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片渕美穂子『気ながれる身体の考古学―近世日本における養生』/西平直『養生の思想』

☆mediopos3528  2024.7.15

現代ではあたりまえのように使われている
「健康」という言葉が頻繁に使われるようになったのは
明治十三年(一八八〇)前後のこと
それ以前の近世日本では
「養生」という言葉が多く使われていた

片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』は
副題に「近世日本における養生」とあるように

日本における身体観の「中世と近世における大きな相違、
近代とそれ以前における大きな相違」をふまえながら

「近世日本の養生論における身体は、
どのようにして語りうるものとなっているのか」
「養生論を可能にしている身体の捉え方とはいかなるものか」
という問題意識から
「養生論を可能にする身体の認識論的な布置を描き出す」試みである

身体の思想において日本の歴史は
「江戸以前と、それ以降」に「画然と二つに分かれる」という

「乱世」である中世は「身体の時代」「個人の時代」であり
近世になり主に武士階級において
身体はその動作が形式化され
心によって統御されるようになり
(養老孟司『日本人の身体観の歴史』)

さらに近代になると
その身体は「計測され、記録される身体、
まさにその尺度にのっとって訓練され、調教される身体、
・・・・・・近代医学の視線にさらされた身体」となる
(三浦雅士『身体の零度』)
現代の身体観である

さて「ためし斬りや子殺しや子捨てが常体化した状態から
それを否定する心性への変容」が起こったのは
十七世紀末(元禄期)のこと

「幕府の禁令を通じて捨子や子殺しを罪とする感覚が人々に醸成され」
「身体の自然性の隠蔽」つまり
「死体が差し示す自らの生と死、
自らの存在が自然性の中にあることへの嫌悪」が進行していく

それが「当初は武士階級に、そして都市の富裕な者、
さらにそれ以外の者、そして地方へと広がって」いった

「乱世」の十六世紀において
養生の知や技術を学んでいたのは医家や戦国武将であり
やがて江戸の泰平の世となってからは
「かつての戦国武将たちは自らを道徳者たるべく位置づけ」
「人を殺す術の代わりに、所作と威厳、
そして他の階級との差異化によってその存在を示した」のである

代表的な養生書である貝原益軒『養生訓』で説かれているように
近世日本の養生論における養生法は
「気を身体に滞りなくめぐらすこと」だが

「啓蒙的な医療情報を内容とするだけではなく、
十七世紀後半以降、身の処し方を説く
日常実践道徳としても展開され」ている

その「養生論」は
「社会性において捉えられる身体を語り、
身体の社会性を強める機能をもっていた」のである

さらに「血縁によってつながる家筋・家系という家観念、
ジェンダー、身分といった社会性、経済システム、
自然環境、地理的環境、そして物理的な意味での家、
あらゆるものと通じる」
「様々な関係性を結ばせる結節点」として説かれていた・・・

さて貝原益軒『養生訓』をはじめとした
「養生の思想」については
西平直『養生の思想』を
mediopos-2367(2021.5.10)でとりあげている

『養生訓』は往々にして
儒家的な修養(道徳形成)を重視するところがあるが
「養生」は道家的にいえば養生(不老不死)をつうじ
「気」と「徳」を養うということでもある

現代のように「近代医学の視線にさらされた身体」において
「養生」はなおざりにされがちだが
その教条的な道徳性を外した「養生」は
「自ら「癒ゆる力(自然治癒力)」を育て」
「自分で自分をケアする(労る・休ませる・養う)」
ということにほかならない

近代医学では問題にされないが
ホリスティック医学的な「気」のエネルギーを円滑にするような
「エピステーメー(存在・認識論)」に根差している

以上のように
身体観について
「養生」という視点を通じ
中世から近世へ
近世から近代へそして現代へ
その変化を観ながら

私たちの得てきたもの
そして失ってきたものについてふりかえりながら
現代的な観点から見直してみることは

みずからの「養生」のありようについて
あらたな知恵を得ることにもつながるのではないか

■片渕美穂子『気ながれる身体の考古学―近世日本における養生』(晃洋書房 2023/3)
■西平直『養生の思想』(春秋社 2021.3)

