星野太『食客論』
☆mediopos-3034 2023.3.9
『群像』に二〇二二年九月号まで連載され
今月刊行されたばかりの星野太『食客論』は
溯れば任侠映画の中心にいる「食客」に由来している
やがて二〇一二年に展覧会のカタログに
「パラサイトの条件」という原稿を書いたことがきっかけで
「寄生(パラサイト)」というテーマへと
惹きつけられることになったが
それは「共生」という言葉への違和感からだという
「共生の哲学」と一文字違うだけなのに
それへの批判ともなり得る「寄生の哲学」
任侠映画の「食客」に由来するとはいえ
本書で任侠について論じられているわけではなく
フランスのロラン・バルト/ブリア=サヴァラン/フーリエ
ギリシア・ローマのルキアノス/キケロ/ディオゲネス
そして日本の九鬼周造/北大路魯山人/石原吉郎
が主にとりあげられている
ちょうど『群像』四月号に
松浦寿輝との刊行記念対談と
関口涼子の書評が掲載されていたので
そこからも引用してみることにしたが
昨今なにかにつけ
「共生社会」「多文化共生」といったように
とりあげられがちな「共生」はその口当たりのいい表現ゆえに
「そこに存在するはずの不均衡や不平等を、
時に覆い隠してしまう」
「共生」というのは「達成されるべき理念などではなく、
われわれがあらかじめ巻き込まれている所与の現実のこと」であり
問われるべきは「いかにして共に生きるか」なのだという
「同じ共同体にあるものが共についているべき食卓で、
その共同体には属さないが実は
「傍らで」ひっそりと食事をしている食客という存在」
さらに動物・植物・微生物といった
寄生し寄生されてもいる存在たち
「普段他者と認識していない、そういった曖昧な他者、
つまり「食客のように『傍らに』いるもの、
あるいは『境目に』いるものたちの群れ」へと
目を向けることで
「共生」という言葉では隠されている
「食客」「寄生」という「他者」との現実的な関係を
『食客論』は論じている
『食客論』で論じられていることをあえて超えて
あらためてわたしたちの生を捉えなおしてみると
この地上に生まれてくることそのものが
この地上のあらゆる存在との「寄生」に他ならず
わたしたちは生きている以上
「食客」として生きているということができる
(だからときに人は生まれてきたという
「一宿一飯の恩義」ゆえに命を賭して報いるというような
倫理感とでもいえる「愛」とともに生きることもある)
また「共同体」という使われがちな言葉についても
「共生」ではなく「寄生」ということから
論じられることで見えてくるものもある
■星野太『食客論』(講談社 2023/3)
■松浦寿輝×星野太「書くことの味わいをめぐって」
(「群像 2023年 04 月号」所収)
■関口涼子(書評)
「傍らで食べる不可視の他者(星野太『食客論』)
(「群像 2023年 04 月号」所収)
(星野太『食客論』〜「第一章」より)
「他人と生きることが得意ではない。
そのような感覚をもつ人は、おそらく珍しくないように思う。ほかならぬわたしもそのひとりである。(・・・)
しかしそれでも、われわれはそのような生を生きなければならない————のだろうか。少なくとも言えるのは、いわゆる通常の「社会」から離脱しようと試みたところで、それはいくぶん空疎な努力にすぎないということだ。(・・・)たとえどこまで遠くに逃げようと、そこにはつねに、ひとりならざる他者がいる。「わたし」はけっしてひとりになれない。そのような意味において、「共生」とは達成されるべき理念などではなく、われわれがあらかじめ巻き込まれている所与の現実のことである。
ここ二〇年ほどのことだろうか。「共生」という言葉がさまざまな理由で目につくようになった。(・・・)たとえば今すぐ文部科学省のウェブサイトを開いて、一般に公開されているそれらしい事業報告書に目を通してみればよい。そこでは「共生社会」や「多文化共生」といったしかたで、この言葉がごく自然に用いられるさまを目にすることができる。
むろん、ここではそうした言葉が名指そうとする社会的現実を軽視するつもりもなければ、そうした取り組みがもつ社会的意義を否定するつもりもない。ただし次のことには注意しておくべきである。すなわち、長い時間をかけてほとんど無内容な記号として流通を始めた言葉は、しばしば人をその内実から遠ざける。げんにそうした行政文書が謳うのは、これまで括弧つきの「社会」から排除されてきた弱者や少数者を「包摂」しなければならない、あるいはそうすべきであるといった内容であろう。しかし、それは端的に社会的正義の問題であって、厳密には共生の問題ではない。さきほども言ったように、われわれはけっして「ひとり」になれない。それゆえ共生とは高邁な理想であるよりも前に、われわれがけっして抗うことのできない現実のことである。だから、そこに何らかの質的差異が————たとえば「良い共生」だとか「悪い共生」だとかいったものが————存在するというならばともかく、共生それ自体が目指すべきゴールであるといったような言葉づかいには、やはりどこか違和感がつきまとう。
