阿部謹也『「教養」とは何か』/ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』/シュタイナー『人間生活の運命を形成するカルマ』
☆mediopos3456 2024.5.4
教養とは何か
Wikipediaによれば
「個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと」とある
そして「一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる
一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、
古典文学や芸術などの文化に対する幅広い造詣が、
品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に
結びついている状態を指す」とされ
「伝統的に、西欧の高等教育で扱われてきている
リベラル・アーツに相当するものとしてもとらえられる」が
こうした個人の教養の成立にあたっては十二世紀
サン=ヴィクトルのフーゴー
『ディスカリコン』(学習論)の存在がある
(阿部謹也『「教養」とは何か』)
フーゴーは「知恵の探求こそ人生の中で最高の慰め」であり
それは「哲学そのものを意味」するのだとし
学芸におけるリベラル・アーツすべての強い結びつきに
注意を払うことが必要で
自分が選んだ専門だけでは不完全だという
そして「哲学のすべての分野を修めた後
陶工の道に進み、そこで修行する必要を説いている。
あるいは哲学のすべての分野を修めた後
靴直しの仕事に就く必要を述べている」
つまり教養を身につけた後に
職人の手仕事を身につける必要があるというのである
現代では自称知識人の多くは
こうしたフーゴーの考え方とは逆に
こう考えているのではないだろうか
つまり幅広い教養など身につけている暇はなく
自分の専門性を極めて結果を残せばいい
まして職人的な仕事は自分のなすべきことではないと
しかし「手」をつかわないところに
ほんらいの教養も自由も
ましてや創造性もありはしないだろう
そこには「人間」が「人間」であるための
必要条件としての知恵が欠落しているからである
さてルドルフ・シュタイナーの精神科学の視点では
人間は神経・感覚人間−循環・リズム人間−代謝・四肢人間
という三分節としてとらえられている
一見すると神経・感覚人間がもっとも高次であり
代謝・四肢人間は低次だとらえられがちだが
その代謝・四肢人間にこそ
もっとも高次のヒエラルキア存在たち
(トローネ・ケルビム・セラフィム)が結びついている
神経・感覚人間の「頭による体験」は
外的世界の鏡像に過ぎないのに対して
「道徳的な衝動、魂の衝動として生きているもの」は
代謝・四肢人間の領域からきている
霊的な世界観において
ともすれば陥りがちな錯誤は
高次と低次をどうとらえるかによって生まれる
もっとも高次のものこそが
低次のものとしてあらわれているものに
働きかけることができるにもかかわらず
そのことが理解されていないのである
代謝・四肢人間においてこそ
もっとも高次の存在によって
「魂的・道徳的なもの」の
「素質として与えられたもの」が
新たな地上生においてあらわれることになる
その意味においても
(最初の教養に関するフーゴーの話に戻るが)
教養を身につけた後にこそ
職人の手仕事を身につけることが重要となる
いうまでもなくそれは「後」である必要はなく
ある意味においては
教養をふくむ人間の営為は
すべて「職人」のそれであるといえる
ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』の
帯には「私たちは手のしもべである」
という言葉が記されているが
わたしたちはあらたな生にむけ
トローネ・ケルビム・セラフィムによって
働きかけられているみずからの「手」で
みずからをあらたに創造しているといえる
そしてそこにこそ自由と創造性の種がある
■阿部謹也『「教養」とは何か』(講談社現代新書 1997/5)
■ダリアン・リーダー(松本卓也・牧瀬英幹訳)
『HANDS 手の精神史』(左右社 2020/11)
■ルドルフ・シュタイナー(浅田豊訳)『人間生活の運命を形成するカルマ』
(ブレスラウにおける9回の講演(1924.6.7-15) 涼風書林 2024/4)
**(阿部謹也『「教養」とは何か』〜「第二章 「世間」の中でいかに生きるか」より)
*「教養に(・・・)個人の教養と集団の教養との二つの種類があるとすれば、(・・・)西欧社会の十二世紀における革新は教養の一つの面の展開に過ぎないことになる。しかしこの時代に個人の教養が生まれたということは集団の教養にも大きな影響を与えずにはおかなかった。
個人の教養の成立の転機に立っていたのは、サン=ヴィクトルのフーゴーである。フーゴーは個人の教養の出発点に立っていたと同時に集団の教養にも目配りが利いた、この時代としてはまれな人物であった。(・・・)
サン=ヴィクトルのフーゴーは生年は不明だが、東ザクセンに生まれ、ハルバーシュタット司教区のハーメルスレーベン律院で教育を受け、後にパリのサン=ヴィクトル律院に移った。多くの書物を書いているが確定できないものがあり、もっとも有名なのが、『ディスカリコン』(学習論)である。
この書物の中でフーゴーは神的な書物だけでなく、世俗的な書物についても扱っている。
