村澤和多里・村澤真保呂『異界の歩き方――ガタリ・中井久夫・当事者研究』(シリーズケアをひらく)
☆mediopos3585(2024.9.12)
本書『異界の歩き方』は
タイトルや表紙イメージからすると
内容について誤解されることもあるのではないか
そんな危惧を抱いてしまうのだが
深くかつ広い視点で
「心のケア」を根本から問い直す試みであり
それを「べてるの家」の当事者研究や
中井久夫の「個人症候群」
そしてガタリの「スキゾ分析」等と関連づけながら
さらにその根底において通底しているだろう
精神病理と自然環境問題の「ケア」によって
「宇宙と自己との結びつき(コスモロジー)」を
再生させるための視点が示唆されている
そしてそれらが論じられる「鍵」となっているのが
「異界」なのである
「私たちは心を病み、「あたりまえ」の世界を失うとき、
そこには必ず異界の扉が開いている。
多くの「心のケア」においては、
この異界の存在を見ないようにしたり、
その扉をなんとか塞ごうとしたりすることに
力を浪費されてきた」
しかしそうした「異界」を塞ぐ療法によって
「「あたりまえ」の世界が維持できていたとしても、
それと引き換えに、生命の輝きはくもり、
ただ生かされるばかりの存在になってしまうこともある」
という
「異界」への旅は
べてるの家の「当事者研究」の話からはじまる
「これまでの精神医療においては、
本来統合されるべき体験を「あってはならないもの」として、
構造的に排除していたといえるかもしれない」が
「当事者研究は排除されていた自己の体験を取り戻し、
それを人とのつながりのなかにしっかりと組み込むことによって、
生命論的な「つながり」を回復している」
それは中井久夫が「個人症候群」と呼んだプロセスと親和的で
「精神疾患をある種の診断カテゴリーに押し込めるのではなく、
ある人が世界との関係をユニークな方法で結び直し、
新たなコスモロジーを産出していくプロセス」とみなしている
当事者研究においては
「精神科的症状をその人の人格から切り離す
「外在化」と呼ばれるもの」があり
「幻聴を「幻聴さん」と呼んだり、
否定的な思考パターンや症状にとらわれてしまうことを
「お客さん」と呼んだりしてキャラクター化したうえで、
それらとのつきあい方を仲間といっしょに考えていく」
そうした「当事者研究」のあり方は
「「憑きもの落とし」と共通点が多いが
「症状を個人の体の外からやってくる「お客さん」と理解し、
症状を治療するのではなく、「お客さん」と一緒に
生活する方略を探索しているのである」
精神医学が確立していくなかで
「憑きもの」という現象は
非科学的で価値の低いものとされ
「〈憑く身心〉のコスモロジーから
〈病む身心〉のコスモロジーへの移行」してきたが
しかし「心理療法(精神療法)は、
そのはじまりから現在に至るまで、
〈憑く身心〉を密輸入しつづけている」
「筆者の考えでは」としてはいるが
「当事者研究における「お客さん」という概念は、
症状をその人から切り離す「外在化」という側面だけでなく、
身心をさまざまな声や症状が訪れる場として開放する」
「ポリフォニー化(多声化)」といってもよいかもしれない」
という
その意味において
本書でとりあげられている
中井久夫の「個人症候群」もガタリの「スキゾ分析」の考えも
「統合失調症などの精神疾患を
「旅」または「プロセス」としてとらえ、
そこからの回復のために非日常的世界をくぐり抜けていくこと」で
「「宇宙」と自己とのつながりが自然に回復していくこと、
すなわちコスモロジーが再生していくことを支えること」を
「支援の中心」に置くものであるといえる
まさに「異界」をめぐる旅である
じっさいのところ
わたしたちは日常の現実性とは異なった
「異界」とともに生きてもいるともいえるのだが
ほとんどのばあいそれは無意識のなかで
「水平的」な関係性における現実性を可能にする
「もうひとつの現実性」として働いている
その「異界」を切り捨て失ったとき
むしろ「現実」は平板となり
「垂直的」な次元を
