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文章を書くのが「好き」なのではなく「喜び」だと思う

春近き夜の空気を吸いながら都会を闊歩している。不思議と春の足音が聞こえてきた気がする。最近、ものすごく文章を書くことに喜びを感じている。気候の移り変わりが僕をそうさせたかもしれない。


どんなことにも「好き」か「嫌い」かではなく喜びを感じるかどうかで決めた方が良いと思う。とくに結婚を決めるとき、相手のことが好きかどうかより、その人と一緒にいて喜びを感じられるかが大事だ。つまるところ、人間は直感で自分を判断している。他人本意より自分本位のほうが意外と合っていたりする。何を決め、何をどのように判断するかは結局自分なのだから。

きっかけはなんとなくで始めたnoteだが、3年半もコンスタントに投稿し続けている。続けているからには僕の中に「文章を書くことの喜び」を感じていたからに違いない。


X(旧Twitter)は言いたいことを何でも言っていいのかと言ったら違う。普段の会話において、人間なのでつい口が滑ったり口撃的なことを言ったりすることはあるが、その場合、直後に内省する時間がある。「なぜあんなことを言ってしまったのか」と、人と会った後によく思うことである。まだそれだけ相手を慮るこころがあるからである。だって目の前にいる人間と話しているのだから。

かたや、SNSでは文章を打ってそれを発信しているということは考えている時間があったはずだ。それをわざわざ文字に起こして口撃的な発信をする人の感性を図り知ることは僕にはできない。虚空に矢を放っているようなものである。


X(旧Twitter)にて、140字で発信していくうちに、要らない言葉を削ぎ落としてくうちにどんどん自分の思いが伝えられなくなってしまう。1度400字詰め原稿用紙2枚まるまる、「今の自分の気持ち」を綴ってみよう。何が好きで、何が嫌いで、どんなことに幸せを感じ、どんなことに喜びを感じるかを。「やっぱり文章を書くのが苦手だ」「自分の気持ちを伝えるのが苦手だ」など、実際に書いてみた各々の感想がでてくるだろう。


僕はというと、noteを通じて文章を書くのがより好きになったし、喜びを感じている。


誰かの目に届き、読んだ人が少しでも読み応えを感じてもらえれば嬉しいし、誰かの影響を与えることができたときには至福を感じる。僕は単に「読みました!」って報告してくれるのがすごく嬉しい。読んでもらえたっていう実感があるから。もちろんスキも同様である。

・誰かの目にとまる
・読んだ人に何かしらの影響を与えた
・文章を読んでくれること

いまのところ、この3点が僕のnoteにおけるやり甲斐だし喜びを感じる。

最近嬉しいニュースが舞い込んだ。以下の記事である。



「えなりかんな」さんという、僕のnoteお友達が書かれたこちらの記事。僕が以前投稿した記事を読んでくださって、執筆なさったものである。

太宰治『駆込み訴え』は、推しが卒業し、メンヘラと化したヲタクの話だと思えばこの作品はめちゃめちゃおもしろいのでぜひ作品も読んでほしいが、なにより上記の記事における「えなりかんな」さんのツッコミが冴えててめちゃめちゃおもしろい。ぜひ読んでほしい。

誰かの目にとまったこともそうだが、「noruniruさんの記事読んで自分も書いてみたくなりました!」って報告して下さった。この上ない喜びだ。虚空に矢を放つだけの文章ならノートにしたためる日記で良いのだが、noteで文章として発信することは、絶対的に「読む人がそこにいる」というのが大前提にある。X(旧Twitter)は日記の側面もあれば発信の側面もあるので、時々目的がとっ散らかる。まるで目の前に人がいるのをわすれてしまうかのように。

大学時代、レポートや論文の添削を受けるたびに「僕は文章書くの嫌いだな〜〜〜」としか思わなかった。自分の書きたいことがかけず、添削を受けて先生に気に入られることしか書いてこなかったからだ。

X(旧Twitter)でもnoteでも、誰かに向けて発信したりするのは好きだが、それ以上に誰かに届けようと思って書く文章の方が好きだし、喜びである。ここ数年で変わった。人生の最終的なゴールは「幸福になること」だと思っているが、その足がかりの1つとして「文章を書く」ことが今の僕にはある。それを続けることによって、この先、人生のレールが切り替わる音が聞こえてくることだろう。

今日も。そして明日からも。僕は文章を書き続けることをやめないだろう。僕にはまだまだnoteで書きたいことがいっぱいある。

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noruniru
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