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「序 章/研究の背景」より)

*「北澤(一利『「健康」の日本史』)によれば、日本において今日のように「健康」という言葉が頻繁に使用されるようになったのは、明治十三年(一八八〇)前後だという。有名な近世日本の代表的養生書である貝原益軒『養生訓』(正徳三/一七一三)には「健康」という用語は登場してこない。近世日本で使用されていたのは「養生」という用語である。「養性(ようせい)」や「衛生」の言葉も存在していたが、それらは「養生」ほど頻繁に用いられていない。養生は極東文化圏に特有の文化概念であるとされる。」

*「日本における身体観に関しては、中世と近世における大きな相違、近代とそれ以前における大きな相違は指摘されてきた。養老孟司は、中世と近世との「身体の思想」の違いについて次のように述べる。「身体の思想から見るかぎり、この国の歴史は画然と二つに分かれる。江戸以前と、それ以降と、である」(『日本人の身体観の歴史』)。養老によれば中世は「乱世」であり、その乱世とは「身体の時代」「個人の時代」であり、近世は身体の動作の形式化され、身体は心によって統御された時代であるという。中世において養生書が僅かしか出されていないのは、この「乱世」によるところが大きいはずである。近世におけるその身体の統御をもっとも課されたのが武士階級であり、作法、礼儀、日常の行為、所作に従うべき型が求められた。他方、近代日本において身体観、身体感覚が大きく変容したことは、養老の他、特に一九九〇年代以降歴史的テーマを扱う研究において様々に明らかにされてきた。三浦雅士の整理に従うならば、近代の身体とは「計測され、記録される身体、まさにその尺度にのっとって訓練され、調教される身体、・・・・・・近代医学の視線にさらされた身体、いってしまえば、物理的身体」である(『身体の零度』)。」

「養生における身体に関連する近代と近世との大きな違いのひとつは、身体像である。例えば、下腹部が大きく丸みを帯びたいわゆる太鼓腹を理想とする身体像が近代日本において変容していく過程を、田中聡が近代日本の健康法や強健術から描き出したよういん、理想とされる身体像も歴史的に相違する。おそらくは近世日本の養生論は、以上のような流れの中にある。つまり身体観に関して、近世日本の養生論は近代以降継続されることはなく、解剖学、生理学の知を基盤とする衛生論に換えられていく。それはまた身体観の変化を伴ってもいた。近代日本の医療、教育制度、さらに衛生論や健康本などの言説における「身体の近代化」の諸相が、体育・スポーツ史、歴史学、教育史などにおいて明らかにされている。近世養生論は、中世、近世、近代の歴史的な身体観の変容の中にあろう。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「序 章/二 本書の目的」より)

*「本書の目的は(・・・)、近世日本の養生論における身体は、どのようにして語りうるものとなっているのかである。養生論を可能にしている身体の捉え方とはいかなるものか。この問題意識から本書は、近世日本における養生に関して語られたもの、描かれたものを養生論として、その養生論を可能にする身体の認識論的な布置を描き出すことが本書の目的である。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第一章 近世養生論の誕生/二 養生の社会的位置づけ」より)

*「十八世紀以降、養生は武士を中心としながらも、他の階層にもその知が広がることは望まれた。しかし、十六世紀後半から十七世紀前半においては、養生を知る者は、医家たちと戦国の武士たちに限定されており、他の人々に広まらなかったのは、生を至高の価値とし、安寧な生活と長寿を願い、養生することを日常の実践道徳とする考えが未だなかったからである。それは、戦国の武士たちに求められた生き方にも関わってくる問題であった。」