閉ざしてしまうことになるのではないか
■村澤和多里・村澤真保呂『異界の歩き方――ガタリ・中井久夫・当事者研究』
(シリーズケアをひらく 医学書院 2024/9)
**(「序章 異界に分け入る」より)
*「この本では、「心のケア」とはどのような営みなのか根本から問い直すことを試みる。しかし、それは精神医療的なケアの理想の姿を検討するということではない。その前に、そもそも「心」というものが医療の対象とされ、ケアされるということはいかなる自体であるのか問う必要がある。そしてこの試みは、「生命」という視点から「心」という概念を問い直すことに行き着くだろう。
この本の筆者はふたりいる。ひとりは臨床心理学者で、もうひとりは社会思想史の研究者である。臨床現場での経験から帰納的に浮かび上がってくる知見と、哲学的視点から演繹的に導かれる論理とを結びつけることによって、これまで絵が消えなかった「心のケア」のパースペクティブを開いていきたいと考えている。」
*「鍵になるのは「異界」である。
私たちは心を病み、「あたりまえ」の世界を失うとき、そこには必ず異界の扉が開いている。多くの「心のケア」においては、この異界の存在を見ないようにしたり、その扉をなんとか塞ごうとしたりすることに力を浪費されてきた。
しかしその結果、かろうじて「あたりまえ」の世界が維持できていたとしても、それと引き換えに、生命の輝きはくもり、ただ生かされるばかりの存在になってしまうこともある。生きることと、死なないこと、生かされることとは違うのだ。」
**(「I 異界」〜「第1章 症状を活かす」より)
・当事者研究とは
*「べてるの家の当事者研究は、基本的には、精神疾患をもちながら暮らしている人たちが、「生きづらさ」「困りごと」を持ち寄って、仲間と語らいながらその人らしい「自分の助け方」を研究していくプロセスであるということができる。しかし、進め方が決まっているような、そうでないような、はっきりととらえられないところがある。」
「当事者研究にはマニュアルの代わりに「理念」が存在している。「弱さの情報公開」「前向きな無力さ」「〝人〟と〝こと(問題)〟をわける」などといったもので、それは「技法」というわけではない。技法というよりも、考え方や姿勢であるという意味で「理念」なのだろう。弱さをみんなと分かち合えるようになること、人格を尊重すること、症状のあるなしにとらわれない価値を見出すことといった境地に達するのは一種の「悟り」といってもいい。そこに至るための「正解」などというものは初めからないのだろう。」
・当事者研究のはじまり
*「当事者研究のはじまりは、2001年に浦河赤十字病院のソーシャルワーカーであった向谷地生良と、統合失調症を抱え、「爆発行動」を繰り返して親を困らせていた河崎寛さんという青年との対話にさかのぼる。この対話は「爆発の研究」と呼ばれている。」
「河崎さんと向谷地は、研究の結果として「爆発は止めるのではなく、活かすものである」という結論に行き着いた。」
・「治す」よりも「活かす」
*「「爆発を活かす」ということは、それによって孤独に陥ることから、それをきっかけに仲間とつながることへ転換することである。」
「普通は治療の対象になるような「症状」や「困りごと」を、むしろそれを活かすことによって人とのつながりを回復していくような展開は、当事者研究ならではのものであり、「〝治す〟よりも〝活かす〟」「自分の苦労をみんなの苦労に」という「理念」として掲げられている。」
・「あってはならないもの」でなく
*「当事者研究においては、通常は「あってはなたないもの」として排除されたり、押さえ込まれたりするネガティヴな体験を、「あるからこそ人とつながれる」という体験へと変換することに成功しているのである。
逆にいえば、これまでの精神医療においては、本来統合されるべき体験を「あってはならないもの」として、構造的に排除していたといえるかもしれない。当事者研究は排除されていた自己の体験を取り戻し、それを人とのつながりのなかにしっかりと組み込むことによって、生命論的な「つながり」を回復しているのである。」
