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南直哉「「答え」なんか、言えません。一、仕方がないんだ、人生は」(「考える人」新潮社Web)/鎌田東二・南直哉『死と生 恐山至高対談』

☆mediopos3638(2024.11.4.)

新潮社のWeb「考える人」で
新たに南直哉の連載が始まっている

タイトルは「「答え」なんか、言えません。」
そしてその第一回目は
「仕方がないんだ、人生は」(2024/10/21)

南直哉は「自分がどうして自分なんだということと、
死ぬとはどういうことか、ということを、
三歳くらいからずっと考えてい」るという

「物事が「こういうものである」とか、
自己と対象があって、そこにそうしてある・いる
という根拠は、そのもの・ことには内在しない」
といったことをずっと考えてきた

大学卒業後百貨店の西武に就職したものの
関心のありかが根本的に違っていて
「自分の中で分裂が深く」なり
「一年経った頃にはもう疲弊してしまい、
それで坐禅に通いだし」た

しかし「このまま両方を続けていったら
ノイローゼになり、下手すると自分で自分を
何かするような事になるんじゃないかと思って」
出家して永平寺に二〇年以上いたあと
二〇〇五年に恐山の院代(住職代理)に就任する

以上が南直哉についての極めて簡単な紹介になるが
上記の紹介のガイドとした鎌田東二との
『死と生 恐山至高対談』のあとがきにある言葉が
印象に残っている

 修行僧だった三〇歳の頃、
 仕えていた老僧に言われたことがある。
「南、お前がどこに行くかは知らんが、急ぐな。
 先は長いんだ」

今回の「考える人」での新連載エッセイのタイトル
「「答え」なんか、言えません。」も
「先は長い」ということでもある

最初にこんな言葉が導入として置かれている

「なぜこの世に生まれてきたのか? 
死んだらどうなるのか?
――その「答え」を知っているものなどいない。
だから苦しい。だから切ない。
けれど、問い続けることはできる。
考え続けることはできる。」

南直哉は「出家」してから今年で四〇年になるという
得度は一九八四年一月
そのひと月後の二月末に修行に出る

連載の一回目「仕方がないんだ、人生は」では
同じ日に入門した「もう一人」

住職を務めていた八〇歳の父親が急逝し
後継予定だった親類が病気のため否応なく修行を決意した
「某県の刑務所の刑務官を辞めて上山して来た五四歳の男」
の話が語られる

二人とも「入門直後から、徹底的に指導され」
元刑務官が「ひでえ……ここはひでえ……、もう無理だあ」
と布団で泣いているような状況だったが
翌年には丸一年の修行を終えて実家の寺に帰る

その後住職を継ぎ「近隣の住職仲間からは、
「一年の修行にしては、よく衣が身についている
(僧侶の立ち居振る舞いが立派だ、ということ)」と、
褒められていた」ということだが
「六、七年ほど経ったある日」訃報を知らされる

南直哉は「布団で泣いていた元刑務官のその後は、
「仕方のない」人生の渋い味わいを
私に教えてくれるものだった」

「世の中には「仕方がない」のひと言で全てを呑み込んで、
しなければならない決断がある」が
「その決断が尊く思える」という

元刑務官の「仕方がない」「決断」は
単純な意味では「自由」とはいえないし
正しい答えだったかどうかはわからないが
「命(めい)」を引き受ける「決断」ではあっただろう

「宿命」「運命」「召命」「天命」「使命」
といった言葉がある

与えられた(であろう)「命」に対して
どのように「決断」するか

「宿」っている「命」を
ただ「運ばれる」にまかせるのではなく
ときに「命」に「召」され(呼ばれ)
そこに「天命」を感得し
みずからが自由において引き受ける「使命」とする

そうしたことに「正しい答え」はないだろうが
「なぜこの世に生まれてきたのか」
そう問い続け考え続けることでしか
引き受けることのできない「命」があるのはたしかだろう

しかし「急ぐ」必要はない
「先は長い」のだから
死をさえ超えて

■南直哉「「答え」なんか、言えません。一、仕方がないんだ、人生は」
 (「考える人」新潮社Web 2024/10/21)
■鎌田東二・南直哉『死と生 恐山至高対談』(東京堂出版 2017/9)

**(南直哉「「答え」なんか、言えません。一、仕方がないんだ、人生は」より)

「なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。
出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。

今年、出家してから40年になった。自分の誕生日さえ忘れることがある人間なので、先だって昔の修行僧仲間からそう言われ、仰天してしまった。
 
 私の得度は1984年の1月。そのひと月後の2月末に、もう修行に出た。当時は「気候変動」だの「地球温暖化」などという言葉も無い頃で、上山した北陸の修行道場は、3メートルを超える雪の壁の中で、ほとんど何も見えなかった。しかも当日は吹雪。
 