「本章の考察の対象の時期である十六世紀後半から十七世紀前半においては、生命の略奪の行為に対する倫理的なもしくは規範的な拒絶感は、それ以降に比較するならば強くなかっら。バラバラにした死体をつなぎ合わせ、繰り返し試し斬りに用いること、『昔々物語』が述べていたよな使用人に対する哀れみの感情の欠如、こうしたことが以降の時代と比較するならば相対的に受け入れ可能な社会であった。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第一章 近世養生論の誕生/三 身体の自然性の忌避と養生」より)

*「動物から人間を分かつものの一つとして、死における自然性への、生のもつおぞましさへの感覚の存在があるため、いかなる社会であれ死体に対する嫌悪やその腐敗のもつ暴力性が生じることなく、死体が置かれるということはないであろう。ただし、死体に対する嫌悪感の強弱の違いはあろう。日本の場合、十七世紀初めから中頃までの間にこの感覚が大きく変容した。ためし斬りや子殺しや子捨てが常体化した状態からそれを否定する心性への変容である。死体を(さらにいえば身体の自然性を)できれば関わりたくないもの、できれば存在しないかのように扱うようになった、それが十七世紀後半であった。」

*「幕府の禁令を通じて捨子や子殺しを罪とする感覚が人々に醸成されたのは、十七世紀末(元禄期)である。江戸という都市における身体の自然性の隠蔽は、特に十七世紀に進行していったのであろう。身体の自然性の隠蔽とは、死体の忌避であり、死体が差し示す自らの生と死、自らの存在が自然性の中にあることへの嫌悪である。近世日本の養生論が多く出版されるのは十七世紀中頃以降であり、身体の自然性がないものとして、そうみなすことになった時期と一致している。養生論における身体が、その自然性を問わず成立していることは、養生が都市生活を背景にしていることとも符号する。」

「近世養生論は、当初は武士階級に、そして都市の富裕な者、さらにそれ以外の者、そして地方へと広がっていく。おそらくこの順番は、身体の自然性から遠ざかった順番であろう。十六世紀、養生の知や技術を学んでいたものは、医家でありさらに戦国武将であった。戦国武将たちは、うち続く戦乱の中での体調管理、怪我や病気の対処法として、養生の知や技術を学んでいった。やがて泰平の世が訪れる時、かつての戦国武将たちは自らを道徳者たるべく位置づけた。そして、彼らがふるっていた人を殺す術の代わりに、所作と威厳、そして他の階級との差異化によってその存在を示した。」

*「徳川幕府によってもたらされた新秩序は、身体レベルの問題でもあった。こうした形式化された立居振舞、声の出し方、儀式化された作法などは、身体の自然性を徹底的に存在しないかのようにすることであった。これらの所作の獲得と日常道徳としての養生の実践とは、身体の自然性の消去という点において同一なのであった。」

「近世日本の養生において語られる身と生は道徳の対象として。その安寧をはかることが求められる。そこでは身という言葉がよく登場するが、この身は社会的関係の中で編み出された身体のありようを指す。死体において露わになる身体の自然性あるいは暴力性が存在しないもののようにみなされた後に成立しうるのが、身なのである。そして養生という身体の配慮の技術は、身体を社会的関係性の中に捉えうる身とし、またその意味に価値的観念を含む天地から受けたものとして生を措定し、それらを日常的実践道徳の対象とすることによって、身体の自然性を弱めていく。身体を社会的関係性の中に捉えうる身とし道徳の対象とすることは、身体が心の支配を受けうるということでもある。貝原益軒『養生訓』が「心は身の主也。しづかにして安からしむべし。身は心のやつこ(奴)なり。うごかして労せしむべし。」というように、心の支配を受ける身という捉え方が養生論において強められていく。」

