岩崎大「自覚なきアモータリズム/医療化する社会における死と善」(『見えない世界を可視化する「哲学地図」』所収)
☆mediopos-2329 2021.4.2
仏典に説かれた逸話がある
幼い子供を亡くし
その現実を受けとめられない母親が
釈尊に「生き返る薬をください」と訴えたが
それに対して釈尊は
「その薬を作るには芥子の実が必要です
ただし、その芥子の実は
今まで死者が出たことのない家から」
もらってくる必要があります」と答えた
母親はあちこち探しまわったものの得ることができず
無常を悟って出家し悟りを得たという
現代の即物主義的なニヒリズムの世界観のなかでは
上記の話の釈尊にあたるのが
科学やテクノロジーを背景にした医療システムなのだろう
しかしそこにあるのは無常を悟るのとは対極にある
「自覚なきアモータリズム」である
かつてのギリシアの哲学者が説いたように
「善く生きる」というための知恵を得ようとするのではなく
「神なきニヒリズムの時代に、人間に「べき」を語るのは、
肉体からの根源的欲求と、その増幅装置としての
テクノロジーや経済ばかり」なのだ
最近はよく「いのちを守る」ということが
メディアでも画一的なフレーズとしてよく使われる
もちろんじぶんの「いのち」もふくめて
「目の前の命を救う」ということは最優先事項ではあるが
その「いのち」はきわめて即物的な「いのち」でしかない
そこには「いのちとは何か」という問いは存在しない
こうした現代の即物的な世界観のなかでは
むしろこういう問いを投げかける必要があるのかもしれない
あなたがずっと死なないでいる
ということを想像してください
しかもずっと老いないままでいられると
そしてそのあなたの死なない世界のずっとずっと未来で
あなたがなにをしたいかを教えてください
死なない世界のなかでは
小さな欲望はすぐに意味を持たなくなってくるだろう
お金や権力や評価はそのとき意味を持ち得ているだろうか
「いのちとは何か」
その問いは即物的な生命観を超えて
はるかな霊性のもとで問われる必要があるだろう
かつての信仰的なありようのなかの「悟り」でもなく
信仰をこえた宇宙的な世界観のなかでの叡智への道として
■岩崎大「自覚なきアモータリズム/医療化する社会における死と善」
(河本英夫・稲垣諭 編著
『見えない世界を可視化する「哲学地図」/「ポスト真実」時代を読み解く10章』
学芸みらい社 2021.4 所収)
「世界の潮流を可視化するために本論が鍵とするのは、「目の前の命を救う」という素朴な信仰である。人の命を救うことの善性は、「汝、殺すなかれ」という戒律と同様、論理的、法的な意義を問う以前に直感的に容認される道徳判断と言えるだろう。いかなる社会においても、目の前の命を救うことは善いことであり、称賛すべきことだとい価値観は共有されるだろうし、人権ないし生存権、あるいは基本的自由といった概念にもそれが表れている。ただしこの行為があらゆる状況下でも肯定される普遍性をもつとは断定できないことは留意しておこう。人権は近代以降の概念であるし、戦時中の敵兵や死刑囚は殺すべき存在とされ、アガンベンが呼ぶところの「ホモ・サケル」に対する例外事象は歴史上常に存在していることもたしかである。」
「「目の前の命を救う」という素朴な善の担い手である医療従事者は、本人の意思にかかわらず、救われた人間やその周囲の人間にとっては「命の恩人」であり、感謝と敬愛の対象となる。とりわけ医師は、この善行の主たる担い手として、その職業自体が社会的評価を得ている。
非営利団体として世界中の緊急性の高い医療ニーズに応える「国境なき医師団」は、医療がもたらす善の象徴とも言える。使命感をもって目の前の命を救うこの行為は、他言を寄せ付けない圧倒的な善性を有している。そして、医療従事者でない人間であっても、寄付というかたちでこの善行に参加することもできる。医療を通して命を救う善行は誰にでも可能なのだ。」
「医療化(medicalizatiom)」とは、医療技術の高度化に伴い、それまで医療が扱っていなかった事物が医療の対象となることを意味する。たとえば出産と死は、生物が幾度も繰り返してきた自然の出来事だが、現代において人間は病院で生まれて病院で死ぬのが通常となっている。なぜ誕生と死が医療化したのかといえば、目の前の命を救うためである。」
「医療技術の発展と医療化は、目の前の命を救うという素朴な善行の実現可能性と実現範囲を拡大させる。西洋由来の自然科学を基礎にした近代医療は、実際に数多くの命を救ってみせることで世界中に普及した。かつて共同体における治療者とは呪術者や宗教家を意味していたが、異文化からやってきた白衣の医師は、比類ない技術と実績にによって伝統的な世界観や宗教観に基づく治療者たちを圧倒していった。その結果、文化の垣根を越えて世界中に病院が設置され、「命の恩人」である医師に対する感謝と尊敬、そして権威も増大していくことになった。」