・「誤作動」と「運転技術」
*「しかし、そのままの問題や症状から「豊かな可能性」を引き出すことは困難である。それらをある意味で「道具」として使いこなせるようになることが重要である。
実践的に「豊かな可能性」を引き出すアプローチの一端は、「誤作動」と「運転技術」という概念にあらわれているように思われる。
「「誤作動」「運転技術」は、車やコンピュータなどの機械に使われる用語であるが、当事者円球のある側面を言い表すためには適切である。研究をとおして、当事者の身体の内側や外側えバラバラに回っていた歯車を、これまでとはまったく異なる形に組み替えることによって、予想もしなかった動きをする機械として再生させていくようなプロセスであるとうことはできないであろうか。
その新たな組み替えにおいては、幻聴や幻覚といった「誤作動」すらも重要な役割を果たす道具として組み入れられているのである。」
*「このような実践は、(・・・)1960年代にR・D・レインや反精神医学を標榜した者たちが目指したものと重なるものでもある。」
「しかし、レインたちは、人間に「生」を抑圧する装置であるとして精神医療を拒否する方向へと進んでいった。そして純粋で穢れない人間の「生」を探究して、出生以前の胎児の体験にまで遡行していったのに対し、向谷地の実践は非常に泥臭く胡散臭い。精神医学もそうでないものの使えるものはなんでも混ぜ合わせ、非科学的な方法論を用いるのであるが、結果としては強力なコスモロジーを生み出している。
その意味では、当事者研究は精神科医の中井久夫が「個人症候群」と呼んだプロセスと親和的であるということもできるだろう。「個人症候群」とは、精神疾患をある種の診断カテゴリーに押し込めるのではなく、ある人が世界との関係をユニークな方法で結び直し、新たなコスモロジーを産出していくプロセスとみなすという考え方である。」
**(「I 異界」〜「第2章 「憑きもの落とし」と当事者研究」より)
*「当事者研究の実践のなかで特にユニークなやりとりに、精神科的症状をその人の人格から切り離す「外在化」と呼ばれるものがある。たとえば、幻聴を「幻聴さん」と呼んだり、否定的な思考パターンや症状にとらわれてしまうことを「お客さん」と呼んだりしてキャラクター化したうえで、それらとのつきあい方を仲間といっしょに考えていくのである。また、当事者研究は日常から切り離された実践ではないので、それらのキャクターは日常生活においても実在するかのように扱われるようになる。」
「当事者研究の「外在化」の手法は、症状を当事者の人格から切り離し、その人格を否定しないことを可能にする。それが「〝人〟と〝こと(問題)〟を分ける」として掲げられている当事者研究の理念の意味するところである。」
*「かつては精神疾患についても「憑きもの」という観念で理解され、民俗共同体のなかで誰かが狐などに「憑かれた」場合、僧侶や呪術師などがことの収拾にあたっていた。彼らは何が就いたのかを名指し、その霊的存在と交渉や取引をして、立ち去ってもらうようにもっていくのである。このような「憑きもの落とし」の方法は世界各地に見られるものであり、かつて西欧でおこなわれていた「エクソシズム(悪魔払い)」もそのひとつである。」
「「憑きもの落とし」と「当事者研究」を比較してみると共通点が多いことに気がつくだろう。
当事者研究では、症状を外在化するだけではなく、「自己病名」をつけることも重視されているが、これは呪術師が何が憑いているのかを名指すことと似ている。また、「お客さん」をキャラクター化し、それとのつきあい方をみんなで考えるというのも、狐や犬神などとのかけひきを思い起こさせる。
それらはともに、症状を個人の体の外からやってくる「お客さん」と理解し、症状を治療するのではなく、「お客さん」と一緒に生活する方略を探索しているのである。」
・憑依、解離、嗜癖