 古参和尚(先輩の修行僧)に引き連れられて到着した山門で、朝の6時から10時過ぎころまで(だろうと思う)、立ち尽くしたまま入門の許可を待つ。実にお話にならない寒さにさらされて、履いていた草鞋わらじが凍りつき、いざ入ることを許された時には、身動きできなかった。
 
 考えてみれば、ここに来るまでの道中も、時代劇じゃあるまいし、墨染衣すみぞめごろも、手甲、脚絆きゃはん、網代笠あじろがさに草鞋姿という姿で、新幹線や特急に乗ったのである。そのこと自体、すでに試練であった。隣の乗客に「何かの撮影ですか?」と言われた時は、つくづく情けなかったものである。

 同じ日に入門したもう一人は、某県の刑務所の刑務官を辞めて上山して来た、54歳の男であった。80を越えて、なお矍鑠かくしゃくと住職を務めていた父親が急逝した上、その前後に後継予定だった親類が大病してしまい、急転直下、彼にお鉢が回ってきたらしい。
 
 すでに刑務所内の幹部であり、定年も見えてきた時分である。彼は最初のうち強硬に後継を拒否したのだが、檀家は無論、再三再四に及ぶ周囲の懇請黙しがたく、ついに折れて、修行を決意したわけであった。

 いささか訳ありの経歴を持つ二人だったからでもあるまいが、我々は入門直後から、徹底的に指導された(つまり、しごかれた)。
 普通の修行僧は午前3時半起床・午後9時就寝だが、そもそも新参の見習い修行僧(「暫到和尚ざんとうおしょう」、と言う)は、2時前には起きて準備しないと間に合わない。そこから夜の11時近くまで、雪崩のような先輩の怒声と叱責を浴びながら、必死で基礎訓練を受けるのである。

 ようやく1日のメニューを終え、青息吐息で寝床に潜り込み、疲れ過ぎて冴え切った眼を、無理やり瞑って寝ようと焦ると、今度は隣から変な唸り声が聞こえる。

 ただでさえ少ない睡眠時間である。「このヤロー……!」と思って見ると、なんと、隣の元刑務官が泣いているのである。
「ひでえ……ここはひでえ……、もう無理だあ」
 
 それでもまあ、自分の布団の中で呻いているならまだしも、彼は泣きながら私の方に移動してくるのである!

「ジキサイさん、ここはつれえ……ひでえ……」
 私は半分彼にのしかかり、口を塞がんばかりにして言った、
「やめて下さいよっ! 聞かれたら大事になるじゃないですかっ!!」
 道場では、坐禅するところ、食事するところ、寝る場所、トイレと浴場は、沈黙が絶対条件であり、ここで話し声でも聞こえようなら、当事者はただではすまない。
 
 ところが、それでも元刑務官は「ひでえ……ひでえ……」を止めない。
「そんなにひどいと思うんですか?」
 さすがの私もつい訊いてみると、彼は涙と鼻水と皺にまみれた顔で言った、
「そうだあ……、ここはひでえ……、刑務所よりひでえ……」
「えっ、そうなんですか!?」
「そうだあ、刑務所だったら、肉も食えるし昼寝もできる」
 えっ、じゃ、ナニか、オレ、いま刑務所より「ひでえ」所にいるのか?……愕然、であった。

 その後も物覚えと要領の悪い私たちは、ずいぶん苦労したが、翌年彼は丸1年の修行を終えて、めでたく実家の寺に帰り、私はその数年後、「ダース・ベイダー」と呼ばれるようになった。先のことはわからぬものである。

 ちなみに、この入門の年、彼とは秋の一時期、所属の部署が同じだったことがある。そこは宗派の檀信徒が先祖供養を申し込むところで、我々は依頼された供養の法要を行っていた。

 法要はそれほど大掛かりなものではなかったが、部署の責任者たる老師を導師として、10名ほどの修行僧がいて、木魚など鳴らし物を担当したり、その他様々な役目を務めた。

 困ったのは、部署の責任者で、導師役たるこの老師が、しばしば無断で、突然いなくなってしまうことであった。これは我々にとっては大変な迷惑で、特に修行僧のリーダーに当たる古参和尚は、代役の導師を他の部署の老師に頼んで、何とか引き受けてもらわねばならず、これが彼の苦労の種だったのである。

 そもそも、各部署の老師も暇ではないのだから、そこへいきなり導師の依頼が来れば、良い顔はしない。そこのところを、毎度ほとんど「拝み倒して」、リーダーは代役を調達しなければならないのだ。これが度重なれば、「参った」となるのは当然である。

