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亀の甲羅
南海トラフ地震が話題になっているが、あれは90〜150年に一度確定的にやってくるようで、記録に残っている最古のものが684年の白鳳地震だ。あの794ウグイスより前なのだ。
つくづく人間の歴史なんて地球の歴史の中に当てはめると、米粒くらいの幅でしかない。
伝説みたいなキリストだって、始皇帝だって中大兄皇子だってたった二千年程度のスリップで出会えてしまうのだ。
子どもの時はミーハーで、それこそ戦国時代や幕末にしか興味なかったのだけれど、大人になり、こうしてペルシャ猫抱いて間接照明の中ロッキングチェアに揺られながら書物(ウィキペディア)を紐づいていくと、名もなき古い時代にこそ浪漫があることに気づく。
キングダムから春秋戦国に触れたり、地動説論者の迫害の歴史を追ったりすると、古代史ロマンは加速する。紀元前の段階で既に裏切りや罠、交渉など今と変わらないクォリティで人々が社会を作り、営んでいるのだ。
ではそんなキングダム始皇帝の時代、紀元前200年頃、我が国日本はと言うと、なんとまだ文字すらない。
呂不韋が共著で学術書を書き、中身を読んで間違いを指摘したらお金出す。みたいなバイトを雇っている頃、
始皇帝が交通ルールを制定したり、漢字の書体を統一したりしている頃、
我が国ニッポンでは、弥生時代前期らへん。
卑弥呼すらも登場せず、亀の甲羅を割って明日の運勢を占ったりして一喜一憂していたのだ。
歴然たる差がそこにはあった。
科学者や哲学の分野の偉人の過去を見ていると、3歳の頃にはもう〇〇の定理を理解し、〇〇の書を読破していた。みたいな逸話がモリモリと出てくるのだけど、ふと自分の3歳を思い返すと、幼稚園を脱走したくらいの逸話しか残っておらず、素行の悪い悪童の域にすらたどり着けていない。
これとよく似ている。
けれどもこれって、悪いことなのだろうか。
よくよく考えてみて欲しいのだけど、なまじレベルの高い環境だったゆえに、高度な知力や圧倒的な武力が求められ、それすらなかった村人Aは、雇用主が持つ兵力の数値を1カウントアップするだけの存在にさせられた。
方や巫女の霊力だか、道力を持つと自称した着飾った女にみんなで頭を下げて、急に持ち上げた亀を石に叩きつけて、割れ方に応じて「いい感じです!」などと発表されたらみんなで大きな声を出して一喜一憂して食って寝る。
どちらが幸せだったのだろうか。
何が言いたいかと言うと、幸せなんてものは、考え方ひとつだと言うことだ。
僕らは常に何かと比較され、常に何かと比較して生きている。SMAPがナンバーワンにならなくていいとか、皆元々特別なオンリーワンだとか言っていたが、比較からは逃げられない。
幸せか不幸せか、辛いか楽勝かほとんどの感情が相対的評価に過ぎず、そしてそれを心の拠り所にして生きているものだ。
そうなのだとしたら、絶対に勝てるものと相対させればいいだけだ。
例えば、先程の中国史と日本史で考えれば、文明が進んだ国で暮らすことは、利便性が高く、あらゆる選択肢が増えることだ。
選べる自由と生活水準の高さは幸せであると認識するには十分な理由となるだろうし、
戦いもなく、貧富の差もなく理解の及ばないものを神のせいにして、都合よく生きていられる日本も幸せだ。
学力もなく神童とも呼ばれず、期待もされない3歳児は不幸だが、難しい定理を解けて周囲から持ち上げられ、減点方式で見られ、少し成績を落とせばがっかりされて、バカな事も下手に出来ない天才も十分不幸だ。
昨日より少し涼しかったから幸せだ。
本当はこれだけでいいのだろう。
いつの時代でもどんな環境でも自己受容だけで幸せと認識することはできるはずだ。
亀の甲羅を頭の中で叩き割ってみよう。
そのヒビに正解などなく、自分が良いと呟けばそれはもう良い事がある証なのだ。