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ピエール・アド(合田正人訳・古田徹也解説)  『ウィトゲンシュタインと言語の限界』

☆mediopos2771  2022.6.19

本書『ウィトゲンシュタインと言語の限界』の著者
ピエール・アド(1922-2010年)は
古代ギリシア思想や新プラトン主義の研究者であるように
mediopos-1935(2020.3.3)でもご紹介した
『イシスのヴェール』(原著2004年)の著者でもあるが
本書はその四〇年ほど前の一九五九年に発表された
ウィトゲンシュタインについての論考である

当時ウィトゲンシュタインに関して出版されていたのは
『論理哲学論考』と『哲学探究』だけだったにも関わらず
『イシスのヴェール』の著者であることからもわかるように
ウィトゲンシュタインの思想の中に
古代のストア派や懐疑主義・新プラトン主義などとの
つながりを見て取りながら
前期と後期に一貫して流れている
「言語」と「哲学」に関する視座を浮き彫りにしている

「語ることのできないものについては、
沈黙しなければならない」が
前期の『論考』の最後の言葉だったが
ウィトゲンシュタインは
「言語の限界を超越する何か」である
「えも言われぬもの」を目指していたともいえる

しかしながら「論理学的形式を思考するためには」
「言語と世界の外にでなければならない」のだが
アドはそれを「言語の乗り越え不能な限界」であるという

やがてウィトゲンシュタインは後期の『探求』において
ゲーテの原(Ur)の視点を受けて
言語の「原現象」としての日常言語を見出し
「言語ゲーム」についてさまざまに語り始める

ゲーテが原植物は見えるとしたのに対して
シラーはそれを観念に過ぎないとしたように
両者はその点に関して相容れなかったようだが

ウィトゲンシュタインもまたゲーテのように
日常言語はそれそのものが原現象であるとし
言語の彼方にあるであろうイデアのようなものを認めない
いってみればアリストテレスがプラトンのイデアではなく
「形相」を示唆したのにも似ている

「後期のウィトゲンシュタインによれば、
隠されたものなど何も存在しない」
「意味づけられた唯一の言語は
まさしくこの日常的言語であり、
それを乗り越えることは絶対に不可能」だとアドはいう

言語を探求する哲学者もまた
「日常的言語を分析して、
その背後にある何かを明るみに出すこと」が目的ではなく
もとより「そのような「何か」など存在しない」
「言葉が織り込まれたわれわれの日常の諸活動」である
「言語ゲーム」こそが「原現象」にほからないからだ

そしてウィトゲンシュタイン自身が
「言語の文の理解は、人が思っているよりもはるかに
音楽の主題の理解に類似している」といっているように
音楽の主題がその演奏や脈絡のなかで
無数の異なる表情(意味)を持って展開されるように
「言葉もまた、それが置かれる脈絡に応じて無数の意味をもち」
「音楽を理解するようなかたちで理解される」

おそらく「沈黙」もまた
「音楽」の多様な「演奏」であり「脈絡」の
ひとつであるとすることもできるだろう
「語ることのできないものについては、
沈黙しなければならない」が
沈黙はそれそのものが「原現象」にほかならない

■ピエール・アド(合田正人訳・古田徹也解説)
 『ウィトゲンシュタインと言語の限界』
  (講談社選書メチエ 講談社 2022/6)
■ピエール・アド(小黒和子訳)
 『イシスのヴェール/自然概念の歴史をめぐるエッセー 』
 ((叢書・ウニベルシタス 1109 法政大学出版局 2020/1)
(著), 小黒 和子 (翻訳)

※以下、引用はピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』より。

(「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における言語の限界についての考察」より)

「「語ることのできないものについては、沈黙しなければならない」という『論考』最後の言葉が沈黙への呼びかけであるのは確かである。この呼びかけが高貴なものであるのは、それに先立ってウィトゲンシュタインが、それについては黙るべきものとしてこの言語の彼方をわれわれに垣間見せたからにほかならない。ここでプラトンの「第七書簡」に言及しないわけにはいかないだろう————「私は自分の努力の対象であるようなものについて一度も何も書かなかった」。

