山内 志朗『感じるスコラ哲学』/『天使の記号学』
☆mediopos2782 2022.6.30
わたしが
わたしとして
生きているということは
感じることからはじまる
仏陀はわたしたちのまえにひろがる世界を
十八界で表現している
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根
その対象となる色・声・香・味・触・法の六境
六根が六境を認識する
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識
という感覚器官とその対象と認識の十八の界である
逆にいえば
感覚器官の働きがなければ
その対象を認識することができない
感じることができなければ
世界はひらかれないのである
感じることができてはじめて
世界が現実化されるといってもいい
「概念は現実化することがなくても成り立」つけれど
「個体性は概念として存在するだけでは」成り立たない
「個体的概念が神の知性の中にあっても、
個体がこの世界に素材するという出来事は成立」しない
「個体ということは、肉体において担う者が存在し、
その者が演じ遂行してこそ、成就する」のである
あたりまえのようなことだけれど
わたしが
わたしとして
からだをもって生きているということは
そのことから始まる
感覚は人を堕落させ誤らせもするが
「からだ」をもって感覚することなくして
人は「私」として生きることはできない
キリスト・イエスは
人の子として生まれたといわれるが
神的存在が体をもって感覚することで
人としての「私」として生きた
そのことそのものがエポックだったのである
「私」をからだや感覚から離れた実体として
とらえることもできるだろうが
こうして生きている「私」は
感覚器官とその対象と認識の十八の界のなかにあって
「同一性を保ちつづけ、反復されつづけ」る
「ハビトゥス」としてとらえることができる
そしてその「ハビトゥス」としての「私」を
「感じること」のなかで
どのようにみずから導いていくか
つまり十八界をどのように豊かにしていくか
それが生きているということの意味でもある
感覚をあまりに鋭敏にさせることは
病にもつながることがあるが
感覚をあまりに発達させず貧しいものにすることは
世界をそのぶん小さく閉じてしまうことになる
超感覚的な世界にしても
そのもとになるのは感覚世界であり
その感覚世界を広げるのは「私」である
「私」が「私」を越えるためにも
感じることを疎かにすることはできない
■山内 志朗『感じるスコラ哲学/存在と神を味わった中世』
(慶應義塾大学出版会 2016/5)
■山内 志朗『天使の記号学』
(双書・現代の哲学 岩波書店 2001/2)
(『感じるスコラ哲学』〜「前書き」より)
「「感じること」、あまりにも身近で、中世であれ現代であれ、東洋であれ西洋であれ、共通する次元は、普遍性の次元です。イエスの感じていた痛みと、中世人が感じていた痛みと、現代人が感じている痛みは、同じではないでしょうか。嫌みや感覚の次元に宿る普遍性、共通性は、無媒介的であり、ありのままのむき出しの次元であり、そのままで中世のスコラ哲学の真相が込められるとは言えないにしても、そこに向かう心性にはどうしても、中世スコラ哲学の呼びかけを聞かずにはいられないのです。
近世の神学者マルブランシュ(一六三八−一七一五)は、「感覚の恩寵」という考えを述べました。それは経絡主義の現れではなく、感覚を通すのでなければ、外部からであれ内部からであれ自己の内なる根底からであれ、心に入り込むことはありませんし、そして心に定着することもないのです。感じることはとても難しいことです。私はそう思います。砂糖の甘さが感じられるときも無限の距離が跳び越えられているように思うのです。感じるとは、何もない平原に一条の光が天から射し込むことに似ています。
当たり前の小さなことを一歩で跨いでしまうこともできます。その程度のものかもしれませんが、しかし同時に、感覚とはハビトゥス(「習慣、習態」とも訳されます)への前奏曲なのです。
感じることは、小さな声で呼びかけます。感覚は、快楽、悦楽、感応への入口として、非難の眼差しを向けられてきました。官能のために堕落し没落していった者はいつの時代にも数え切れません。人間の誠心をそれだけ虜にするものはとても危険なものです。しかし、危険の住まうところに救う力が育つのであれば、没落への機縁であると同時に救済する力を宿してはいないのでしょうか。高貴なものが身をやつして、卑しい姿で現れるものであれば、感覚に崇高なものが宿っていないことはありえないはずです。