中心となっているのは知恵の探求である。知恵の探求こそ人生の中で最高の慰めであるという。そして知恵の探求はまさに哲学そのものを意味しており、哲学とは知恵への愛であると同時にすべての人間的神的書物の根拠を徹底的に探求する学問だという。知恵とは何かといえば我々の自然本性の十全性が回復されることを意味する。自然本性とは人間のうちにある善のことであり、同じく人間のうちにある悪を欠如とみなして善を回復することとが知恵なのである。そのためには学芸地と徳が必要である。
書物には二つの種類があり、学芸の書物、つまり哲学の書物と哲学の付加物としての書物がある。そして哲学者についてフーゴーの観察は鋭く、「くだくだとまわりくどく言い表すことによってごくわずかの事柄を引き伸ばすことを常としており、たやすく看て取れる意味をこみ入った議論によってわかりにくいものにすることを常としている」といっている。ここからもフーゴーが中世の他の神学者や哲学者といかに異なっているかが解るだろう。さらに学芸について次のようにもいっている。
「学芸におけるこれほど強い相互の結びつきに注意を払わぬまま、七つのうちからあるいくつかの学芸を自分で選び出して、他の学芸には触れずに、選び出した学芸において自らが完全な者になることができる人々は誤っている」。この文章は現在にも通ずる意味をもっている。人文社会科学の諸分野は皆深い関連をもっているのだが、今でも一つの分野だけで完結していると思っている人は多いのである。」
*「フーゴーは哲学を思弁学、実践学、人工人造学、論理学に区分し、それらのうち思弁学はさらに神学、数学、自然学に分かれ、数学はさらに算数、音楽、幾何、天文学に分かれてゆく。そして音が気は天上の音楽、人間の音楽、器楽に分かれてゆく。実践学は個人の実践、家庭の実践、公共の実践に分かれ、そこから倫理学、道徳学、家政学、経済学、財政学、国政学が分かれてゆく。そして人工人造学は機械、兵器、商学、農業、狩猟、医学、演劇に分かれ、そこからさらに建築、鍛冶、食糧調達、娯楽などに分かれてゆく。論理学は文法学と論証理論に分かれてゆく。
こうした区分は十二世紀という時代を考えると驚異的なものだが。そこでは単に近代になって実現した学問の区分がすでに生まれていたということよりフーゴーの思想の中にあった遙かに重要な思想こそ注目すべきなのである。『ディダスカリコン』の中でフーゴーは哲学のすべての分野を修めた後陶工の道に進み、そこで修行する必要を説いている。あるいは哲学のすべての分野を修めた後靴直しの仕事に就く必要を述べている。
フーゴーによる哲学の区分の中には、音楽の実践や狩猟、手工業、個人の実践などが含まれている。これらは必ずしも言葉や文字を必要としない分野である。フーゴーがこれらの分野を哲学の中に入れていることはきわめて重要なことである。なぜなら、近代になって学問はほとんどすべて言葉や文字、記号などによって営まれるものとされているからである。」
**(ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』
〜「1 分裂する手———自律と自由のパラドックス」より)
*「アメリカの元大統領のジミー・カーターは、二〇一五年に自分が脳腫瘍に苦しんでいることを公表した際に、問題は「神の手のなかにある」といった。能動性がどこにあるのかと問われたとき、選ばれるのは、精神や頭ではなく手である。あたかも、手は欲求それ自体を表すかのようである。映画『ターミネーター』の最期のシーンを考えてみてもよい。サラ・コーナーを殺すことを唯一の目的とするサイボーグは、体の残存部分が破壊された後でも、ぼろぼろになった手を伸ばして前に進む。その手は純粋な目的である。実際、このシリーズの続編で、致死的な未来の新技術を生み出すのは、この残った片手である。
能動性や力と手のこのような結びつきは、聖書からガレノス、カルヴァンの「手の神学」からアダム・スミスの「見えざる手」にいたるまで、あるいはそれ以上に長い歴史をもっている。聖書のなかで、手は身体の他のどの部分よりも頻繁に言及されており、旧約聖書には実に似せんかい以上も手が登場する。初期のキリスト教では、神は雲から出て来る巨大な手として描かれることが多く、法を記す銘板はもともと手の形をしており、そこに五つの戒律が刻まれていたという。この「神の手」というイメージの遍在性には、偶像崇拝の禁止という観点からの解釈が与えられることがある。つまり、神は顔を見せることを禁じられていたため、代わりに四肢のイメージが選ばれたのだ、という解釈である。身体の残りの部分を見ることが許されていないために、はじめて手が出現したというわけである。」
**(ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』
〜「7 言葉と手————手を使わせるテクノロジーの今昔」より)
*「人間の文化の記録をひもとくと、話者は話すときにつねに手を動かしていたようである。また、手の動きと言語の関連性について、数多くの研究もなされてきた。一九六〇年代初期の研究の多くは、人が話す際に、意識的・無意識的なレベルの両方において、手のジェスチャーそどのように使っているのかに注目していた。心理学者や精神科医たちは、身体の動きと発話における「間」や区切りとの関連を研究し、「身体の文法」の規則を見つけようとしていた。」