ゆえに、共生をめぐる問いが立てられるとすれば、それはいかにして共に生きるか、という疑問文のかたちをとらなければならない。われわれは、つねにすでに、他者とともに生きてしまっている。共生というのはあくまでも所与であり、真に問われるべきはその内実である。ちなみに、ここでいう「他者」とはおもに人間のことを指しているが、それ以外も動物、植物、微生物にいたるまで、われわれの存在様態はさまざまな他者との共生なしにはありえない。」
(星野太『食客論』〜「あとがき」より)
「「昭和残侠伝」や「緋牡丹博徒」などが典型だが、「仁義なき戦い」シリーズ以前のごくふつうの任侠映画といえば、流れ者である主人公(ないしその相棒)がその筋の一家に身を寄せ、彼らと抗争関係にある悪玉一家の計略にさんざん苦しめられながら、ついに勘弁ならぬと殴り込みをかけるところまではおおむねワンセットである。(・・・)
二本立てに足繁く通っていた当時から時は経ち、わたしの関心が、これら任侠映画の中心にいる「食客」という存在に向けられていった。劇中では「客人」などとよばれもする彼ら渡世人は、俗に言う「一宿一飯の恩義」を忠実になぞるかのごとく、みずからにつかの間の安息を与えてくれた一家のために命を賭ける。(・・・)しかしそれにしても、流れ者たる彼ら侠客が、一時的に身を寄せた家のために命を賭すのが当然であるといったその倫理感(エチカ)は、たんなる美談で済ませることのできない過剰な何かをわたしのなかに植え付けた。
この「食客」という魅力的な呼称をもつかれらのふたたび思いを馳せるようになったのは。ある展覧会のカタログに「パラサイトの条件」という小さな原稿を書いたことがきっかけだった。二〇一二年のことである。
そのころ、わたしは「寄生」という哲学的テーマに強く惹きつけられていた。もちろん「哲学的テーマとはいっても、過去にそのようなものははっきり存在したわけではない。その動機はかなり漠然としたもので、ごくかいつまんで言えば、当時のわたしは「共生」という耳馴染みのよい言葉に、どこか違和感を抱いていたのだと思う。(・・・)
なるほど、「共生の哲学」ならばいまや巷に溢れ、社会的にも少なからずその重要性が認知されている。(・・・)
ひるがえって、それとわずか一字を異にする「寄生の哲学」という文字面は、むしろひとを怪訝な気持ちにさせる、一種の不穏な響きすらともなうのではないか。だがそれゆえにこそ、わたしは「共生」よりも「寄生」について考えねばならない、というよくわからない思いを、つねに胸のうちに抱え込んできた。(・・・)
あるとき、食客=パラサイトの語源をたずねてギリシア語の辞書をひいてみると、元々これは「穀物(sitos)」を「傍らで(para)」食べるもの、という意味だという。「穀潰し」という日本語が、すぐさま脳裡に浮かぶ。と同時に、この「傍らで」という接頭辞が共有ではなく排除の意味を強くもつことも、容易に想像可能であった。パラサイトは、その食卓を共にすべき「家族」や「友人」の共同体から周到に排除されている。そして、わたしがかつてスクリーンで見たあの食客たちもまた、家長と正式な盃を交わした「身内」ではなく、その命を賭して一宿一飯の恩を返すことを定められた「客人」なのであった。
本書でも見たように、かつてハンナ・アーレントは、食事を楽しむには少なくとも二人の人間が必要だと言った。その意味でいえば、食客は人間ですらない。彼らは、その食卓の傍らに居心地の悪い場を占め、その食事をくすねとる、文字通りの「寄生虫」のような存在なのだ。」
(松浦寿輝×星野太「書くことの味わいをめぐって」より)
「松浦/この本の魅力は、ロラン・バルトの「いかにして共に生きるか」という講義から初めて、人から人へ、主題から主題へと移っていく流れのなかで、パラサイト(食客)のイメージと概念が徐々に変容し続けるというのか、緩やかに振動し続けているところだと思うんです。厳密な、一義的な定義は最後まで与えないわけですね。というか、それを拒んでいる。
(・・・)
パラジットというテーマに向かわれたモチーフの一つとして、ここ十数年来、ずっともてはやされ続けている「共生」という行政的な流行語に対する違和感というか、居心地の悪さが底流しているわけですね。「多文化共生」だの「他者への寛容」だのといったスローガンは結局、美辞麗句というか抽象的な美談でしかないのではないか、と。温和な書きぶりとは裏腹の、そういうかなり辛辣な批評的な視線が全編に行き渡ってもいる。」
