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小川 公代『ケアの倫理とエンパワメント』

☆mediopos-2485  2021.9.5

〈ケア〉とは一般に
世話や配慮・気配り・手入れ・
メンテナンスなどをすることを意味するが
もちろんたんなる物理的なありようではなく
内的なありようにも深くかかわってくる

そしてそこにあらわれてくるのは
自己と他者の関係性である

ここで鍵概念となるのは
「共感力をもつ自己像」を表す
ジョン・キーツの「ネガティヴ・ケイパビリティ」

それは
働きかけるものと働きかけられるもの
強き者と弱き者
自立する自己と依存する自己
といった二項対立としてとらえられた
自己と他者の関係性ではない

そこでは能動でも受動でもなく
いわば「中動」の状態における想像力が求められる
そしてそこでの「他者に開かれた」自己は
穴のない壁に覆われた「個」ではなく
「他孔的」な「個」でなければならない

ハンナ・アーレントはロベスピエールの
「他人とともに苦悩する同情の感情こそ徳であり善」で
「逆に利己主義こそ社会がもたらした悪徳であり悪である」
という「確信」に異議申し立てをしたが
そうした他者への一方的なベクトルをもった
「徳」「善」といった「正しい答え」を留保することが
「ケアの倫理」においては重要となる

それには現代において必ず問題にされる
「ジェンダー」「セクシュアリティ」「人種の多様性」
といったことも関わってくるが
そこで常に壁となってくるのは
「正しい答え」が一方的に出されていることだ

一方的に「正しい答え」には
「他者に開かれた」想像力が欠けている
そして「正しい答え」に対して
「少数派」という「正しい答え」で
応答してしまったりもする

「正しい答え」と「正しい答え」は相容れることはない
互いに穴のない壁に覆われたところから
攻撃しあうしかないからだ
その意味でも必要なのは
「ネガティヴ・ケイパビリティ」という共感力であり
壁に穴を開ける「他孔的」な「個」の想像力なのだろう

■小川 公代『ケアの倫理とエンパワメント』
 (講談社  2021/8)

「ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(John Keats.1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capabitilty)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capabitilty」とは、何かを達成する、あるいは何かを探求して結論に至ることのできる力を意味する・しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて保留することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。」
「キーツのネガティヴ・ケイパビリティにとって、想像力は他者との共感に至る道筋である。そして、このような〈ケア〉の営為には、あえて保留する力が必要である。」
「医師になるつもりでロンドンの病院に勤めていたキーツは、途中で詩人になった。患者の術後の経過を見守るとき、回復するかにみえる状態が次の日には悪化することもある。また、キーツは結核に罹患した母と弟を看護してもいた。病気や苦悩に寄り添いながら、その状況をじっと見守る営為と、物語を言葉で紡いでいく営為は地続きであっただろう。キーツにとって他者に開かれた「他孔的な自己」は、「感覚(sensation)と「想像力」(imagination)の働きに支えられていた。」

「他者に開かれたスピリチュアルな自己こそ、世俗の時代に求められる自己像であると論じているのは、カナダの宗教社会学者チャーズル・テイラー(Charles Taylor,1931-)である。(・・・)近代社会におけるリベラルな思想のもとで長いこと評価されてきたのは「緩衝材に覆われた自己」(buffered self)で、啓蒙期以降の多孔質でない「自立した個」の比喩としても用いられている。他方、「多孔な自己」は、より穏やかな輪郭を持つ、近代では稀薄になるつつある存在で、他者の内面に入り込むほどの想像力を有する自己像である。自他二元論が支配するような世界から一度切り離してみて、内的世界と外的世界とを行き来するようなスピリチュアルで他者への想像力が及ぶ自己について考えてみる価値はあるだろう。
 テイラーによれば、近代社会における自己を語る際に参考になるのが、四方八方を壁に覆われたような閉じられた「個」と、壁のない(壁があったとしても穴があいている)「多穴的な自己」という二つの対称的なイメージである。」

「「善」がなんであるかを狭い視野で決めつけること、それが過剰になり他者を抑圧するという暴力に発展しうること、これらが危険であると警鐘を鳴らしたアーレントの立場について、國分(國分功一郎『中動態の世界−−−−意志と責任の世界』)は明快に論じている。アーレントは、「他人とともに苦悩する同情の感情こそ徳であり善」で「逆に利己主義こそ社会がもたらした悪徳であり悪である」というロベスピエールの「確信」に根本的な異議を呈した。そして、『中動態の世界』で紹介されているアーレントによるメルヴィル『ビリー・バット』の読み解きにおいても、主人公ビリーの「過剰な善」がいかに暴力的であるかが示されている。受動と能動のあいだを表す〈中動態〉という概念は、「正しい答え」を保留しようとするキーツの〈ネガティヴ・ケイパビリティ〉とも響き合うのではないだろうか・
 ロマン派のサミュエル・テイラー・コウルリッジ(Samuel Taylor Coleridge,1772-2834)のお気に入りの比喩を用いるとすれば。ケアとは、「人の精神は羅針盤であり、外界のすべての本質的なものの法則や働きは、その針のぶれとして示される」、そういう心の状態をじっくり見極めることである。「ケアの倫理」は与えられたシチュエーションにおいて人間がいかなる葛藤を感じ、そこからどのように行動するかについて考えていく方法論である。」

「〈ケア〉こそが、他者を疎外し、犠牲にしてまでも、〝自立した個〟の重要性を掲げる近代社会が軽視してきた価値ではないか(・・・)。強さと弱さ、理性と共感、あるいは自立型の自己と依存型の自己のあいだに、いまだ言語化されない不可視のものを見出すことはできないだろうか。」

「本書は、キャロル・ギリガンが初めて提唱し、それを受け継いで、政治学、社会学、倫理学、臨床医学の研究者たちが数十年にわたって擁護してきた「ケアの倫理」について、文学研究者の立場から考察するという試みである。(・・・)この倫理は、これまでも人文学、とりわけ文学の領域で論じられてきた自己や主体のイメージ、あるいは自己と他者の関係性をどう捉えるかという問題に結びついている。より具体的には、「ネガティブ・ケイパビリティ」「カイロス的時間」「多孔的自己」といった潜在的にケアを孕む諸概念と深いところで通じている。これらの概念を結節点としながら、本書は、これらの概念を結束点としながら、海外文学、日本文学の分析を通して「ケアの倫理」をより多元的なものとして捉え返そうという試みた。そして、文学の豊かさのなかにケアの価値が見出され、あるいは見直されることを想望して書かれた。執筆過程で浮かび上がってきたんは、「ジェンダー」「セクシュアリティ」「人種の多様性」である。結果として、一般的にケアが結びついてきた「ケア労働」(=物理的なケア)というイメージを越えて、内面世界を包括する「ケア」(配慮、愛情、思いやり)というより広範な意味として流通してきた歴史を再認識できた。」
「「ケアの倫理が、近代の倫理理論のなかではあまり語られることのなかった異質な価値を提唱している」という品川哲彦の指摘を改めて強調したい(品川哲彦『正義と境を接するもの−−−−責任という原理とケアの原理)・・・』。近代社会にとって、あるいは資本主義社会にとって、「ケアの倫理」が〝異質〟だからこそ、今の行き詰まった社会の状況を変えていく原動力になると信じている。」

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