*「精神医学が確立していく過程で「憑きもの」という現象は著しく矮小化され、非科学的で価値の低いものへと格下げされていった。このような変遷を、精神医学史を研究している兵頭晶子は〈憑く身心〉のコスモロジーから〈病む身心〉のコスモロジーへの移行としてとらえている」
「「解離」という現象は〈病む身心〉のコスモロジーのなかで、ひそかに〈憑く身心〉を回復していると理解できるかもしれない。しかしじつは心理療法(精神療法)は、そのはじまりから現在に至るまで、〈憑く身心〉を密輸入しつづけているのである。」
・外在化と開放化
*「筆者の考えでは、当事者研究における「お客さん」という概念は、症状をその人から切り離す「外在化」という側面だけでなく、身心をさまざまな声や症状が訪れる場として開放するという側面が重要であると思われる。それは「外在化」というよりも「ポリフォニー化(多声化)」といってもよいかもしれない。」
・〈開かれた身心〉を包み込む繭
*「心理療法の多くは、〈閉じた身心〉を一時的に、部分的に〈開かれた身心〉へと移行させ、ふたたびそこから〈閉じた身心〉へと戻っていくプロセスであるといえるであろう。」
*「中井久夫によると、統合失調症の寛解過程がはじまってしばらくすると、「繭につつまれた感じ」という特有の感覚が、患者のまわり、あるいは患者と治療者とのあいだに漂うとされている、このような関係性のなかで、開かれたまま溢れだしていた幻覚や妄想が、徐々に環境のなかで、そして無意識の彼方へと閉じられていく。」
「このような感覚は、当事者研究を包み込んでいる〈場〉の感覚に通じるものであるように思われる。〈開かれた身心〉が柔らかな「繭」のような環境に包み込まれ、そこに溶け込んでいくようなプロセスである。症状は「お客さん」として仲間たちに迎え入れられ、仲間たちの想いを重ね合わされて、それが自然なあり方であるような日常に溶け込んでいく。」
**(「I 異界」〜「第3章 「個人症候群」と異界」より)
*「向谷地生良は統合失調症の人の回復のプロセスについて次のように伸べている。
リアルワールドじゃない「アナザーワールド」のなかでその関係に苦しんでいるんです。食事がまずいとかおいしいとか、誰々さんのことが好きだとか嫌いだとか、そういうリアルな現実との話がほとんど出てこないんですよ。だから、そういう話がでてくると、ると、「あっ、回復が始まったな」と思う。むしろ、そういうことをいかに起こしていくか、っていうことです。
統合失調症からの回復過程においては、「異界」についての話から、現実の人間寛解の話にシフトしていくことが見られるということである。
精神科医であり思想家でもある松本卓也は、この向谷地の言葉を引いて、「垂直方向」の関係から逃れ、「水平方向」の関係に開かれていくことによって回復がはじまっていくと指摘している、「垂直方向」というのは「神と私」というような価値を体現するような超越的な存在との関係性のことであり、「水平方向」というのは家族や隣人といった「同じ人間」としての関係性のことである。
これに照らすと、中井久夫の「個人症候群」という概念や、岩宮恵子の心理療法のプロセスでは、宇宙との関係を再編していくという「垂直方向」が重視されているということができるであろう。しかし、他方で松本自身も指摘しているように、中井は日本の精神科医にあって珍しく、統合失調症からの回復過程における「水平方向」の関係性を重視した人でもある。」
「この「個人症候群」という考え方は、「当事者研究」を理解するうえで大きなヒントを与えてくれる。「当事者研究」は、いわば「異界」を生きている人たちがお互いに助け合いながら新たなコスモロジーを創建していくような営みである。そこでは「水平方向」の支え合いのなかで、「垂直方向」に世界の意味が開かれていく。」
**(「III 精神のエコロジー」〜「第8章 精神、文化、自然」より)
*「晩年のガタリはスキゾ分析の治療論を社会病理や自然環境問題の解決に結びつけることを目指していた。その構想をまとめた『三つのエコロジー』や『カオスモーズ』において、ガタリがもっとも強く主張したのは内的宇宙の回復であった。