 いよいよ困り果てていた頃合いに、ちょうど修行僧の人事異動(「転役」と言っていた)があり、例の54歳元刑務官が配属されてきた。これを見た途端、リーダーは大声で叫んだ、
「やった! これだ! もう大丈夫だ!!」

 この日以後、リーダーは、鐘を鳴らしたり木魚を叩くなど、「シモジモ」のする法要の役目を、彼に一切させなかった。その代わり、導師の発声と所作を、毎日の練習で徹底的に叩き込んだのである。

「導師デビュー」の日、我々は固唾をのんで彼を見守ったが、地グロの顔が明らかに青ざめつつも、練習の成果か、法要は思った以上の出来で終了した。

「やればできるじゃないか!」
 リーダーは大喜びである。これでいくら老師がいなくなっても、もう困ることはない。それどころか、老師が消えるたびに代行したので、いかに彼が不器用とはいえ、次第に導師役が板に付いてきて、3か月を過ぎた頃には、供養の施主から「ありがたい法要をしていただき、感謝いたします」という礼状が来るまでになった。

 明くる年の春、あの厳冬の2月を過ぎ、桜のつぼみが色づきだした頃、彼は山を下りた。その後の消息はあまり聞こえてこなかったが、6、7年ほど経ったある日、偶然私は彼の訃報を知らされた。いくらなんでも、まだ60を過ぎて間もないだろうに。

 その後仄かに聞こえてきたのは、彼が住職を継いでから亡くなるまでの、日々の様子の一端である。
 檀家さんからは、「方丈さん(住職のこと)のお経はありがたい」と、よく言われていたそうである。
 近隣の住職仲間からは、「1年の修行にしては、よく衣が身についている(僧侶の立ち居振る舞いが立派だ、ということ)」と、褒められていたらしい。まさか入門1年目から導師の訓練をしていたとは、まさにお釈迦様でも気が付くまい。

 彼とはもう一度会って、あの「ひでえ」夜のことを笑い話にしたかったが、今はそれもかなわない。ただ、私には思うことがある。

 彼は、仏道に志高く、いわば「衆生済度しゅじょうさいど」に意気軒高として、僧侶となり、修行に来たわけではなかったろう。住職が亡くなり、後継者が倒れ、実に「仕方なく・・・・」入門したのだ。

 確かにそうではあるが、その仕方なく歩き始めた道は、彼を後悔にしか、不幸にしか、導かなかったろうか。私は違うと思う。

 世の中には「仕方がない」のひと言で全てを呑み込んで、しなければならない決断がある。私には、その決断が尊く思えるのだ。意志と夢と希望に満ち溢れた決断ができれば、それは誠に結構だ。

 だがしかし、退路を断たれ、最早この道しか残されていないことを覚悟した者の決断は、おそらく強い。その決断が開く道は、その者の精進を裏切らないだろう。
 布団で泣いていた元刑務官のその後は、「仕方のない」人生の渋い味わいを私に教えてくれるものだった。「刑務官老師」の慈訓である。」

**(鎌田東二・南直哉『死と生 恐山至高対談』〜「第1章 出会い」より)

*「鎌田/南さんは早稲田大学で美学を学ばれたのですね。

 南/そうです。

 鎌田/経歴を見て非常に興味を持ちました。それは、大学で学んだ美学、永平寺での禅、そして恐山という三つが、自身の中で実に不思議で興味深いトライアングルを成しているのではないかと思ったからです。
 なぜ美学を専攻したのですか。

 南/たまたまです。」

*「南/学科は美術史でしたが、研究テーマは美学でしたね。卒業論文は極めて観念的なものになってしまいました。」

*「鎌田/大学卒業後は百貨店の西武に就職したとのことですが、どうして西武に?

 南/これも全くたまたまですね。」

*「南/ただ、私は常に同じこと、つまり物事の存在には根拠がないということを考えてきたんです。物事が「こういうものである」とか、自己と対象があって、そこにそうしてある・いるという根拠は、そのもの・ことには内在しない。そうしたことをずっと考えてきました。

 鎌田/ということは、最初から非常に演繹的に物事を考えていたと。

 南/永平寺という場所も、具体的に出家するのにそこしか知らないから行ったわけです。『正法眼蔵』を読んで衝撃を受け、これをある程度ものにするのは書物だけではだめだということは、ある段階で分かったんです。