なぜキリストは肉体を持つような仕方でこの世に現れねばならなかったのでしょうか。なぜ十字架で苦しむ必要があったのだろうか。人間としての現れであって、わざわざ人間としての肉体を持つ必要はなかったのではないか。
概念は現実化することがなくても成り立っています。命題が真理として成り立つために、充足する個体や事例が存在しなくても構いません。しかし概念を担う肉体がなければ成就しない事柄もあります。個体性は概念として存在するだけでは充足されることはありません。個体的概念が神の知性の中にあっても、個体がこの世界に素材するという出来事は成立していません。この世界に登場しなければ、感覚も痛みも経験する必要はないはずです。ところが個体ということは、肉体において担う者が存在し、その者が演じ遂行してこそ、成就するものです。世界や宇宙や個体の一回性の意味はそこにあります。個体の存在には感覚が随伴する、と思います。「随伴」とは、本質的契機としてかならずあるわけではないとしても、常に伴って存在しているものです。この感覚の随伴性=偶有性を問うことがこの本の課題なのです。」
(『感じるスコラ哲学』〜「第五章 ハビトゥスの形而上学」より)
「中世哲学を考える場合、私はハビトゥスこそ中心に来ると考えています。ハビトゥスの基体として身体が不可欠であり、その論点を探るために『天使の記号学』を書いたことがあります。
ハビトゥスに注目した人物としては社会学者のピエール・ブルデューもいました。もう少し遡るとプラグマティズムの元祖として有名なチャールズ・サンダー・パースもそうです。彼は中世スコラ哲学を熱心に研究した人です。当時、彼の中世哲学、特にドゥンス・スコトゥスのリアリズム(実在論)への傾斜は理解されませんでしたが、時代を先駆けたというよりも、遅く生まれてきた中世人として彼の思想は特異な光を放っています。彼は「哲学の用語は可能な限りスコラ哲学を模範にして作られるべきである」と言いました。そして、宇宙の全作用を一個の原理に還元したいという野心のもとで、それをハビトゥス(習慣)と捉えていました。一般法則と一般観念の形成、進化とハビトゥスを結びつけながら、ハビトゥス一元論を打ち立てたのです。私もハビトゥス一元論の立場なのですが、パースの思想は模範とすべき「普遍的ハビトゥス一元論(Panhexiologism)」というものになっています。
中世におけるハビトゥスは、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の枠組みを踏まえ、そこに信仰・希望・愛という神学的徳が加わり、多少込み入った枠組みにおいて展開されます。(…)重要なのは、感覚とハビトゥスがいかに関わっているのかということです。」
「ならい・習慣はラテン語でハビトゥス(habitus)と言います。ハビトゥスとは日本語で言う習慣よりも奥行きのある言葉で、身体や精神を座としてそこに根付き、消滅しがたく備わっている能力のことであり、行為を結果として直接生み出す基体なのです。
つまり、ハビトゥスとは、不動の同一性を有するとは言えないとしても、「己を持する(se habere)」ための能力と言うこともできます。ハビトゥスとは語源 habere (持つ)の受動分詞ではなく(この意味でのhabitusは「所有されたもの」ということで「衣服」の意味になります)、se habere という再帰動詞の受動分詞なのです。ハビトゥスとは、己を持する能力、したがって「己=身」を持することにつながる能力なのです。ということは、ハビトゥスこそ「人となり(個性)」を培う基盤になるのではないでしょうか。
(・・・)
「私」ということは、もしそれを霊的な実体として捉えたいのであれば話は別ですが、ハビトゥスであると言うことができるでしょう。反復学習によって沈殿し、表に現れつづけているもの、人となりとしてそこに常に現前化し、現実化しているもの、〈体〉によって覆われ隠されている「私」ではなくて、肉体を座としてそこに現在化し、安定した行動の「型」の中で、穏やかな同一性を保ちつづけ、反復されつづけるものが「私」であるとすれば、それが「ハビトゥス」の一種であることは当然のことでしょう。私は「私」とは、精神でも肉体でも脳でも関係でもなく、「ハビトゥス」であると考えたいのです。」