ガタリは「宇宙(コスモス)」を、個人の精神世界、社会の目に見えない人間関係のネットワークや文化、自然界の生態系に通底する領域とみなし、その領域と自己が結ばれる感覚こそが、精神病理、社会病理、環境破壊を解決するにあたり、もっとも核心にある要素であると考えた。というのも、「宇宙」——精神世界、社会、自然環境のどの宇宙であっても——と自己が結ばれることは、自己がその宇宙と切り離せない関係になることであり、深い愛着と倫理的な責任をもってその宇宙を自身の居場所としてケアすることだからである。」
「このようなガタリのエコロジーについての主張が、統合失調症の治療理論そのままの延長線上にあることは明らかだろう。」
**(「III 精神のエコロジー」〜「第9章 自然環境にむけてケアをひらく」より)
・自然環境にむけてケアをひらく
*「精神内のエコロジー(ネクサス)と自然環境のエコロジーが相互に対応関係にあり、共通の論理によって理解されるものであるとしたら、精神的領域における「ケア」の意義は、そのまま自然環境にみあてはまるはずである。(・・・)自然環境問題を人間が「治療」する方法についてはまだ見つからないとしても、傷ついた自然環境を人間が「ケア」することは可能であり、それは自然環境の「治癒(回復)」を促す可能性をもつからである。そしてケアという概念が苦しむ他者に対する共感に依拠することを思い起こすなら、自然環境へのケアもまた人間以外の諸存在に対する共感に依拠するはずである。」
**(「終章 すぐそばにある異界」より)
*「R・D・レインやフェリックス・ガタリ、中井久夫らによる試みは、当時の主流の精神医療対する挑戦であった。」
「彼らは共通して、統合失調症などの精神疾患を「旅」または「プロセス」としてとらえ、そこからの回復のために非日常的世界をくぐり抜けていくことの必要性を老いた。筆者らはそれを「異界」をめぐる旅としてとらえた。
このような非科学的な物言いいは違和感をもたれるかもしれないが、その入り口は、症状、夢、そして「お客さん」という、日常と非日常の狭間にある現象であり、それを通り抜けたときに回復のプロセスがはじまるという意味で、やはり「異界」をめぐる旅というのがふさわしいと思う。」
・「心」とは何か
*「近代以降に発展した精神医学や心理学において、「心」は個人の「脳」のなかで生起する現象のようにとらえられてきたが、それは表面的なとらえ方である。そうではなくて、個人を超えた社会、文化、生態系などが絡み合った「宇宙」としての「実体」が、個人のなかに局在化したものが「心」なのである。
つまり、私たちという「存在」には、「実体:の属性がそれぞれに投影されているが、私たちは「実体」と同じものではない。また、私たちという「存在」んは、モノとしての側面と、コトとしての側面があり、特に「心」はコトという側面に関わる現象である。」
・コスモロジーの再生
*「中井にしたがえば、宇宙と自己との結びつき(コスモロジー)が危機に瀕したときに、心も危機に陥るということになる。たとえば、環境の急激な変化によって、それまで人を支えていたコスモロジーが揺らいだときなどに、ある種の精神的症状があらわれる。ただし、精神的症状はコスオロジーの解体の結果ではなく、むしろそれを修復するか、再生するように働いているととらえるべきものである。
この修復や再生のプロセスが、「狐憑き」など文化に特有の症状をともなっいぇあらわれた場合「文化依存症候群」となるが、なかにはその人だけに固有のプロセスとして経過する場合もある。これを中井は「個人症候群」と呼んだ。」
「ガタリの「スキゾ分析」の考えも、基本的には、中井のいう「個人症候群」の考え方に近い。(・・・)スキゾ分析においても、個人と環境とのネットワークを組み替え。社会環境を「治療機械」として組み直すことに主眼が置かれている。
これらの方法論においては、他の精神療法や心理療法のように、個人の内面や行動を変容させることが目的とはならない。そこでは「宇宙」と自己とのつながりが自然に回復していくこと、すなわちコスモロジーが再生していくことを支えることが支援の中心にある。
