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井筒俊彦・遠藤周作「文学と思想の深層」

☆mediopos-2465  2021.8.16

井筒俊彦の対談・鼎談は
中央公論社からでていた著作集のなかに
収められている9編しか残っていないようだ
(『叡智の台座』に収められた6編に
さらに3編が追加されている)

その最初に置かれているのが
遠藤周作との「文学と思想の深淵」という対談である

そこでまず論じられているのは
セム的な一なる人格神への信仰と
東洋的な信仰との対比である

新約聖書・旧約聖書・イスラームに
共通して働いている「セム的」なものには
人格的一神に対する信仰がある

日本でキリスト教が
生きた形で信仰されがたいのは
そうした一なる神を
人格的に表象することへの違和感だろう

仏教でも阿弥陀如来への信仰などには
人格神への信仰に近いところがあるのだが
セム的な信仰と比べるとその違いは明らかである
大日如来への信仰もまた抽象性が高く
それを生々しく人格的にとらえているのではない

仏教において釈迦が信仰されているとしても
重要なのは仏教の教義であって
釈迦そのものへの生々しい信仰ではない

ニーチェが「神は死んだ」とすることで
西洋に与えた衝撃のようなものも
もともと死ぬような生きた一神は存在していないため
日本人が感じるのは実のところ観念にすぎない

セム的なものが背景にある西洋と
そうではない東洋の根底に働いているものの違いは
有(存在)と無のとらえかたにも
典型的にあらわれている

西洋において無とはまさになにもないことであり
それがゆえに長く「ゼロ(0)」も受け入れなかったが
それに対して東洋における「無」は
なにもないことではなく
その「無」からすべての存在が生まれてくる源である

さて遠藤周作との対話はさらに
無意識のなかから生まれてくるコトバへと向かう

通常の言語理論では
コトバには音韻やそれに対する意味があり
またその使用があるといったものだが
井筒俊彦は言語の深層にある「言語アラヤ識」
そしてその果てにある「無」について言及する

コトバを発する意識の底には
アミーバのように動き回る
不思議な意味可能体みたいなものがあって
「れが文化の型によって、
アミーバ的なものがある程度限定されてくる」のだという

さらにコトバやイマージュを超えた深層には
無心・無我があって
そうした深いところまで降りていかないと
たとえば真の「禅体験」は完成しないという

深層心理学が問題とする無意識は
「言語アラヤ識」のなかで働いている
さまざまなイマージュの世界だが
禅の境位はそれらイマージュをすべて排した
その奥の無心・無我なのである

しかし重要なのはその無心・無我に至ること以上に
そこからまたイマージュの世界を通って帰還することである
そのときの意識はかつての表面意識ではすでにない

はじめ山は山・川は川であったものが
山は山でなくなり川は川でなくなったあと
あらためて山は山・川は川となるのだが
そのときの山と川はすでにはじめの山と川ではないのだ

真言密教においては禅とは異なった方法が用いられる
「曼荼羅」という形で
「正しい根源的イマージュのあり方」が提示され
それに基づいて行じていくことで
イマージュの世界の混乱を避けることができるのだ

そうしたあり方と比べ
セム的なあり方は生きた人格神への
さまざまなイマージュを通じることで
ときにそれが天使的なものへ上昇ではなく
逆に下降していく危険性を孕むことにもなる

セム的な西洋だけではなく
先の禅などにおいてもそうだが
宗教的な行においては
そのプロセスにおける危険性を排するために
絶対的なまでの指導者を必要とする

そうした導師を必要とするあり方に対して
現代における神秘学においては
みずからの自由に基づいた行法を可能にしている
(ある意味で仏教の八正道に近い
現代的な認識方法を加えたあり方なのだが)

とはいえそこでは
個々の魂のありようが重要なため
宗教的な管理されたあり方ではない
別の困難さがあるのはいうまでもない

■井筒俊彦・遠藤周作「文学と思想の深層」
 (『井筒俊彦著作集 別巻 対談鼎談集・著作目録』中央公論社 1993.8 所収)