「時代が下って自然哲学者である三浦梅園による『養生訓』(安永七/一七七八)は「夫人の身軆髪膚は、父母にうけたり、全うして返すは孝の道なり、君が一日の恩を感じ、我百年の身を獻ずるは、臣たる者の義なり」と述べ、十九世紀前半の『長命衛生論』もまた「天地の間に人より霊なるはなし人を貴として父母の遺軆なれば我からだを賓のごとく思へとなり」としている。死体という自然性の排除、死に至らしめる暴力的行為への禁忌は、生や身体を価値づける言説、身体を道徳の対象として統御しようとする言説を登場させた。身体へ配慮を日常の実践道徳と捉え、安寧な生活と長寿を願う養生論は、身体の自然性を排除しようとする十七世紀後半以降の時代に相応しかったのである。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第二章 気めぐる身体」より)

*「近世日本の養生論における養生法を一言でいうならば、「気を身体に滞りなくめぐらすこと」である。近世養生論の死体を論じるにあたって不可欠な概念が気である。代表的な養生書である貝原益軒『養生訓』(正徳三/一七一三)には、「養生の害二あり。元気をへらす[こと、その]一なり。元気を滞らしむる[こと、その]二也」と記述されているように、身体に気が十分にめぐっていることが、養生の目指すところであった。気は中国思想の伝統的な宇宙論における基層概念であるが、非常に大まかに言ってしまうと、それは宇宙万物を生成する物質であると同時にエネルギーでもある。陰陽五行の気の運行に関する気の理論は、東洋医学の基礎ともなっている。天地万物を生成する気であるため。身体もまた気によって生み出されていることになる。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第三章 慾と身体の秩序化」より)

*「養生は身体内に気を満ちさせめぐらすことを目指すが、気を減少させる慾、気のめぐりを妨げる慾、そして自己抑制の対象としての慾は、十八世紀前半を境として頻繁に語られるようになったものである。特に貝原益軒『養生訓』に顕著であるが、それは近世における経済的進展を反映した慾への対応が養生に求められ、慾と気が関連づけられて語られ始めたということである。近世養生論は、啓蒙的な医療情報を内容とするだけではなく、十七世紀後半以降、身の処し方を説く日常実践道徳としても展開されている。慾を孕む身体が見出されたことは、慾を統御すべく身体の秩序化をもたらすことになった。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第四章 養われる身体―─女、子ども、そして老人――」より)

*「近世の養生書は基本的には、男性武士を読者として記述されたものであり、それが十七世紀後半以降、男性武士のみではなく社会階級を縦断し町人や農民、さらには女、子ども、そして老人が養生の対象として語られるようになる。また出版業の進展の中で、寛文(一六六一ー一六七三)の頃より赤本と呼ばれる女、子ども向けの書物も出版され始める。養生書の読者である男性武士が自らに対して養生の術を行うだけではなく、女、子ども、そして親である老人を養生の視点で捉えることになるのである。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第六章 中心と根源としての丹田」より)

*「伝統的な日本の身体技法においては、丹田は単に下腹部という肉体の特定の箇所を示すものではなく、技芸における要所、精神性の根源、気というエネルギーの湧出する源であり、修練を積むことによりその力が高められるものとして捉えられている。こうした捉え方は、近世後期の養生論において比較的とく登場してくる。時間的な流れをいうと、十七世紀の養生論にはそのような記述はないが、十八世紀前半の益軒『養生訓』(正徳三/一七一三)において丹田の重要性が提示され、その後白隠の著作によっても丹田が重要視される。そして十九世紀に入ると平野重誠の養生論に代表されるように、丹田に生命の根源や身心の中心が見出されるに至る。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「第七章 養生論における体内観と解剖」より)

*「十八世紀後半の杉田玄白『解体新書』(安永三/一七七四)の出版は医学界に大きな衝撃を与えたが、その知は養生論においては直接的には導入されなかった。養生論における解剖学の受容のあり方から、身体がいかに見えるものであり、いかに言いうるものなのか、という問題を説くことができると思われる。」

