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ぼくたちの哲学教室(監督:ナーサ・ニ・キアナン/2021年)

映画の帰り道、「《哲学》と言うからなんだか難しいかなと思ったけど、道徳の授業みたいな感じなのかもね」と一緒に見た中学生の娘に何気なく話しかけると「いや、ぜんぜん違ったよ」と真面目な顔で返してきた。

彼女が受けている道徳の授業は、身近に起きたことが題材になるわけではなく、教科書に書いてある物語、それも「そんな極端なこと普通起きないよ!」と思うような話をもとに行われるため、だいたいみんな同じ答えに行き着くらしい。それに、考えたり話し合ったりする時間があんなにないとのこと。
今どき当たり前なのか、娘が通う中学校が特別なのかは知らないが、近頃の道徳はそれなりの頻度で行われている。帰宅した彼女が必ずといって良いほど授業の文句を言うから分かるのだ。夕飯時までうだうだ言うので「そんなに文句があるなら授業でそう言えば良いじゃないか」と水を向けたりもする。本人なりにはいろいろ発言することもあるようだが、大抵それは「正解」とは見なされない。実際には、にべもなく教師が「正解/不正解」と言っているとは思われないのだが、ただでさえ面倒な年頃の子どもは教師のそうした表情ばかりに敏感なものだろう。

自分を振り返ってみれば、そんな繊細な中学生ではなかったし、記憶にある担任は道徳の時間のたびに、最後に「じゃあ最後に違う意見を聞いてみよう!」と茶化して私を指名するような輩だった。道徳の授業が持つ欺瞞に彼も気がついていたのかもしれない。そうした指導の甲斐あって、正義や優しさを標榜する場に懐疑的な十代を過ごし、理屈っぽい故に哲学好きと誤解されることが多かったが、今日に到るまでほとんど哲学書の類いは読まない大人になってしまった。あるいは、とある哲学的対話を見学する機会に「こんな場所だと俺はかえって話せなくなっちゃうんだよな…」と言う人に対して「そんな人いませんよ!」とさわやかに返す主催者の言葉を聞いて以来、さらに哲学に対する距離を感じるようになった。だって、いま目の前に「話せない」と言っている人がいるのにその人が視界に入らないなんて、哲学以前に科学的ですらない。

もとい、ケヴィン校長が魅力的に見えるのは、単に子どもたちの話を聞くからだけではないだろう。むしろ、彼には他人の意見に揺さぶられることのない信念があり、それ故にいささか過分に子どもたちへ期待し、時に落胆もしているように思われた。しかし、絶望はしない。正直なところ暴力の誘惑に打ち勝つことはできないのかもしれない、しかし、負けないで居続けることは不可能ではないとでも言いたげに。だからこそ何度でも対話する。それこそが教育者として重要な態度ではないだろうか。私の娘が即座に「道徳の授業とはぜんぜん違う」と答えたのも、それを敏感に感じ取ったからのような気がする。


ぼくたちの哲学教室
https://youngplato.jp/


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