「井筒/イスラームを動かしている根源的なもの、それは新約・旧約聖書の精神に通じるものです。キリスト教もユダヤ教もイスラームも、究極的には同じ精神、同じメンタリティー、セミティックというのですか、セム的なメンタリティーが生みだした宗教現象なんですから。」
「遠藤/セム的な感覚というものと、いわゆる西洋キリスト教なんかに見られる聖的な感覚、とは違うような気がいたします。これがセム的であるというものは、定義しますとどういうもの・・・・・・
井筒/真に生きた神、人格的一神、に対する情熱的な、なまなましい信仰をもとにして、それを全存在世界の極点として表象する(その実在をわれわれが信じるか信じないかは別として)、そういう形で存在性のギリギリの原点を表象するということがセム的じゃないかと私は思うのです。
遠藤/そうすると、日本の西洋学者というのは、いま先生のおっしゃったセム的な感覚をできるだけ回避したところで、ヨーロッパをつかまえようとしておりますね。
井筒/そうですね。
遠藤/ある意味では明治というものがそういう形で西洋の学問を受け入れたのだろうと思うのですが・・・・・・明治における西洋文化の摂取の仕方のなかでいちばん避けたのは、セム的なもののヨーロッパに対する影響だろうとかねがね思っておりました。
 そうすると先生は、みんながいちばん逃げていたものに、学生時代から飛び込んで行かれたということですね。
井筒/そういうことになるでしょうね。さっきもお名は死しましたとおり、そのころの私は西洋の文学とか哲学に関心の中心を置いていたんですが、それでも、西洋文化に対するアプローチとしては、やはり、なんとなくセム的な存在感覚が主になっていたと思います。自分では反撥を感じているくせに、何か不思議な力で働きかけてくるということがありますよね、そういうことだと思います。
 このセム的存在感覚というものは、東洋思想そのものの重要な一つの基礎であるだけでなくて、西洋文化の深い理解のためにも、どうしても身につけておかなくてはならないものじゃないでしょうか。たとえば、現代のヨーロッパ哲学の状況を、ある意味で根本的に規制している「神の死」という考え方、あれなんかもセム的な感覚がなければ、ちょっとつかめないものではないかと思うんです。「神は死んだ」というニーチェ的なテーゼ、遠藤さん的にいえば、「神は沈黙しきってしまった」ということになるかもしれませんが、そういう状況を、少なくとも思想界の前衛的な領野では、みんなが表面的には受け入れて仕事をしている。
「神という中心点があるからこそ、西洋文化は存立してきた。たとえ無神論とか唯物論とかいうものが出現しても、たちまちそれは神への反抗という形で、全体のなかに位置を与えられてしまう。ということは、つまり、存在世界から神という中心点をそう簡単に払拭できるものではないということなんです。「神は死んだ」と人間がいくら叫んでも、神はなかなか死にはしない。死んだと思っても、実は、結局、隠れただけなんです。近ごろ遠藤さんはよく深層心理ということをおっしゃいますけれども、事実、神は死んでしまったのじゃなくて、人間の下意識的な領域、あるいは深層意識的な領域に押しこめられてしまったというか、そこに神が隠れてしまったといってもいい、そういう形ではないかと思うんです。
 ですから、多くの哲学者たちは、表面上、神がいなくなったかのように無神論的な思想を展開していますが、彼らの心の新層にはやはり神が妙に屈折した形で隠れている。だからこそ、かえって怖ろしい。セム的な神の特徴の一つとしていえることですが、隠れた神は怖ろしい働きを示す。表面に現れていればあまり対したことはないのだけれども、深層に入ると怖いんですね、それが旧約の神ですよ。」
「井筒/旧約はなまなましいですよ、その点、旧約はイスラームとも違います。イスラームのほうはあれほどなまなましくならない。怒りの神、妬み、復讐の神という考え方はありますが、それはイスラームでは愛の神と両立しているのです。神の両側面なのであって、一方が深層的ということはなく、両方が表に出ているのです。」

「遠藤/先生は東洋でもいろいろ違っているとおっしゃいましたけれども、大別するとどういうことになりましょうか。
井筒/非常に常識的な考えになりますが、先ず第一段としては、何といっても、人格神という考え方が決定的な分かれ目だと思います。日本でも中国でもインドでも、ふつう東洋といわれているところにも、たしかに人格神という考えはありますが、旧約やイスラームの人格神とくらべたらまるきり弱いものですね。稀薄なんです。向こうのは非常に強い濃厚な感覚です。ですからほとんど質の違いぐらいになってくるのはないか。
 たとえば密教のほうで、大日如来は人格的に表象されてはいるけれども、セム民族の宗教意識のなかに生きている人格神とはおよそ違ったものですね。セム的宗教意識から見たら、大日如来はやはり抽象的であって、本当に人格神ではない、と言うのだろうと思います。
遠藤/理念でしょうね。
井筒/ええ、概念はないけど、理念的であり観念的であるということになるでしょうね。もっと生きたなまなましいものがセム民族にはあると思うのです。」