「イヴァン・イリッチは医原病(iatrogenesis)という概念を用いて、西洋医学は健康を促進するどころか、世界中に病理をもたらす原因になっていると辛辣に批判する。医学的判断による統制は、これまで社会のなかで許容されていた、肥満、ボケ老人、街の変人などを、メタボリック症候群、認知症、統合失調症などといった病や病の予備群に分類し、治すべき者とする。これは、健康のための介入であると同時に、新しい病気を増やして治療するという自作自演とも言える。
イリッチは、新しい病を自己形成してまき散らしている西洋医学による統制と価値観の画一化を、文化的植民、道徳的退廃、魔術的破壊、宗教的障害と表現して攻撃する。医療技術が発展したことで、意識のない状態での延命治療や、自立生活のできる健康寿命と平均寿命との乖離、家族のことも思い出せない認知症という「残酷な病」が蔓延し、社会問題化したことから、医療は目の前の命を救うことで人間から尊厳を奪ったと見ることもできるのだ。
さらには、医療の高度化と拡大が、多額の医療費と福祉制度を必要とする高齢化社会をもたらし、社会的、経済的な負担をもたらしていると指摘することもできる。だが、イリッチが最も問題視していたのは、生と死に対する個人の自律的な判断が、医療システムによる専門化、技術化した判断に代替される点である。文明批評家として、医療に限らず、教育や交通などにも一貫する問題としてイリッチが主張するのは、合理的なシステムに管理されることで、個人が文化的、哲学的に自律して思考する可能性が奪われてしまうことへの危惧である。身体も生活も価値観もすべて技術やシステムで管理され、自分の生き方や死に方について自分で考える必要がない。このような状態は、健全・健康ではないということだ。」
「誕生や死と同様、老いも生物の自然のプロセスである。しかし、老化は重篤な疾病に罹患する可能性を飛躍的に向上させる「万病の病」でもある。それゆえ、素朴な善の遂行のために、アンチエイジングに関わるテクノロジーや商品、ライフスタイルによる長寿化や健康寿命の増加が推奨されることになる。現代社会は、老いや病や死を遠ざけることをよしとしている。ただし、病はともかく、老いや死は、生物の自然のプロセスとして需要されてはいる。すなわち、病のない人生は望んでも、秦の始皇帝のように不老不死を望むことはないし、むしろそれを否定さえする。これは、目の前の老いと死を避けつつ、将来の老いと死を需要するという矛盾にも見えるが、加齢を伴うさまざまな体験や環境が、徐々に拒絶を需要へと変化させていくと考えることもできる。しかし、そうした個人的な生の感覚や意識の変容とは異なる位相で、「目の前の命と社会全体の健康」に寄与するためのテクノロジーは急速な進展を続けていく。
テクノロジーの進展の担い手のなかには、予防や健康増進の終着点として、明確に不老不死を目的とする者もいる。しかもしれは、フランケンシュタイン博士のようなマッドサイエンティストではなく、大学の研究機関や政府系機関、グーグルなどの巨大企業であり、経済的利益さえ見込んでいる。
「アモータルを明確に意識して活動している人々の動機は、「死にたくない」、「いつまでも健康で美しくいたい」という素朴な感情や、「大切な人を失いたくない。「死の苦しみや悲しみのない平和な世界をつくりたい」といった素朴な善意からきている。そしてこのようなアモータリズムの行動原理は、医療従事者と何も変わらない。」
「現代人は無自覚に、死に抗うための情報や行動に関心をもつ。それらを提供するのは科学や技術であり、資本主義はその関心を消費欲求に変換し、その推進力が新たなテクノロジーと欲求をつくりだす。アモータリズムは根源的欲求の延長であるがゆえに、市場に無尽蔵の消費をもたらす。誰もアモータリズムを意識することがないままであっても、歴史はアモータルに突き進んでいる。」
「神なきニヒリズムの時代に、人間に「べき」を語るのは、肉体からの根源的欲求と、その増幅装置としてのテクノロジーや経済ばかりである。神による死後の物語に代わり、医療化した社会は、死や老いは克服すべき病理であると宣言する。ニヒリズムはアモータリズムを必然に導く。こうした世界にあるのは、多様性のなかでも共有しうるような、極めて素朴で凡庸な善と悪である。この素朴な善悪の上に今なお存在している文化や個人に共通の善悪は、動かし難く展開してゆく多様性とテクノロジーによってやがて霧消するだろう。
ただし、生命には限界がある。無論、それは死にゆく運命(mortality)のことではない。アモータルには完成があるということだ。すなわち目の前の命と社会全体の健康を確保すること、あるいは人間のもつ能力を発揮することには、上限がある。アモータルへの漸進的なプロセスは、その推進力である根源的欲求が慢性的に満たされたときに停止する。そのときに人間は何を求めるのか。あるいはそのとき人間は人間であり続けるのか。今世紀中に訪れるであろうそのときこそ、ニーチェが予言した、肉体と大地に忠実に生きた人間に到来する、徹底したニヒリズムなのかもしれない。」