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河合俊雄 『心理療法における暴力の浄化とその危険/ユングの体験から』

☆mediopos-2374  2021.5.17

救済というのは
ユング心理学的にいえば
魂の統合ということに関わっている

心理療法を受けるか受けないかにかかわらず
ひとはみずからの魂の危機に対して
魂の浄化ともいえる統合へと至らなければ
その危機を乗り越えることができない
そしてなんらかのかたちで乗り越えられたとき
魂は救済に向かう

魂の危機はさまざまな次元で起こる

ユングには三つの精神的危機があったという
一つめは一二歳のとき
二つめは第一次大戦前
三つめは七〇歳前後の臨死体験のとき

子どもの頃の精神的危機は個人的なものだったが
あとのふたつは個人を超えたもので
第一次大戦前のときは
戦争による未曾有の死者が関係した「霊的暴力」
臨死体験のときは
第二次世界大戦に関係した
地球レベルでの「霊的暴力」である

「霊的暴力」というのは
霊的な次元のものが関係した
破壊/創造的な力といったほうが
理解しやすいかもしれない

「無意識」には個人的な次元のもののほかに
ユングが示唆しはじめた集合的な次元のものがあり
それは個人のレベルを超えて働きかけてくる

誤解を恐れずにいえば
魂の統合というのは霊的なカルマと関係している

シュタイナーのカルマ論によれば
カルマには個人意識において働くもののほかに
死から新たな誕生までに至る
より包括的な意識における個性意識で働くカルマや
共同体において働くカルマや人類のカルマ
高次存在に於けるカルマ・地球のカルマ
そして宇宙のカルマなどがある

それらのカルマが複合的に働きながら
魂のなかで働いていると考えると
ユングの精神的危機というのは
無意識の深いレベルで
人類のカルマや地球のカルマに
関わることで起こった
魂の錬金術的統合でもあったと思われる

ユングほどの魂の救済・統合ではないとしても
わたしたちの一人ひとりの魂も日々
さまざまな試練のもとで生きている
それは病にまで至らないとしても
その無意識がどのように働いているかによらず
魂のなかでは極めて個人的な課題から
地球レベルの課題までさまざまな影響下に置かれている

現在のコロナ禍での影響だけを考えても
個人的な魂の救済だけではとらえられない
「霊的暴力」でもあってそこには
人類レベルでのカルマが深く関わっているといえる

そのような問題にあたってどのようなかたちで
魂の錬金術的統合へと向かって歩むか
その問題は心理療法といったことではとらえられない
現代における神秘学的課題だといえるのかもしれない

■河合俊雄
 『心理療法における暴力の浄化とその危険/ユングの体験から』
(鎌田東二 編/身心変容シリーズ3
 『身心変容と医療/表現〜近代と伝統』
 日本能率協会マネジメントセンター 2021/3)所収

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「心理療法を自ら受けに訪れてきたり、あるいは誰かにリファーされてやってきたりするクライエントは、何らかの形で否定的なものを抱えている。それは学校や職場に行けていないことであったり、うつ状態や強迫症状であったりする。あるいは統合失調症を発症したり、重い身体的な病気になったり、時には東日本大震災のような災害や事故に遭ったりすることである。
 そのような問題は、当人には自分に襲いかかってきた計り知れない暴力として感じられるのではなかろうか。それらは時には自分の生活史や、自分の心理からある程度は理解できることがある。もちろんクライエント自身にはまったく気づかれていないことが多いけれども、心理療法を続けていくうちに、それが明らかになることがある。しかし思春期に急に統合失調症が発症したり、あるいは突然に膠原病などの自己免疫疾患に罹ったり、さらには自己や災害に遭遇したりした場合などは、まったくわけのわからない暴力に直面していることになる。その意味で心理療法が関わるクライエントは、まさに霊的暴力に直面しており、心理療法とは霊的な暴力の浄化に他ならないと言えよう。」

「ここで心理療法において直面するものを霊的暴力と名づけることに違和感を覚える人もいるかもしれない。確かに心理療法においては、信じられないくらい不運だったり不幸だったりする人生をおくってきた人に会うことがあるけれども、それを霊的暴力によるとしてよいものであろうか。それは単に生育環境が悪かったり、その人の生き方に問題があったり、あるいは運が悪かったりするためではないだろうか。
 現代の心理療法はあまり霊的暴力によるとは考えないであろうけれども、前近代の癒やしの技法では、霊的暴力によって人々が苦しめられたり、病気になったりするとみなされていた。たとえば絵平安時代の九州の太宰府に流され、失意のうちに亡くなった菅原道真の怨霊によって病気になったり、落雷に当たったりして亡くなったとされる人は、藤原時平をはじめとして歴史上枚挙にいとまがない。前近代の世界観では、悪霊や動物霊によって病気になるという考え方が広く受け入れられていて、それには現代の医学からすると身体の病もこころの病も含まれていた。これは近代の心理療法のようにこころを個人で閉じられたクローズドシステムと考えていずに、こころを他者、共同体、自然、それどころか死者も含んだオープンシステムとしみなしていたことによるのである。その意味で、こころの病と、霊的暴力は密接な関係があった。恨みや強い想いを残して亡くなった死者の霊が舞って、美的に成就されるのを諸国一見の僧が見守るという能は、まさに霊的暴力を浄化させるための仕組みであったと言えよう。
 それに対して現代の心理療法は、こころを個人の中に閉じてしまうことによって、さまざまなことを説明したり、対処の仕方を考えたりしようとする。誰かが、菅原道真の怨霊が枕元に立つのを見たと報告しても、それはあくまでその人の投影であり、場合によっては精神病的な幻覚であるとみなされる。たとえそのイメージに象徴的意味を認めるとしても、それはその人の父親像や、精神的な厳しさや、それに直面しての不安が現れてきているということになる。したがって、現代の多くの心理療法において、霊的暴力などという考え方はもはや存在しないのである。」

