは
シャミッソーの『影をなくした男』
金と引き換えに
悪魔にじぶんの「影」を与えた話
「影(シャドー)」は
ユング心理学における重要な概念であり
「その人によって生きられなかった半面、
それがその人の影」であるとされている
影はだれにもあるが
普段は無意識のなかに潜んでいる
しかし「影が濃くなり過ぎると、
反乱を起こしたり、その人を飲み込んだりする。
あるいは、否定されすぎた影は
身近な他者に投影されることもある。」
「投影」とは
「自分の影を他人に投げかける」ものだが
「投影を受ける側も
投影を引き出すに値する何かをもっている」
ユングは「ナチスのユダヤ人虐殺を
「集団的な影の投影」だと考えた」が
そうした集団的な影の投影の場合
「その成員はその影を自覚することが、
ますます難しくなる。」
「その集団が同一方向に
「一丸となって」行動してゆくとき」
「自分たちの影の存在に気づいたものは、
集団の圧力のもとに直ちに抹殺される」
(河合隼雄『影の現象学』)
スーフィーの物語に
「水が変わったとき」のたとえ話がある
水が変わって人々を狂わせてしまうことになる・・・
という警告に耳を傾けた男がいて
その男は警告に従い安全な水を確保したが
男以外の人々は警告に耳を傾けず
「以前とはまったく違ったやり方で
話したり、考えたり」するようになり
男は気が違っているとみなされるようになった
やがて男はそれに耐えられず
変わった水を飲みほかの人たちと同じようになる
そして「狂気から奇跡的に回復した男」と呼ばれた・・・
このたとえ話は
さまざまな形で見ることのできる
集団的な投影を見るときのガイドにもなる
(「変わった水」をずっと飲まないでいることが
できるかどうかが試される)
さて「星占い的思考」で示唆されている
星の動きを見てみると
「7月21日、火星が木星の待つ双子座に移動」し
「来年6月まで続く」という
「風の星座・双子座の木星と火星のイメージは、嵐」
「雷鳴と破壊、あるいは大激論」だとのこと
どんな現象として「影」が
「嵐」として現象化してくるのだろう
「我と我が身でありながら否定され、
追い払われた「もう一人の自分」が人生の曲がり角で、
自分自身を取り戻そうと近づいてくる」
「私」そして「世界」も
「影の猛威に震撼」することになるのだろうか・・・
■石井ゆかり「星占い的思考 53 「影」に見つかる」
(『群像』2024年8月号)
■シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』(岩波文庫 1985/3)
■河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫 1987/12)
■C.G.ユング(河合隼雄監訳)
『人間と象徴 無意識の世界 下』(河出書房新社 1975/9)
■イドリース・シャー(美沢真之介訳)
『スーフィーの物語』(平河出版社 1996/7)
**(石井ゆかり「星占い的思考 53 「影」に見つかる」より)
*「 〝私は君をながめ、ついで部屋のあれやこれやをながめ、あらためて君の姿に目を移しましたが、その間ずっと君は身じろぎ一つしないのです。呼吸さえしていない、
君はこときれていたのです。
ハッとして目がさめました〟
(シャミッソー作 池内紀訳『影をなくした男』岩波文庫)
主人公シュレミールは悪魔と取引をし、金貨がいくらでも出てくる袋と引き換えに、自分の影を与えた。影を失った主人公は人々から信頼されなくなり、苦難の道を歩む。」
*「ユング心理学では「影(シャドウ)」は非常に重要な概念である。
「人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、ひとつのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取りあげられなかったか、ともかく、その人によって生きられることなく無意識界に存在しているはずである。その人によって生きられなかった半面、それがその人の影であるとユングは考える」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫)。影はだれにもある。普段、それこそ目に見える影のように人の無意識の中に潜んでずっとついてくるが、影が濃くなり過ぎると、反乱を起こしたり、その人を飲み込んだりする。あるいは、否定されすぎた影は身近な他者に投影されることもある。ユングはナチスのユダヤ人虐殺を「集団的な影の投影」だと考えた。現在のパレスチナの状況に「影」の気配は読み取れないか。」
「『影の現象学』には『影をなくした男』も(・・・)引用される。河合隼雄はシュレミールの「影」を、こう推論する。「おそらくシャミッソーのような状況におかれた人は、『わたしの祖国はどこか』という疑問から出発して、『わたしはいったい何に属しているか』、『いったい私とは何か』という根源的な問いへといたるにちがいない。そして、それらのすべてのものに対する答として、この物語が浮かんできたのであろう。」
「『影をなくした男』に登場する人々はみな、晝間シュレミールに合えば瞬時に、「影がない!」と気づくが、もし私が今、足元から伸びるこの影を失ったとしても、だれも気づくまい。外に出ればみんな、人の足元など見ず、スマートフォンを見ているからである。そこには画像が、動画が、文章が夥しく流れている。それらは影像、幻影、つまり影である。私たちは影だけを見ている。「いったい私とは何か」。たとえば殺人事件が起こったとき、マスメディアは被害者や加害者のSNSアカウントを探し、そこに映る「本人」の影像を、さらに自分のメディアに映し出す。SNSの影像こそが、「その人」だからだ。」
