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田中正人 『哲学者と象牙の塔』/講談社Webサイトから
☆mediopos3695(2024.12.31.)
哲学者との仮想対話
田中正人『哲学者と象牙の塔』からの記事が
講談社Webサイトで編集・紹介されている
ここでとりあげられている哲学者は
スピノザ・デカルト・プラトン
はたして「偉大な哲学者」との対話は
わたしたちの日々の悩み・問いかけに
たしかな指針を与えくれるだろうか・・・・
まずスピノザとの対話
「訪問者」は
「自分の意志(意識)で自分の行動を決めていないのなら、
なぜこの世界に意識というものが存在しているのでしょうか?
意識と行動に因果関係がないのなら、
そもそも意識など存在しなくてもいいのではないでしょうか?」
と問い
それに対してスピノザは
「今、あなたが置かれた状況は、
自然があなたのために用意した状況」であり
「人間に意識がある理由は、
自然が自分にどんな役割を与えているのかを知るため」だという
そして「自然の意識とあなたの意識は同じ」で
「自分の考えや行動が、すべて自然の望みであるならば、
自分の考えや行動はすべて「善」」であり
「自然がこれから自分に何を考えさせ、何を選択させ、
どんな一歩を踏み出させるのか?
それを知るのは自分と自然だけ」であり
それらすべてが「善」であるとき
それこそが「自由」なのだという
なかなかに難しい問題で
上記の前提に立つならば「悪」は存在し得なくなる
とするとスピノザを迫害した人たちも「善」だということに・・・・
おそらく「自然の意識」も「じぶんの意識」も
単純に「同じ」とはいえず
複雑な迷路のようになっていて一筋縄ではいかないようだ
つまりこのスピノザの視点では
日々の「悩み」は行き場をなくしてしまいかねない
つづいてデカルトとの対話
デカルトは
「あなたにとって「自分」とは何を指」すかと問いかける
「あなたとは、あなたのその手足のことでしょうか?
あなたとは、あなたのその髪のこと?
それともあなたのその瞳のことでしょうか?」と
「訪問者」は
「それらがすべて集まったものが私(自分)」だというが
それに対してデカルトは
「事故で足を失うことになれば、
あなたは、あなたではなくなるのですか?
髪を切れば、視力を失えば、
あなたは、あなたではなくなりますか?」とさらに問う
そして「私とは、私の身体のことではなく、私の意識のこと」
だという結論に至る
これもまた難しい問題で
「意識」さえあれば身体はいらなくなる
まるでヴァーチャル・リアリティの世界である
昨日(mediopos3694(2024.12.30.))
SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話
「意識は身体がなければ生じないのか?をとりあげたが
そこでは「意識」が生まれるためには
そこに宿る「生命」が必要とされるということが示唆されていた
死後の霊界における意識は別だろうが
生きている以上
「私とは、私の身体のことではなく、私の意識のこと」
だとは必ずしもいえそうもない
そしてプラトンとの対話
「訪問客」は
「哲学者は、常に悩んでいるイメージ」があるといい
プラトンはそれに対して
「そうした決して強くない心が、不本意な時間を重ねると、
物事に対する認識力は研ぎ澄まされてい」き
「辛い停滞のあと、真理とも思えるようなことに気づ」くという
「人は死ぬ直前まで色々な経験」をし
「身体の自由が利かなくなれば、
人は若いころとはまた違った経験の仕方を」する
つまり「だんだんと心で経験するようにな」り
「ますます認識力に磨きがかかる」ようになり
「歳と共にイデアに近づいていく」
「訪問客」は
「死の直前まで認識能力が発達するのなら、
歳を取るのも悪くなさそうです」と答え
プラトンは
「知能の成長には限界」があるものの
「魂の成長は最後まで続き」
「だんだんと若いころには見えなかったものが
見えるようになってい」き
「この世界の真の姿を知る」ようになるという
年を経るごとに知恵は増し
魂は成長していくというプラトンの考え方とは裏腹に
現代ではアンチエイジング的な指向や
老年になると幼児化していくというように
退行としてとらえる向きもある
古代においては
人間の魂は年を経るごとに成長していき
「長老」といった位置づけも意味をもっていたが
現代では二十歳頃を超えると
魂はそのままでは退化してしまうことにもなる
魂においてみずからが成長しようとしなければ
退行が余儀なくされてしまうわけである
「偉大な哲学者」の考え方が
現代の私たちにとって適切な示唆となればいいのだが
それらの視点は多くの場合とても抽象的であり
ある程度をそれをガイドとしながらも
日々生きていくなかでじぶんなりに
問いと答えをくりかえしていくしかない
だれもが日々疑問を懐いていることを
みずからに問い直し続けることが必要で
それこそが魂の成長につながっていくのだから
■講談社Webサイト
・「やりたいことがない」…そんな悩みに、
偉大な哲学者・スピノザならなんと答えるか? その「意外な回答」
・「幸福である」とはいったいどういうことなのか?