「個人を超える次元を問題にしたのが集合的無意識という概念を作りだしたユングである。前近代の癒やしは、共同体や異界にまで広がるこころを前提にしていた。現代においても、社会全体や死者に関わるような課題には、クローズドシステムとしてのこころの理解では限界があるのではなかろうか。そしてすぐれた芸術、宗教などは、いわばオープンシステムとしてのこころに関わる必要があるのではなかろうか。したがって心理療法においても、霊的暴力に関わる場合も生じてくるのではなかろうか。少なくとも心理療法においては、個人的な暴力と霊的暴力を区別することが必要であろう。では心理療法において、霊的暴力に関わることは可能なのであろうか。
 ここでは、実際の心理療法の例からではなくて、ユング自身の体験からこの問題を考えてみたい。それはユングの体験した二つの精神的危機に基づく。正確に言うとユングには三つの精神的危機がある。しかし一つ目の危機は、ユングが一二歳のときになった不登校で、これは非常に個人的なものと言える。それに対して第一次大戦前に陥った精神的危機と、七〇歳前後のときの臨死体験は、霊的暴力に関わっていると考えられる。」

「ユングは第一次世界大戦前に精神的危機に陥る。」
「ユングは自分が精神病になるのではないかと恐れていたが、翌年八月一日の第一次大戦の開戦を知って安心する。つまりユングにおいて生じていた精神的な混乱は、自分自身の病理によるものではなくて、いわば世界の霊的暴力によるという解釈なのである。
 この解釈自体が現代の心理学からすると妄想とみなされかねないけれども、ユングはその後アクティヴ・イマジネーションと呼ばれる、無意識のイメージ像を積極的に想起してそれと対話していく方法によって、無意識との対決や統合を進めていく。その結果を記録したものに基づいて書かれたのが『赤の書』である。」
「『赤の書』は、一九一五年の「第一の書」と「第二の書」とが書かれ、一応完結していた。しかしユングにはそれで立ち止まることが許されていなかった。一九一六年に、ユングの自宅玄関のベルが鳴り止まなくなり、家中に霊が満ちるという不思議なことが起こる。それを元に書かれたのが「死者への七つの語らい」で、これは自費出版され、さらに死後に出版された『ユング自伝』に付録として収録された。そしてユングは一九一七年に、一九一三年四月から一九一六年に至るまでのことを、「死者への七つの語らい」も取り入れて、「試練」として書く。これが二〇〇九年の『赤の書』の出版に際して、いわば第三部として組み入れられたのである。
 ユングの家を訪れてきたとして体験された死者たちは、第一次大戦において生じた未曾有の死者が関係していると思われる。東日本大震災の後も、多くの死者や行方不明者は、大きな悲しみと関心を引き起こし。幽霊などの現象も多く報告された。第一大戦においても、同じようなことが生じていたと思われる。」
「『赤の書』の第一部と第二部は個人的なこころの統合過程を心理学的に描いたものとも、個人的な修行過程とも考えられるのに対して、第三部は霊的暴力との対決と、それの浄化が描かれていると考えられるのである。」

「一九四四年のはじめに、ユングは心筋梗塞に続いて足を骨折することになり、意識喪失のうちに臨死体験をする。(・・・)ここで注意したいのは、この年号である。これはまさに第二次世界大戦が終局に向かおうとしていた頃で、大戦がもたらした霊的暴力と関係していると思われる。(・・・)ユングに他の時期にはない強烈なビジョンをもたらしたのは、時代の霊的暴力と無関係とは思えないのである。」
「臨死体験では、よく手術台の上のほうから、幽体離脱して自分の身体を見たことなどが報告される。しかしここでは、自分の身体とそれを見る視点という関係やスケールではない。まさに地球規模のことが生じている。つまり問題なのはユングの身体ではなて、地球なのである。ここにはユングの生死ではなくて、地球の生死、地球の存亡がかかっている。第二次世界大戦における霊的暴力は、そのようなものとしてここではイメージされている。それは第一次世界大戦のときのような、多くの救いを求める死者たちの声を聞けるような、いかに悲惨なものであってもまだ人間的なものではなかった。それはもっと非人間的で、抽象的な滅亡である。広島、長崎に投下されや原爆は一瞬にして町を破壊し尽くした。これは美しい地球自体が危機に瀕していることを示している。ユングの死ではなくて、霊的暴力に襲われている地球の死が問題なのである。」
「ユングの臨死体験は、現代において霊的暴力に向き合うことのむずかしさを示唆してくれているのかもしれない。一つにはそれは地球規模、それどころか宇宙にまで及んでいることである。そしてそこから、世界の次元と個人の次元の差異が生じてくる。」

個人の救済が問題になるからこそ、個人的な次元での霊的暴力の引き受けが必要になるのではなかろうか。心理療法において、クライエントがよくなるときに、飼っているペット、親をはじめとしする家族、さらにはセラピストなどに、ある種の犠牲が伴うことがある。ここではそれが主治医に生じてくる。主治医は霊的な暴力の犠牲になっている。しかしこの犠牲は、キリストが世界の救済のために亡くなったような次元を持ちえない。それは確かに、ユングが霊的暴力、個人を超えた世界や宇宙の救済の次元に関わったために生じてきた暴力に関係している。その次元にまで主治医が至ることができたからこそ、ユングは救われたと思われる。しかしそれは、地球の救済や、真の霊的暴力の浄化に至らない。そこに現代における霊的暴力への取り組み方のむずかしさが認められるように思われるのである。」

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