**(片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』〜「結 章/二 結論」より)

*「一、まず、身体は社会性の中に捉えられる(・・・)。養生論は、社会性において捉えられる身体を語り、身体の社会性を強める機能をもっていた。社会性とは関係のない身体(例えば、生理学が把握するような)は、語りえないもの、見えないものであった。養生はその字義通りに捉えるならば、「生を養うこと」であり、生を安定的に維持しようとすることである。養生は生を引き延ばし、その引き延ばされた時間と空間において身心が安定的であるよう導くことを目指すものであった。近世養生論において語られる生は、計測され比較され、要素に還元されるようなものではない。その生も社会性という網の中に捉えられる。つまり、天地父母の関係における生、忠孝との関係における生、愛情を受け養育されるべき家の存続を宅される子どもの生、家の存続につながる子どもを産む女の生、そしてその生が終わりに近く。かつ家長の配慮を受ける老人の生である。」

*「二、次に、身体は自然環境そして地理的環境の関係において捉えられる(・・・)。時間的な流れとしては、前者との関係において捉えられることは十八世紀以降弱まり、以降は後者との関係において捉えられることが多くなる。天地万物に流通しその聚散によって万物を構成する気が身体にめぐる、人は天地というマクロコスモスに対するミクロコスモスであるという捉え方は、天の気の運行、具体的には、天候や季節、方角、六十干支に従って養生の実践が求められることになっていた。これは近世日本に特有というよりは、伝統的に中国に存在した気の把握、さらにはそれが反映された中国古典の医学書、養生書を参考にして養生書が記述されればそのようなものとなる。近世においては、気の観念性が薄められ、農業、都市社会といった地理的空間に展開されていき、身体もそれらの関係において把握されるのである。逆に言えば、そうした関係を持たない身体は、言説化されにくい。」

*「三、そして、身体は様々な関係性を結ばせる結節点であった。(・・・)血縁によってつながる家筋・家系という家観念、ジェンダー、身分といった社会性、経済システム、自然環境、地理的環境、そして物理的な意味での家、あらゆるものと通じるものとなっていた。」

**(西平直『養生の思想』〜「はじめに」より)

*「養生は、医者から治療してもらうわけではない。自分で自分をケアする(労る・休ませる・養う)。しかし「鍛える」ことはしない。鍛える(トレーニング)というほど身心への負荷は強くない(この点は修行や稽古と異なる)。そこで「老いの知恵」と呼ばれることもある。養生は、病後の静養や老後の健康管理を含んだ柔らかな感触なのである。」

*「哲学者・三木清は『人生論ノート』の中で、健康は「各自のもの」と強調する。誰も他人の身代わりに健康になることはできない。誰かに自分の身代わりとして健康になってもらうこともできない。健康はまったく個人のものである。「すべての養生訓はそこから出立しなければらなない」。」

**(西平直『養生の思想』〜「第1章 養生は健康法か」より)

*「貝原益軒『養生訓』は日本の養生思想に大きな影響を残した。本書もそこを原点とする。そして何度もそこに立ち返る。しかし同時に、益軒のみが養生を説いたわけではないことを核にする。」

**(西平直『養生の思想』〜「おわりに」より)

*「養生とはどういうことか。
 一、養生は(今日の用語で言えば)「健康」を求めた実践である。欲望のままに生きるのではない。適度に自制し人生を楽しむ。健康に生きるための知恵であり習慣形成である。

 二、養生は医学と近接する。しかし治療ではない。治療してもらうのではなく、自ら「癒ゆる力(自然治癒力)」を育てる。自らの工夫によって身心のバランスを制御するセルフケアである。そして予防医学である。症状が出る前の「未病」に対処する。あるいは、「病後の静養」と語られる場合もある。

 三、養生は個人の努力を基本とする。病を悪霊の仕業と見る場合、神仏の加護が必要になる。それに対して、養生は、本人の努力によって予防する。あるいは、努力によって生の時間を延ばそうとする。養生は信仰ではない。」