偉大な哲学者がおしえてくれる「重要な一つの見方」
・「歳をとるってこんなに素晴らしいんだ」
…そんな気持ちになれる「偉大な哲学者の考え方」
■田中正人 (著, イラスト)・玉井麻由子 (イラスト)
『哲学者と象牙の塔』(講談社 2024/12)
**(「「やりたいことがない」…そんな悩みに、偉大な哲学者・スピノザなら
なんと答えるか? その「意外な回答」」2024.12.21より)
*「訪問者:自分の意志(意識)で自分の行動を決めていないのなら、なぜこの世界に意識というものが存在しているのでしょうか? 意識と行動に因果関係がないのなら、そもそも意識など存在しなくてもいいのではないでしょうか?
スピノザ:この世界に、意識というものが存在する意味を知りたいのですか?
訪問者:とても知りたいです。
スピノザ:ご説明しましょう。まず、今、あなたが置かれた状況は、自然があなたのために用意した状況だと言えますね。
訪問者:はい。今までのお話からすると、私の目の前に広がっている世界は、自然法則(因果律)によってできた必然です。
スピノザ:では、自然という神は、その状況から、次にあなたにどんな行動をさせるのでしょう。それを考えることができるのは、楽しく、幸せなことですよ。人間に意識がある理由は、自然が自分にどんな役割を与えているのかを知るためだと思います。自然は、何か大切な役割を自分に与えているのか? そうでないのか?
訪問者:なるほど。でも、自然が私に、何を望んでいるかをどうすれば知ることができますか?
スピノザ:あなたの身体(物質的側面)が自然の一部であるように、あなたの意識(意識的側面)もまた自然の一部です。ですから自然の考えていることは、あなたの意識の中に自然に浮かぶはずです。
訪問者:自然の考えと私の考えは同じということでしょうか?
スピノザ:いかにも。自然の意識とあなたの意識は同じです。バラバラだった粒子が集まって、個人となったとき、個人は自然の意識を受け取り、与えられた役割に向かって動き出します。ですから、自分がかつて考えたことも、かつて起こした行動も、これから考えることも、これから起こす行動も、それらはすべて自然の考えであり、自然の選択です。自分の考えや行動が、すべて自然の望みであるならば、自分の考えや行動はすべて「善」ということになります。
訪問者:確かに自然が望んだのなら「悪」ではないような気がします。
スピノザ:自然がこれから自分に何を考えさせ、何を選択させ、どんな一歩を踏み出させるのか? それを知るのは自分と自然だけです。そうした行動がすべて自動的に「善」だなんて、これを自由と言わずに何を自由と言うのでしょう。」
**(「「幸福である」とはいったいどういうことなのか?
偉大な哲学者がおしえてくれる「重要な一つの見方」」2024.12.21より)
*「デカルト:あなたにとって「自分」とは何を指しますか? あなたとは、あなたのその手足のことでしょうか? あなたとは、あなたのその髪のこと? それともあなたのその瞳のことでしょうか?
訪問者:え〜とですね。それらがすべて集まったものが私(自分)です。
デカルト:それなら、例えば事故で足を失うことになれば、あなたは、あなたではなくなるのですか? 髪を切れば、視力を失えば、あなたは、あなたではなくなりますか?