 鎌田/そこで、身体の行へと。

 南/そうです。つまり、頭だけでいくらやっても、どうも限界があるというのが大学時代にうすうすわかりましたから、いつか出家しようと思ったんです。」

*「南/百貨店でしたから、物を売って金にしないと話にならないんです。ところが私の関心のありかは、そことは根本的に違うわけですから、西武の仕事が嫌だったわけではなく。自分の中で分裂が深くなるわけです。それで、一年経った頃にはもう疲弊してしまい、それで坐禅に通いだしました。(・・・)
 それで、このまま両方を続けていったらノイローゼになり、下手すると自分で自分を何かするような事になるんじゃないかと思って、もう、いちかばちかだと思い、気になって仕方がない事をやってみようという気になりました。

 鎌田/それで永平寺まで飛んだんですね。

 南/(・・・)永平寺では三年間はただひたすら寺のお勤めをするという感じでした、その後ようやく本が読めるようになり、そこで仕切り直して自分の抱いていた問題に取り組んでいきました。
 そうしてやっていって、「禅の問題というのは言葉と経験の間だ」ということを思いました。

 鎌田/言葉と身体?

 南/はい。あるいは言葉と経験、もしくは言語と言語化されるものの間を問題にするのが禅なのだと途中で気がつきました。道元禅師は、言語と経験の間あるいは言語と身体の間を狙ってものを書いているのだと思いました。
 ただそうすると、今度はメインテーマの「死」をどう考えるのか、ということに至りまして。

 鎌田/ずっと死がメインテーマだったんですか。

 南/はい。自分がどうして自分なんだということと、死ぬとはどういうことか、ということを、三歳くらいからずっと考えています。ほとんど精神的な成長がないんですよ(笑)。

 鎌田/今も同じことを探求されている?

 南/ずっと同じです。」

*「南/そんなことを永平寺に入ってから、二〇年近くもやっていました。すると、「もうお前ここにいるなよ」という感じになってくるんですね。」

*「鎌田/だいたい二、三年、長くて四、五年で去っていくわけですよね。

 南/そうです。それがほとんどでした。

 鎌田/そして、それから普通の住職になる。とすれば、普通の住職にならない人はたいへん怖い存在ですね。変わり者ですかた、目の上のたんこぶですね。」

*「南/正式に恐山の院代に就任したのは二〇〇五年です。

 鎌田/そもそも、恐山に来るきっかけは何だったのですか?

 南/たまたまです。たまたま妻が恐山の娘だからです。

 鎌田/奥さんとの出会いがなかったら、南さんは恐山とは結びつかなかったんですね。運命的と言いますか・・・・・・・

 南/私は福居で住職もやっていましたし、来るつもりはなかったんですが、妻は、いずれこうなると思っていたようです。」

**(鎌田東二・南直哉『死と生 恐山至高対談』〜「第6章 生命のかたち」より)

*「鎌田/私たちの時代に必要なのは、世阿弥の時代に世阿弥がやってきたことは何であって、今の時代に世阿弥のような人が生きていたら何ができるのかを考え、それを試みていくことなんです。空海、道元、親鸞、そしてお釈迦様らは、それぞれの時代の文脈の中で、ラジカルなことをやり遂げた。そのお釈迦様の伝統を引き継いだ仏教教団が、どれほどそれを矮小化してきて、あるいは神秘化して語ってきたか。本来のお釈迦様がやってことは一体何だったのか、今に置き換えて何が問えるのかということを、存在論として、哲学として取らなければいけないんです。

 南/いま先生がおっしゃったように、私はいつも思うんですよ。まずその時代に生きる自分の問いを立てることが先なんです。それでわれわれは、性急にその答えを出そうとするでしょう? しかもその答えも、どこからから借りて来て持ってくる。そうではなく、その時代に生きる自分が何を問題にしているのか、何を問うのか。まずこの問いをちゃんと立てられないと、話にならないんですよ。つまり、答えを出すこと以上に重要なのは問いなんですよ。問うことなんです。」

**(鎌田東二・南直哉『死と生 恐山至高対談』〜南直哉「知を舞う人」より)

*「空海上人や道元禅師に触れて、彼らの論理に詩文の情緒を対置し、その重要性を強調する先生のお話には、実に感銘と示唆を受けたが、それよりもずっと、先生ご自身が自らの論理を常に外に開いておられることに、私は深く共感していた。方法は違っても、私もそれを志していたからだ。

 修行僧だった三〇歳の頃、仕えていた老僧に言われたことがある。

「南、お前がどこに行くかは知らんが、急ぐな。先は長いんだ」

 いま齢六〇にしてまた、先生の佇まいに老僧の「家風」を見る思いである。」

○南直哉
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。

◎南直哉「「答え」なんか、言えません。一、仕方がないんだ、人生は
https://kangaeruhito.jp/article/759981

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