沼野雄司『現代音楽史』
☆mediopos-2305 2021.3.9
「現代音楽」という名で呼ばれている音楽は
シェーンベルクによって
調性を拡張させた音楽が作曲されたことに始まり
その後
「十二音技法、セリー音楽、偶然性、
ミュージック・コンクレート、電子音楽、
トーン・クラスター、特殊奏法」・・・といった
技法による音楽が次々と創作されるようになり
そしてさらに
一九六八年を象徴的な境として
音楽そのもの
そして音楽の進歩そのものを問うことへと
向かっているようだ
「現代音楽」は
いわゆるクラシック音楽の延長線上にある音楽だが
それは「古典派」や「ロマン派」といった名とは異なり
「現代」と形容されていることで
つねに「現代性」をそこに宿らせることが
要請され続ける宿命を負っているところがある
「現代」にはその背後に常に「過去」がある
そこで創作を行おうとすれば
「過去」にない音楽がそこで創られなければならない
そうでなければ「新しい音楽」にはなりえない
しかし「新しい音楽」を聴くためには
「新しい耳」が必要になる
そして「新しい耳」を持ち得る者は
ますます限られてくるために
「現代音楽」そのものが
聴衆不在の音楽ともなりかねないところがある
しかも音楽は楽「きわめて「保守的」な芸術ジャンル」で
時間性を前提にするがゆえに
ある音楽を聴くためにはそのための
膨大な時間と集中力が必要とされることになる
一九六八年以降になって
音楽の進歩そのものが問われるようになったのは
そうしたなかで「音楽とは」という
根源的な問いがつねに内包されながら
創作が行われるようになったということなのだろう
「現代音楽」とは裏腹に
大衆音楽の数々は現代において
過去にないほど夥しく「消費」されることになっている
その音楽を聴くためにもそれなりの時間は必要になるが
そこには根源的な意味での「新しい耳」は求められない
むしろ大衆の「耳」が「消費」できるのは
だれにでも受容可能な音だけなのだ
そこにある「新しさ」は
「現代音楽」の新しさとは対極にある新しさなのだから
「現代音楽」はこれからどこへと向かっていくのだろう
そして「大衆音楽」もまたどこに向かっていくのだろう
その両者がどこかでむすばれる可能性はあるのだろうか
根源的な問いである
「音楽とはなにか」という問いは
これからどこへと向かっていくのだろう
その問いはやがておそらく
「音楽」特有の在り方だけを問うものではなくなり
「音」という現象と「耳」
そしてさらに耳という器官を超えた感覚のあいだで
生成されてゆく知覚と認識の可能性の探究へと
向かっていくのではないか
「新しい音楽」がたんに
過去にない音楽ということではなく
だれの「耳」にとっても
その世界を拓き可能性を拡張することのできる
そんな音楽となりますように
■沼野雄司『現代音楽史/闘争しつづける芸術のゆくえ』(中公新書 2021.1)
「クラシック音楽といえば、バッハやベートーヴェンといった、既に何百年も前にこの世を去った作曲家の作品を、指揮者やピアニストが特別な技術を駆使して演奏する・・・・・・こうしたイメージを持つ方がほとんどだろう。しかし当然ながら、二十世紀に入っても膨大な数の作曲家たちが、それぞれに工夫を凝らしながら、新しい作品を世に送り出してきた。
一般に「現代音楽」という、やや奇妙な名で呼ばれているこの種の音楽は、普段、われわれがテレビなどで耳にする楽曲とは多くの点で異なっているから、いくぶん取っつきにくい部分もある。とはいえ、同じく「難解」であるはずの現代美術や建築、そして映画や文学などと比べた時に、現代音楽が十分に知られていないように見えるのはどうしたことだろうか。
視覚表現や身体表現、そして言語と比べた時、音というのは存在からして抽象的ではある。何をいわんとしているのかはもちろん、その作品がいったいどういう形をしているのかさえ、時として捉えることが困難だ。だから美術を楽しむのに特別な訓練は必要なくても、音楽に関しては、アマチュアの聴き手にさえある種の音楽能力が必要だと考えられている節がある。(・・・)
しかし、この抽象的な素材を用いた音楽というメディアは、むしろその抽象性ゆえに、まるで鏡のようにして二十世紀の社会や思想を映し出しているようにも筆者には思われる。この時代ならではの、さまざまな理想と現実をめぐる闘争や挫折が、小さな楽曲の中に封じ込められているように感じられるのだ。
現代音楽の歴史を追いながら、二十/二十一世紀という時代を逆照射すること、これが本書の主な狙いである。」
「音楽史における時代区分は、一般的には「新しい様式」の出現によってなされると考えられている。
たしかに、それまでにはないタイプの音楽が生まれなければ、あらたな時代区分を適用することは難しい。しかし、一方で重要なのは、作品に対する認識や受容が変化しなければ、その様式は呼吸を始めることができないという点だ。
すなわち、作曲家、演奏家、聴き手をとりまく状況が変化した時、その新しい様式は、新たな環境に適したかたちで「見いだされる」。鶏と卵のどちらが先か、という議論にも似ているのだが、外部と内部、コンテクストとテクストは軟体的に絡み合っており、双方の条件がそろった時にはじめて、あらたな時代区分が我々の前に相貌をあらわすのである。
」
「第二次大戦後から一九六〇年代にかけて、創作の世界は異様な熱気に包まれていた。
作曲家たちの眼の前には、十二音技法、セリー音楽、偶然性、ミュージック・コンクレート、電子音楽、トーン・クラスター、特殊奏法・・・・・・といった具合に、次々にこなすべき課題があらわれたから、これらの技術を掌中に収め、可能であればそれを乗り越えることが、新しい創作を担うものの義務となった。
この前衛期は、とりもなおさず世界の作曲家たちが「大きな物語」を共有していた最後の時代といえる。全員が同じ問題について語ることが可能であり、そして誰もがーーーー反対にせよ賛成にせよーーーーそれに対する意見を表明しなければならなかった。
しかし、こうした様相はおよそ一九六八年という地点をひとつの象徴にして変化をし始める。見方によっては、この断層は第一次大戦、第二次大戦よりもはるかに大きい。というのも「貴族社会の終焉」や「ナチスからの解放」といった外的な要因によるものではなく、音楽の進歩それ自体を疑うという、内在的かつ本質的な問いに基礎づけられているからである。音楽は進歩し得るのかという問いはそのまま、新しさに大きな価値を置いている「現代音楽」の存立基盤を揺るがすものでもあった。」
「元来、音楽はきわめて「保守的」な芸術ジャンルであり、研究や批評の側にもその性格は否応なく降りかかってくる。ごく単純な話をすれば、ピカソの作風の変遷を一日で摑むことは(画集を眺めれば)一応は可能だが、ストラヴィンスキーについて知ろうとするならば、主要作品を一通りCDで聴くだけでも膨大な時間と集中力を必要とする。また、録音がなかったり、個々の作品の細部について語ろうとしたりする場合のは「楽譜を読む」という、それなりの訓練が必要な作業も必要になるから、美術や文学に比べた時に本格的な批評が乏しいのは致し方ない面もある。
しかしそれでも、音楽という現象を、他のさまざまな芸術との連関や、歴史、思想、社会理論といった多面的な角度から探り、作品をより大きな脈絡の中に位置づける作業はどうしても必要だ。すぐれた音楽作品が同時に批評としての機能を果たすように、新しい視点をもたらす批評もまて、ひとつの創作として音楽史という生きた波の中に放り込まれることになるだろう。」