訪問者:いいえ、そうなっても私は私です。
デカルト:では「それらがすべて集まったもの」があなたではありませんね。
訪問者:う〜ん。確かに。
デカルト:なら、何をもって「あなた」ですか?
訪問者:何をもって「私」なんだろう。ちょっと考えさせてください。
デカルト:どうぞ。
訪問者:え〜と。紙がなくなっても私、手足がなくなっても私。目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても私。つまり身体を失っても私は私なわけか。だとすると、「コレがなくなったら自分じゃなくなる」というコレは何なんだ……?
ふむふむ……。なるほど。もし、何かを考えている自分の意識がなくなったら、私は存在できない。そうか。つまり「私」とは「私の意識」のことです!
デカルト:「私とは、私の身体のことではなく、私の意識のこと」。それはわたくし、デカルトの考えと全く同じです。ならばこのタンクに入るのを躊躇することはないこの機械の中では、「あなたの意識」がめくるめく快楽を経験するわけですから。中に入ったところで、あなたがあなたでなくなることなどありません。
訪問者:それはそうなのかもしれませんが……。」
**(「「歳をとるってこんなに素晴らしいんだ」
…そんな気持ちになれる「偉大な哲学者の考え方」2024.12.24より)
*「訪問客:哲学者は、常に悩んでいるイメージがあります。
プラトン:繊細で傷つきやすいのかもしれません。でも、そうした決して強くない心が、不本意な時間を重ねると、物事に対する認識力は研ぎ澄まされていく。現に彼らは、辛い停滞のあと、真理とも思えるようなことに気づいた。
訪問客:ちょっと安心しました。
プラトン:もちろん、人とは違う何か特別なことをしたり、誰も行ったことがない場所に行くことは素晴らしい体験です。停滞せずにそれができたら本当に楽しいし、幸せですよね。でも現代人は、そうした経験から自分がどう考えるか、どう感じるかよりも、他人からどうみられるかばかり気にしているようです。
SNSでいくらキラキラアピールしたって、世界がキラキラしはじめるわけではないし、自分が変わるわけでもない。そういう人は、歳をとって自分が注目されなくなると、その虚しさや悔しさが顔にでる。だから本を読んだり、音楽を聴いたり、一人で考えごとをする時間は削らない方がいい。その楽しさをしれば、年齢も他人も関係ないですからね。
カントは、自分の生まれ故郷から生涯出たことはないし、ほとんど同じ日程で地味な一生を送りました。にもかかわらず近代哲学の最高峰と言われる哲学を打ち立てた。作家や哲学者は、実際の体験からではなく、過去に読んだ本の影響や、思索だけで本を書くことが多い。
(中略)
プラトン:とにかくどうであれ、人は死ぬ直前まで色々な経験をします。たとえ年老いて身体の自由が利かなくなったとしてもです。身体の自由が利かなくなれば、人は若いころとはまた違った経験の仕方をしますからね。
今度は身体ではなく、だんだんと心で経験するようになるわけです。ますます認識力に磨きがかかると言ってもいい。そうやって人は皆、歳と共にイデアに近づいていく。
訪問者:死の直前まで認識能力が発達するのなら、歳を取るのも悪くなさそうです。
プラトン:はい。生きるとは、自分の認識を広げていくこと。知能の成長には限界がありますが、魂の成長は最後まで続きます。だんだんと若いころには見えなかったものが見えるようになっていく。
そして最終的に人は「世界」のイデアを捉えるはずです。世界のイデアを認識するとき、人は眼や耳といった実際の感覚器官を使うわけではありません。眼では見えない形を見たり、耳では聞こえない声を聞いたり、手では触れられないものに触れることで、この世界の真の姿を知るのです。
訪問者:すごい。
プラトン:そしてこの世界の真の姿を知ったとき、なぜ世界に自分が置かれたのか、その本当の意味を知る。言い換えれば己のイデアを知るのだと思います。
訪問者:いつかは「世界とは何か」そして「自分とは何か」を知ることができるんですね。「ああ。こういうことだったのか!」といった感じでしょうか。
プラトン:ええ、そうですね。そうだと思います。そのとき「これが善というものなのか」という気持ちになれたらいいですね。」