「遠藤/『コーランを読む』、その他のご著書もそうですが、イメージと物語、それから小説家としての私の問題はコトバですが、コトバが無意識のなかから生まれてくるという、この点をもうちょっと詳しく教えていただけないでしょうか。
井筒/今かでの言語学で扱っているような言語理論でいきますと、決まったコトバに決まった意味、あるいは決まった意味イマージュということになるのですね。だけど深層という視覚をそこに導入しますと、全部が浮動的になってくるのです。
 音だけはそのまま残るけれども、意味は非常に浮動的になる。アミーバのように動き回る不思議な意味可能体みたいなものの、汲めどもつきせぬ貯えが意識の底にあるのじゃないか。それがどう固まるかは別問題で、それが文化の型によって、アミーバ的なものがある程度限定されてくるのだと思います。
 ただ、そういうアミーバ的な意味生成の深層まで下がって行かないと、人間の意識というこよも分析できないし、意味というものの真相もわからない、それからコトバのもっている恐ろしい力というものもわからないのじゃないかと思うんです。
遠藤/いま「コトバのもっている恐ろしい力」とおっしゃいましたけれども、それは呪術的な意味も含めて・・・・・・
井筒/ええ、呪術性もですが、それよりもむしろそれ以前の、存在喚起機能のことを考えているんです。われわれの意識に存在の形姿を呼び出してくる力。コトバの呪術性はこの存在喚起機能の一つの特殊な展開形式でしょう。
遠藤/しかし、それに具体的な形をつくるのは、環境とか時代とか文化とか、そういうものですね。
井筒/そうです。
遠藤/しかし、そういうものがなくても、根っこのよころにあるものはぐじゅぐじゅ動いているわけですね。
井筒/どうです。しか市、文化の型のない場面というのは、具体的な人間性の現実においては事実上は考えられませんからね、必ずそこを濾過して、一定の形をとるのだと思います。
遠藤/無意識からイメージがつくられるのと、無意識から言語が生まれる過程とはだいたい同じようなものですか。
井筒/同じだと思います。
遠藤/イメージのあとに言語がつくられるんでしょうか。
井筒/いや、貴方のおっしゃる無意識、つまり私のいう言語アラヤ識ということを考えると、それはそうは言えないと思います。さきほど問題になった意味可能体まで含めて「意味の深み」というものを媒介として、「名」とイマージュとが同時に出てくるのじゃないでしょうか。
遠藤/イメージをつくる場合に、コトバというのが仲介の役割を示しませんか。
井筒/もちろん、イマージュ喚起こそコトバの本領なんですから。ただコトバといっても、それがさっきから問題になっている意識の閾域の下では、はっきりした一定の形をとっていないだけじゃないですかね。意味のイマージュ的な固まり方が、そういう深層領域では非常に浮動的な不思議な形をとるのだと思います。
遠藤/(・・・)コトバとか、イマージュという段階を超えた無心、無我という段階は、いま先生がおっしゃったように無意識のもっと奥にあるんでしょうか、それともあの領域にあるものをいっているんでしょうか・
井筒/もし構造モデルを作るとすれば、やはりもっと奥にあるとせざるをえないでしょうね。イマージュとか意味とか、そういうものの働く領域、たとえそれが意識下であっても、そこにグズグズしていたのでは禅体験は完成しない。それよりももっと深いところまでいかなければいけない。あとで経験的世界に戻ってくるときには、どうせまた言語形象の働く領域を通るわけですが、いったんはどうしてもそこを超えたところまでいかなければいけないというのです。」
「井筒/禅体験の頂点としての無心は、今日の深層心理学が問題とする無意識とは違います。さっきも言いましたように、構造モデル的には、さらにもう一段奥の境位と考えたほうがいいと思います。」
「井筒/「無」を離れたところで現れてくるものを見れば、その奥のものがどの程度のものか、達人にはわかるんです。禅の修行者にとって、本当に偉い老師ほど怖いものはないというのがそのことです。だまそうと思っても、だめなんです。」

「遠藤/禅の修行ではそうでしょうが、イメージを大事にする修行もございますね。ただ問題は。それが上昇のイメージであるか、あるいは人間の心のなかには下降する場合もあって。それが同じ構造になっているのじゃないかとぼくは思うのです。光のほうへ行くときはそういうイメージが乱れ飛んで、そこを突破して光のなかへ入って悟りでもいい、キリスト教のエクスタシー・アンジェリックでもいい。無心の境地のほうに入る。下降した場合はどうなるかという・・・・・・
(・・・)
先ほど私は「醜悪の美学」といったのは、下降した場合、これは本当に際限がなく、もとへは戻れません。現代というのはそこへ入り込んでしまうときがある。ナチズムがそうでしょう。それからアウシュビッツがそうでそう。そうすると、その決め手というのは宗教的指導者というべきかな。
井筒/ただ、どの程度の指導者に出会えるか、偶然ですね。
遠藤/無意識というのは闊達自在で本当に怖いですね。イスラームの場合はその指導者を非常に重視するのですか。
井筒/そうです。ピールとかシェイフとかいいまして絶対権力です。イスラームの神秘道の場合は、導師はほとんど神に近い権能を与えられています。その人の判断にすべて従う。禅の導師と同じですね。
(・・・)
遠藤/聞く役も非常に怖いですね。
井筒/とても危ないです。
遠藤/彼自身を食ってしまうときがあるでしょうね、引き受けちゃって。
井筒/そうなんです。いくら偉い導師でも、なんていったって人間ですからね。
遠藤/禅と違って、そのイメージをどんどん切り捨てていかないで膨らみ始めたら、振り回されちゃうだろうな。
井筒/そうですね。この点、真言密教などはよくできているのではないでしょうか。正しい根源的イマージュのあり方がちゃんと曼荼羅的な形で提示されているんですからね。結局そこへ持って行きさえすれば、いちおうのまとまりはできてくるのです。」

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