「四、養生は「気」の思想と関連が深い。人の身体は、気を介して、宇宙や自然とつながっている。養生は、気を養うことであり、気の新陳代謝を促すことである。個人は、直接的に、宇宙や自然と結びつく。人間関係を軽視するわけではないが、組織や制度が中心ではない。養生が組織化されることは少ない。稽古のように「家元制度」を作ることもない。養生は、個人が直接に宇宙エネルギーを取り入れ、それと一体化しようとする。

 五、気の思想は世界をエネルギーと見る。気の新陳代謝とは、エネルギー交換であり、その流れを潤滑にすることである。今日のホリスティック医学は「エネルギー医学」という。それは、実体化された物質相互の関係ではなく、エネルギーの流れ(流体的変容)を見る。養生思想は、西洋近代(科学)とは異なる「エピステーメー(存在・認識論)」に根差している。

 六、しかし養生は世俗社会で実践される。確かに古代中国の「仙人」思想は世俗から離れる道を用意し、「文人文化」はそれを理想としたが、しかし多くの養生は世俗の内側で実践された。庶民の暮らしの中でこそ養生は必要とされる。そしてこの点が「修養」との重なりを複雑にしてきた。あるいは、「科学(西洋近代科学)」との関係を複雑にしてきた。養生それ自身の中に、世俗外の発想と世俗内の発想が併存していたのである。」

*「図式的に言えば、儒家は修養(道徳形成)を重視し、道家は養生(不老不死)を重視した。」

「儒家は修養を説いた。養生も語ったが、それは修養に近かった。」

「当然そうした発想は、近代ナショナリスムと親和的であった。」

「他方、道家の養生は、そうしたナショナリズムに馴染まない。道家にとって大切なのは、悠久なる自然のエネルギーと循環することである。国のために養生するのではない。身体の気と宇宙の気を連続させ、エネルギーを循環させる。しかし道徳と無関係ではない。「気」を養うことと「徳」を養うことは一体である。」

*「養生には道場がない。師匠もいない。道場に通わずとも日々の暮らしの中で務めることができる。「鍛える」というニュアンスは強くない。そこで「老年の健康法」と理解されることもあるのだが、もちろん老年期に限定されない。むしろ重要なのは、洋上のは「評価」が馴染まないという点である。そこには「段」や「級」がない。特別な「学派」もない。まして「家元制度」などとは無縁であって、伝授における「正統」を競うこともない。養生は初めから庶民向けであり「民生日用」なのである。」

*「もう一点、養生は信仰ではなかった。養生はこの身体をもった現世の生に留まる。死後の身体を気遣うとうこともなければ、清らかに死んでゆくという発想もない。養生は現世の社会生活に役立つ実用的な知(処世術)であろうとする。

 さらに、そこには「信じる・任せる」という発想がない。「感謝」も強調しない。ある種の「合理的」地平で、与えられたいのちを最大限生かそうとする。言い換えれば、養生は人生の困難を特別に意味づけることをしない。新宗教や修養思想のように人生の困難を「自らを磨く試練」として意味づけたりせずに、日々健やかに過ごそうとする。寝て・起きて・食べる。生命体としての土台を整えようとする。養生の発想は合理的で実用的である。

 しかし「出世」や「儲け話」とは違う。現世的・世俗的な有用性を重視するのだが、社会的成功を主たる目的としない。」

□片渕美穂子『気ながれる身体の考古学』目次

序 章
第一章 近世養生論の誕生
第二章 気めぐる身体
第三章 慾と身体の秩序化
第四章 養われる身体
     ―─女、子ども、そして老人――
第五章 喩えの身体
第六章 中心と根源としての丹田
第七章 養生論における体内観と解剖
結 章
補 遺 近世養生論における導引術及び調気法
     ―─その技法の整理─―

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