*「7月21日、火星が木星の待つ双子座に移動する。明け方の空に2星が並ぶ。今回のフックをどの作品にしようかと考えて、「自分」と「もう一人の自分」というテーマから、本作が思い浮かんだ。しかし、木星双子座タイムは来年6月まで続く。今後も取り上げる機会は充分あるだろう。今回は特に「火星」なのだから、双子座の荒ぶる面に光を当てたいと考えた。風の星座・双子座の木星と火星のイメージは、嵐である。雷鳴と破壊、あるいは大激論である。私は高校生の頃に歌った合唱曲を想起した。タイトルもずばり「嵐」という曲である。微かな記憶を頼りにネットで必死に検索したところ、この曲の詞はなんと、シャミッソーの作だった(!)。影に捕まえられた気がした。
たとえばもし、眠って見た夢の中で恐ろしい何かが追いかけてきたら、それは「影」である可能性が高い。我と我が身でありながら否定され、追い払われた「もう一人の自分」が人生の曲がり角で、自分自身を取り戻そうと近づいてくる。影のことを書くのはいつでも、恐ろしい。自分にはそれがなんなのか分かっていないから「影」なのである。多分私は今、影から見つめられている。この世界もまた、影の猛威に震撼している。」
**(河合隼雄『影の現象学』〜「第1章 影/三 影の種々相」より)
・投影
*「われわれ人間は誰しも影を持っているが、それを認めることをできるだけ避けようとしている。その方策としてもっともよく用いるのが「投影」の機制であろう。投影とはまさに自分の影を他人に投げかけるのである。しかし、投影といっても誰彼なく相手を選ばずにするのではない。その意味において、投影を承ける側も投影を引き出すに値する何かをもっていることも事実である。」
・影の反逆
*「投影の機制は非常によく用いられるが、これが集団で行われるときは、その成員はその影を自覚することが、ますます難しくなる。集団の成員がすべて同一方向、それも陽の当たる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影について誰も気づかないのは当然である。その集団が同一方向に「一丸となって」行動してゆくとき、ふと背後を振り向いて、自分たちの影の存在に気づいたものは、集団の圧力のもとに直ちに抹殺されるであろう。そのことほどその集団にとって危険なことはないからである。犠牲者は集団の行進の背後の影に吸収され、ただ消え失せてゆくのみである。」
・影の肩代わり
*「影を抑圧して行きながら、影の反逆をまったく承けていないように見える人もある。しかし、よく見るとその人の周囲の人が、その影の肩代わりをさせられている場合が多い。たとえば、宗教家、教育者といわれる人で、他人から聖人、君子のように思われている人の子供が手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合がそれである。」
**(ユング『人間と象徴 下』〜「Ⅲ.個性化の過程/影の自覚」より)
*「影は、無意識的人格のすべてではない。それは、自我のまったく知らない、あるいは、あまり知らない属性————ほとんどすべてが個人的な層に属し、意識化されることもあり得るもの————を示す。ある点では、影は、個人の実際生活外にも源をもつ普遍的要素からも成り立っている。
人は自分の影を見ようとするとき、彼は自分自身にはないが、他人には明らかに見出せると思っている性質や衝動を認知する(そして、しばしば恥ずかしく思う)こととなる。利己主義、怠惰、だらしのなさ、非現実的な空想、策動、企み、不注意、卑怯、異常な金銭欲や所有欲、つまり、すべての小さい罪悪であり。それについては、自分自身に次のようにいいきかせたことがあるかもしれない。すなわち“たしたことないよ、誰にも見つからないだろう。それに、どちらにしても他の人もやっているんだから。」
**(イドリース・シャー『スーフィーの物語』〜「3 水が変わったとき」
*「昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時がくると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうであろう、と。
ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。
やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を訊いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたの見て、男は街に戻っていったのだった。
人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われているのに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともに聞こうとはしなかった。
男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとはしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を呑んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。」