ひとり歩きした言葉
言葉がもつもの
大きなテーマである「言葉のひとり歩き」。私がnoteをやろうとした原点もここにありますが、ここではその一部を書きます。
言葉は、時代が移り変わって、ひとも移り変わっても後世に残ります。そして「変化しない本質」と時代に合わせて「変化する現象」を合わせ持ちます。伝え残る言葉が「変化しない本質」を見失ってしまったとき、その言葉のまわりにはいろいろなトラブルが出てくるようです。
お客様は神様ですがもたらした世界
故三波春夫氏が述べたとされる「お客様は神様です」という言葉。聞いたことない人はいないくらいのひとり歩きしてしまった言葉です。この言葉について、👇の記事を読みました。
記事の冒頭でこの言葉をとりまく現状を👇のように説明していました。
この言葉、実はかわいそうな言葉です。こう表現する理由は、本質を失わないのが言葉の正体としたときに時間の流れと共にその本質を失ってしまったから。
本質とはかけ離れた意味での解釈になってしまった。最初はそんなことなかったのに。誰だ!そんな解釈を広めたのは!と三波氏が存命だったなら言うでしょうかね。
言葉はそれを理解することができる人には「意味」として通じ、それが伝達されていきます。伝達の過程でいろいろな解釈が加えられ、引かれ、変化して伝わる。
こうなるのは仕方がないとしても、最初に言葉を発した人の想いも形はどうあれ伝え続けていかれるべきかと考えます。
それが言葉に内包されて伝われば本来の姿なのでよいのですが、お客様は神様です の言葉にはもうそれがない。今回のような別記事や本来の意図を伝える機会にて伝承されていかないといけないくらい、言葉のひとり歩きが進んでいます。ずいぶんと遠くへ行ったもんだ。。。
三波氏は芸を極めたいという真意から「お客様は神様です」という言葉を紡いだ。
それがまわりに好評を博し、まわりの期待に応えて「お客様は神様です」を言い続けた。
そのうち「お客様は神様です」の解釈が浅い人が自分の解釈した意味でこの言葉を言い始めた。
別機会で修正されなければならないほど「お客様は神様です」から本質が抜け落ちてしまった。
この言葉がもたらした世界は、ぎすぎすした社会の溝みたいなものでしょうか。
ひとり歩きした言葉もまわりを成長させる
言葉には意志はありません。それを使う人(しゃべる人)によって使う意味や使い方が決められます。普通は言葉を使う人がその意味を理解し、意味通りに使うから言葉は伝わるわけですね。
でも間違った言葉の解釈の修正は難しいと感じているとおり、一度間違ってしまう取り返しがきかない。ということはひとり歩きした言葉にはもはや手の打ちようがないことになります。
でもね、実際そうでもないのでは?と思うわけです。
ひとり歩きした言葉によって、それを使う人が影響を受け、結果的に成長できるんではないかと。そして成長できれば失われた言葉の本質も戻って来るのではないかと。
だってそうでなければ哲学など成り立たない。また、過去の偉人たちが辿った思考の軌跡を我々がなめて進むことができているのも、ひとり歩きした言葉のおかげかと思います。
ただしひとつだけ条件がありそう。
言葉を使う人の意識が変わること。
これは我々がひとり歩きした言葉に成長させてもらう唯一の条件ではないかと思います。
三波氏の達観
この記事でもうひとつ私が気になったことがありました。
発した言葉は社会の財産。社会の財産は世の中が動かしていくもの。
三波氏はこの境地、素晴らしい達観だなと感じます。
音楽や文章についても同じ。リリースしたが最後、作り手の意図とは裏腹に作品がひとり歩きしていきますので、多かれ少なかれこれらの件はクリエイターは絶対気にすべき事柄と思っています。これを気にしないならばクリエイターと名乗る資格はないのかなと。
厳しいようですが自戒も込めて残しておこう。
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