*「人は、手の動きにさまざまな調整を施したり、工夫をしたりすることもできる。しかし、極端にいえば、手の動きは発話に伴う付属物や道具などではなく、むしろ発話それ自体の一部分なのかもしれない。言葉が私たちの心だけでなく身体にも影響を与えるのと同じように、手の動きは話すことの一部を形成している。そして、より重要なのは、それが聴くことの一部も形成しているということである。」
**(ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』〜「訳者解説」より)
*「本書においてさまざまな文化や歴史、そして心理学をはじめとする科学的な知見、さらには精神分析理論を自由闊達に行き来しながらリーダー氏が論じようとしていることを一言でまよめるとすれば、それは、「手は他者から触れられ、支配される受動的な器官でありながら、その同じ手が他者の支配から自らを引き離し、自由を可能にする能動的な器官でもある」という逆接である。
**(シュタイナー『人間生活の運命を形成するカルマ』〜「講演9 6月15日(日)」より)
*「私の本『魂の謎について』の終わりに述べたことですが、外的生活で私たちの前に立っている物質的人間を観察すると、それは私たちにとって神経・感覚人間、リズム人間、そして代謝・四肢人間に分けられます。代謝と四肢は関連しあっています。私たちが四肢を使うと、代謝が刺激を受けます。それが必要です。人間の中の諸力が使用されなければいけません。代謝が起こらなければいけません。両者は似ているのです。ところで肉体の中で生きつくしている人間の代謝システムにまず注目してみると、私たちは、それを人間の地上存在の最も低次のシステムだと考えがちです。代謝・四肢システムを、ある種の軽蔑の念をもって見下す習慣を身につけたという理由から、自らを理想主義者だと呼ぶ人間もまさにいるのです。それは、理想主義的で下品な人間が、もしできることなら持ちたくないような、最低のシステムだと言うのです。しかしながら、これがなければ、私たちは地上生活の中にはいられないのです。これこそが地上の生活における不完全な人間を表現しているのです。」
*「ところでここには次のような事情があるのです。物質的・人間的な形態において代謝・四肢システムは確かに最も下部にあるものであり、それゆえ地上生活のおける本来の人間的なものにはあまり関わっていません。しかしそれはやはり地上生活において、最高のヒエラルキア存在たち、つまりトローネ、ケルビム、そしてセラフィムと結びついているのです。私たちが世界の中を歩き回り、また手を使って働くとき、そこで起こる、この秘密に満ちた行為の中に、トローネ、ケルビム、そしてセラフィムの行為が含まれているのです。ところで彼らは、人間が死後自分の生活を継続し、死と再生の間を生き続けるとき、人間の協力者であり続けるのです。彼らは協力者なのです。ところで道徳的・魂的なものが頭から来ていると考えたら、それはまったくの間違いです。より高次の観点から観察したとき、頭は、本当は人間のとてつもなく重要な器官だとは言えないのです。頭はそもそも、多かれ少なかれ外的世界の鏡なのです。そして私たちが頭だけしか持っていないとしたら、外的世界のもの以外は何も知らないことでしょう。頭の中に外的世界が写し出されるということなのです。頭による体験とは、外的世界の鏡像に過ぎないのです。私たちの中で道徳的な衝動、魂の衝動として生きているものは、頭から来ているのではありません。それは、代謝・システムと同じ領域から来ているのです。ただし、代謝・システムの物質的なものからではなく、代謝・四肢システムの霊的・魂的なものから来ているのです。そしてその中にはトローネ、ケルビム、そしてセラフィムが生きているのです。」
*「人間本性の三つ目の部分、つまり代謝・四肢システムはとりあえず不完全なものに見えるのです。人間の物質的、エーテル的機構について言えば、それは人間には値しないものだとさえ言いたくなるのです。しかし、その中には別のものが隠されているのです。というよりも、このシステムはある別のもののの中に、はめ込まれているのです。その中にはトローネが生きています。(・・・)その中には、ケルビムが織りなしています。その中にはセラフィムが燃えさかっています。人間が死の扉をくぐっていくと、物質的な代謝・四肢システムの基礎となっているものすべては、人間から抜け落ちていきます。そして人間は彼の自我本性とともに、彼がすでに生きているときにいた領域、つまり、トローネ、ケルビム、そしてセラフィムの領域にとどまるのです。そして彼はさらに、ケルビムとセラフィムのふところの中で生きていくのです。その後人間は彼らから離れますが、彼らはさらに、魂的・道徳的なものの中で素質として与えられたものを形成し続けるのです。(・・・)人間は彼にとってより高いもの、つまり霊的・超感覚的なものを予感するために、この地上から上の天を見上げます。人間は地上にいる限り、そうするのです。人間の死と再生の間の生活の中にいると、彼は下を見下ろし、彼の魂的・道徳的な行動から、ケルビム、セラフィム、トローネの行為によって作られるものを見るのです。そして空が再び地上に下っていくと、彼はそこで、その結果が再現されるのを見るのです。そこにおいて、霊的なものを実現するために、ケルビム、セラフィム、そしてトローネがともに働いているのです。私たちはこのような点に注目したので、人間が、現在の地上生から次の地上生にかけて、彼の行為の結果を魔術的なやり方で送り込んでいくことを見るのです。」
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