 しかし、『論考』最後の命題が、神秘主義的著述家の伝承の中にウィトゲンシュタインを位置づけるようわれわれを導き、これらの著述家はというと、〈えも言われぬもの〉〔Ineffable〕を前にした沈黙のドアのところまでわれわれを導こうと欲していたとすれば、著作の運動そのものは、えも言われぬもの、超越〔transcendence〕の観念によって提起された哲学的問題に関する極度に興味深い視点を、われわれにもたらしてくれる。超越および、えも言われないもののいっさいの形式との対立そのものの中で、「えも言われぬものがある」、「私は言語の限界を超越する何かを目指したい」と明言する可能性は生まれるのだ。事実、ウィトゲンシュタインの出発点は、まさにそうだった。すなわち、私は論理学形式、言い換えるなら可能的意味をもつもの、さらに言い換えるなら経験的に実証可能なものしか思考できない。このような原則は、えも言われぬものと超越の観念から、いっさいの意味を排除する。しかし、まさしく論理学形式をもつものだけしか私が思考しえないとして、私は結局のところ論理学形式そのものを思考できない、という事実に私は突きあたってしまう。この論理学的形式を思考するためには、私は言語と世界の外にでなければならないだろう。だから、私はそれと同時に、私は論理学的形式を「語る」ことはできないが、それを狙うことはでき、論理学的形式は私に自分を示すのだから、すべての「思考すること」が「語ること」に還元されるのではないということを発見する。私は同じく、私の言語そのものが、ある意味では、えも言われぬものであることをも発見する。私は私の言語を語ることができず、それを狙うことができるだけである、さらに言語を言語として表現しようとするとき、この言語は意味をもつことをやめるのだ。えも言われるものという観念を私に禁じるどころか、言語はそれを私に開示するのだ。私は正確かつ論理的に話そうと欲するがゆえに、不正確な言語を論理的に用いるのを受け入れることを強いられる。何も表象することなく喚起するだけの言語を。私は言語の呪術的価値を再び見出す。言語の最も根本的な形式は詩であり、それは私の前に世界を誕生させる、ということを垣間見る。この詩的言語、言語のこの指示的またじゃ喚起的な機能の中でこそ、私は「えも言われぬものが本当に存在する。それはみずからを示す。それこそが神秘的なものなのだ」と明言する権利をもつのである。

 ウィトゲンシュタインが主張しているのとは違って、哲学は言語の悪しき使用から生まれるのではない。むしろ、こう言っておこう。言語の全体が不可避的に哲学的なものになる傾向、言い換えるなら、言語は言語として自分を実現し、自分自身の表現可能性を表現しようとする傾向を有しているのだ、と。この不可避的で必然的な努力、ただしそれは必然的に失敗を余儀なくされた努力なのだが、そのような努力の中で、哲学はそれ自身の不可能性を発見する。言い換えるなら、言語の乗り越え不能な限界、もっと言えば、言語という乗り越え不能な限界に突きあたる。言語は、言語にとって乗り越え不能な限界なのだ。K・ヤスパースであれば、〈超越〉の究極的暗号〔le chiffre〕、それは沈黙である、と言うだろう。」

(「ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 Ⅱ」より)

「ウィトゲンシュタインの「治療的」哲学は、(・・・)われわれを原現象に連れ戻すことで、われわれの形而上学的不安を癒やそうとする。原現象とは日常的な言語活動のことであり、それは言語ゲームの、つまりはわれわれの態度やわれわれの生活の形式の還元不能な多様性としてある。一つの言語、すなわち言語に先立つ意義を認知できるような思考の一つの表現が存在するわけではないのだ。存在するのは、人間の語りの還元不能な多様性だけである。感情を表現することは、対象を記述することではない。歌うこと、祈ること、芝居をすることは、その各々がそれ固有の文法を決定する態度なのである。