「星野/共生というと「わたし」なり「あなた」なるが確固たるものとしてあって、いざ共生していきましょうというイメージがあるけれど、むしろわれわれ人間のありようは、さきほどの作品と批評との関係と同じように、つねに寄生関係で成り立っているというのが実際のところなのではないか。理論的な興味・関心としては、私たちの生の現実を、ありきたりな「共生」ではなく「寄生」という観点から論じてみたいというねらいがありました。
各章で論じている人たちについて言えば、連載開始時にそこまでかちっと決めていたわけではないんです。バルトやルキアノスは事前のリストにありましたが、ブリア=サヴァランやフーリエは連載中に出てきた人たちです。
バルトの話はもともと第一章で終わらせようと思っていたのですが、執筆中にバルトがブリア=サヴァランの『美味礼讃』(『味覚の生理学』)に寄せた序文を読んでみると、これが存外おもしろかった。そうこうしているうちに『美味礼讃』の新訳が出たりしたこともあって、ブリア=サヴァラン、フーリエとで、はじめの三章はいわば「フランス篇」のような格好になりました。
そうなると、次の三章は「古代ギリシア・ローマ篇」というふうにしたくなって、第四章でルキアノスを出したあとはキケロ、ディオゲネスと続けることにしました。
松浦/それに続く、九鬼周造へ、さらに北大路魯山人へという展開にはちょっとしたサプライズ感がありましたね。バルト、フーリエのあたりは、星野さんの教養の背景なら当然こういった名前が出てくるだろうという感じだったけれど、魯山人には驚いたし、その後いきなり限界状況における食べることという問題にぱっと飛んで、石原吉郎を論じられた。そのあたりは、やられたなという感じがありました。
星野/それ以前の流れから、最後の三章は何となく「日本篇」としたくなったんですよね。第七章の九鬼周造は「味会(みかい)」というひとつのアイデアで書き切ったところがあります。」
(関口涼子(書評)「傍らで食べる不可視の他者」より)
「「共生」、共に生きる、という言葉に正面切って反論を唱える人は少ないだろう。本書『食客論』はしかしこの「共生」に違和感を表するところから始まる。共生は無条件に目指される理想ではなく、わたしたちは現実としてすでに誰かと共に常に生きているのであり、問いを立てるならばむしろ「いかにして共に生きるか」ではないのだろうか、と。
そもそも、書名にある食客とは何者なのだろうか。他人の家に厄介になり、食事を振る舞われながら、その恩義に報うために時には助言役となり時には諸肌脱ぐ者をわたしたちは想像です。共に食べる、「共食」もまた口当たりのいい言葉だが、その影にはいつでも道徳的な匂いが漂う。そもそも、共生、共食が可能になるには、「そのカウンターパートが正当なしかたで遇される他者であるこよを、なかば暗黙の前提としている」と著者は言う。どの文明にも食事のマナーが厳然と存在しているのは、その人間が食を共にするに値する人間であり、食べる側であって食べられる側(食物)ではなく、食事を振る舞われる側であって供する側ではなく、味方であって毒を盛る側ではないなど、同じ食卓に着くまでの複数のハードルをクリアするためである。
しかし、この世界におけるわたしたちと他者との関係はそれほど単純に線引きされるわけではない。本書で「食客」の同義語として用いられる「パラサイト」、つまり寄生にはネガティヴなイメージがあるが、人間に限らず、動物、植物がいなければわたしたちは生きていけないという意味でわたしたちもまた常に彼らに寄生しているのだし、同時に微生物を自らの体に寄生させてもいる、普段他者と認識していない、そういった曖昧な他者、つまり「食客のように『傍らに』いるもの、あるいは『境目に』いるものたちの群れ」に著者は目を向けていく。」
「同じ共同体にあるものが共についているべき食卓で、その共同体には属さないが実は「傍らで」ひっそりと食事をしている食客という存在を想定することによって、著者の星野太は、中間的他者の姿を、まさに曖昧でどこにも定住しないその立ち位置のままに鮮やかに描き出した。食客の存在により、わたしたち「そこに存在するはずの不均衡や不平等を、時に覆い隠してしまう」共生ではなく、誰もが何かに寄生している状態を想像することができ、自分が何に寄生し、何に寄生されているか改めて考えることにもなるのだ。」
◎星野 太(プロフィール)
1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専攻は美学、表象文化論。
主な著書に『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、『美学のプラクティス』(水声社、2021年)、『崇高のリミナリティ』(フィルムアート社、2022年)。主な訳書にジャン=フランソワ・リオタール『崇高の分析論――カント『判断力批判』についての講義録』(法政大学出版局、2020年)などがある。