つまり、これは本書で「自然治癒過程」と呼んできたことであるが、ここで重要になるのが「ケア」という倫理である。」
・「異界」を取り戻す
*「ケアの倫理によって守られた日常と非日常とのあいだにある場を。中井は「繭」にたとえた。中井は統合失調症からの回復過程で、患者と治療者のまわりに、自己からも世界から少し隔てられたかのような「繭につつまれた感じ」が生じると伸べている。そして、筆者とのある対話のなかでは、この「繭」が人間的な原理を超えたものに属する空間であることを示唆していた。」
・すぐそばにある異界
*「哲学者にして歴史学者でもあるミシェル・フーコーは、あるラジオ講座において「ヘテロトピア」という風変わりな概念について語った。
ヘテロトピアはユートピアと関連する概念で、ひとことでいえば「現実にある異界」である。ユートピアが現実には存在していない理想世界であるのに対し、ヘテロトピアは「現実のなかにあるユートピア」ということもできる。
フーコーは、子どもたちはヘテロトピアをじつによく知っているといい、「庭の奥まった場所」「屋根裏部屋」などをあげている。」
「じつはヘテロトピアはどこにでも存在している。たとえば、若者たちのあいだではやっている「聖地めぐりなどもそうである。たんなる廃校舎であっても、アニメやドラマの舞台となったというだけでそこは「聖地」となる。
ただし、それが「聖地」となるのは物語を共有している人たちのあいだだけえ、そうでない人々にとっては相変わらず、たんなる廃校舎にすぎない。」
「単なる虚構や幻想として「異界」を切り捨てることは簡単であるが、ヘテロトピアという意味であれば、それはすぐそばに存在しているともいえる。精神疾患における「妄想」「幻覚」などもそうであるだろうし、「お客さん」も、夜みる夢もそうであろう。それらは日常の現実とは異なるもうひとつの現実であり、したがってそれらの世界は日常の現実性とは異なるもうひとつの現実性をそなえている。
「心」を取り戻したければ、まずはそこに足を踏み入れてみるとよいだろう。
「異界」はそぐそばにある。」
【目次】
序章 異界に分け入る
I 異界
第1章 症状を活かす
第2章 「憑きもの落とし」と当事者研究
第3章 「個人症候群」と異界
コラム1 向谷地生良とべてるの家
II 自然治癒過程
第4章 レインと「反精神医学」の試み
第5章 中井久夫と流動の臨床哲学
第6章 心の自然を取り戻す
コラム2 中井久夫の「寛解過程論」
III 精神のエコロジー
第7章 精神のエコロジーにむかって
第8章 精神、文化、自然
第9章 自然環境にむけてケアをひらく
コラム3 ラトゥールとガタリ
終章 すぐそばにある異界
○村澤和多里(むらさわ・わたり)
1970 年生まれ。
北海道大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(教育学)。
現在、札幌学院大学心理学部臨床心理学科教授。臨床心理士・公認心理師。
専門は児童・青年の臨床心理学。
著書に『ポストモラトリアム時代の若者たち』(共著、世界思想社)、
『ひきこもる心のケア』(共著、世界思想社)、
『中井久夫との対話』(真保呂との共著、河出書房新社)。
趣味は江戸川乱歩、廃墟。
○村澤真保呂(むらさわ・まほろ)
1968 年生まれ。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。
現在、龍谷大学社会学部教授。
専門は社会思想史。
著書に『中井久夫との対話』(和多里との共著、河出書房新社)、
『里山学講義』(共編著、晃洋書房)、
『都市を終わらせる』(ナカニシヤ出版)、
翻訳にシュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(共訳、河出書房新社)など。
趣味は登山、野菜づくり、電気工作など。
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