「日常的言語が「われわれの前にさらされて」おり、問題は存在しないという点を肯定すること、いっさいの哲学的問題を消失させるためには、一言で言えば、言語ゲームの始原的現象を前にして説明を行うことを放棄するためには、どのような言語ゲームがなされたかを知るだけでよいと明言すること、それは実際、ある態度をとり、新たな生活の形式を定め、新たな言語ゲームを発明することなのである。言語による言語のこの「純粋」記述、複数の言語ゲームのそれぞれに固有の文法についてのこの自覚ほど、言語の正常な機能から遠いものはない。それは、もはや自発的で、ある意味では無意識的な話すことではなく、話すことについて話すことであって、それは際限なき弁証法の運動を引き起こしうる反射〔反省〕を言語のただなかに創設することなのである。そうだとすれば、日常的言語のいわば寄生物〔prarasite〕であることを哲学に対して明かしたことは、ウィトゲンシュタイン疑いの余地なき功績である。哲学的言語は、日常的言語からその確実性、その明証性、その構造を組み上げながら、一言で言えば日常的言語によって養われながら、それが日常言語とのあいだに維持するこの根本的関係を忘却しているのだ。それだけではない。哲学的言語は日常的言語を隠蔽し、窒息させているのだ。ところが、ウィトゲンシュタインが哲学に提案する治療の結果、哲学がそれを養う根底を承認し、言語ゲームという始原的現象を前にした純粋な驚異にこだわろうと努めるとき、哲学は、それを日常的言語の生まの所与から切り離す乗り越え不能な二重化に気づく。先ほどは哲学は寄生物としての自分を発見したが、今や哲学はむしろ共生〔symbiose〕を語ることになるだろう。いや、というよりも哲学は、それが有する比類なき特性、自分自身を意味づけ、自分自身と関わることができるというこの特性を、ある隠喩によって表現することを放棄するだろう。かくして、人間が日常的変語という始原的現象に立ち戻り、そうすることでおそらく、「人間の存在は言語としてそれ自身を表す」のを認めうるのは哲学的言語によってである、という事実を回避するのは絶対に不可能なのである。」

(「言語ゲームと哲学」より)

「ウィトゲンシュタインはこのように哲学の「言語学的」諸条件についての省察へとわれわれを導いた。ただ、おそらく彼自身はそれを予期してはいなかった。ただ、私が思うに、多様な言語ゲームの中で日常的言語という始原的で起源的な現象にわれわれの注意を向けさせることで、ウィトゲンシュタインは彼が「探求の基礎」と呼ぶものをわれわれに真に発見させた。この「探求の基礎」はもはや人を驚かさない、とウィトゲンシュタインはわれわれに言う。なぜなら、この基礎は人間にとって単純で日常的なものと見えるからだ。驚きはいつも新しい出発点である。この驚きから出発する哲学は、哲学に終止符を打つことはなく、哲学をその態度の一つに、H・ヴェインが「アポリア的意識」と呼ぶものに連れ戻す。すなわち、アポリアの中で表現不能なものを示すことに。H・ヴェインが言うには、なぜなら「言語の傑出した哲学的可能性は、解答がないことの可能性のうちに宿っている」からである。」

(古田徹也「解説 ウィトゲンシュタイン哲学の「新しい」相貌」より)

「「言語の中に反映されるもの。われわれはそれを言語によって表現することはできない_————前期ウィトゲンシュタインの哲学を要約するこの問題を。アドは〈言語の乗り越え不可能性〉と呼ぶ。「言語は、言語にとって乗り越え不能な限界なのだ」ということである。

(・・・)

 ハイデガーと同様、ウィトゲンシュタインも〈言語の乗り越え不可能性〉を重々了解しつつ、それでも敢えて言語の限界に向かって突進してみせる。「神は世界のうちには姿を表さない」、「語りえにものは存在する」————これらは、「語りうるもの以外は何も語らぬこと」という『論考』の方針を自ら破るものであり、言語の限界を越え出ようとする越境行為にほかならない。そして、この試みは不可避的に失敗に終わり、これらの無意味な命題もどきは、『論考』の読者が踏み越えて打ち捨てるべき〈梯子〉として機能する。アドは、言語のこの特殊な働きを「指示的または喚起的な機能」と呼ぶ。」

「後期のウィトゲンシュタインによれば、隠されたものなど何も存在しない。「哲学は日常的言語を正規化しようとしたり、体系化しようとしたり、純粋化しようとしたり、説明したりしようとしたりすることはできない。それには十分な根拠がある。すなわち、意味づけられた唯一の言語はまさしくこの日常的言語であり、それを乗り越えることは絶対に不可能なのである。

 繰り返すなら、言語を探求する哲学者の役目とは、日常的言語を分析して、その背後にある何かを明るみに出すことなどではない。そのような「何か」など存在しない。言葉が織り込まれたわれわれの日常の諸活動————すなわち、われわれの種々の言語ゲーム————こそが、言うなれば「原現象(Urphaenomen)」なのだ。

(・・・)

 ゲーテは、自然研究の方法論としての形態学(Morphologie)を生み出し、植物や動物のほか、色彩などの現象にもその方法論を適用しつつ、独自の探求を進めた。ゲーテは、現実の日常的な世界で生き生きと立ち現れる事物や現象の、生成変化に富むありようをあるがまなに捉えることを目指し、その背後により高度なものや深遠なものがあるという考えを繰り返し批判している。
(・・・)

 ウィトゲンシュタインが、こうしたゲーテの議論から直接影響を受けていることは明らかだ。」

「アドが強調するのは、言語ゲームとは多種多様な現象だということである。
(・・・)
 肝心なのは、個々の言葉がどのような個人的・社会的な脈絡のなかで発せられているか、ひいては、どのような生活形式のなかに埋め込まれているのか————つまり、どのような言語ゲームが行われているのか————をよく見て取ることだ、かくして、〈言語の乗り換え不可能性〉は後期ウィトゲンシュタインにおいては、ある種の言語ゲームの「文法」を別の原語ゲームに適用することの不可能性として位置づけ直される、そうアドは主張するのである。
(・・・)
 そしてアドは、「言語の文の理解は、人が思っているよりもはるかに音楽の主題の理解に類似している」という『探求』の一節を、以上の観点から捉える清新な解釈を提示している。すなわち、音楽の主題が、それがどのような脈絡のなかの位置づき、どのように演奏されるかに応じて、無数の異なる表情を————こう言ってよければ、意味を————もつのと同様に、そしてまた、そもそも何らかの対象や事態を記述するものであるとは限らないのと同様に、言葉もまた、それが置かれる脈絡に応じて無数の意味をもち、そしてときに、それこそ音楽を理解するようなかたちで理解されるのだ、と。」

「後期ウィトゲンシュタインに出会うことによって、アドは哲学に対して新しい展望を見出すことになった。すなわち、魂の変容を図る収斂として、あるいは、「生きる仕方と世界を見る仕方を変容することを目指す活動」として、哲学を捉える視座である。アドは、およそ四〇年後の二〇〇四年に著した著書『イシスのヴェール』では、精神の収斂(exercices spirituels)としての哲学観を展開するものとして、ウィトゲンシュタインの哲学とモーリス・メルロ=ポンティによる次ぎにような叙述とを重ね合わせている。

 世界と理性は、問題となるものはなく、それらは神秘なのだと言いたければそう言えるだろう。しかしこの神秘はそれらを定義しているのであって、なんらかの解決によってそれが一層されるという問題にはならないだろう。それは解決の手前にあるものである。真の哲学は世界の見方を学び直すことなのである。」

■ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』の内容


ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における言語の限界についての考察
ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 I
ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 II
言語ゲームと哲学
解説 ウィトゲンシュタイン哲学の「新しい」相貌(古田徹也)
訳者後記

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