パルメニデス(前5世紀)③ あらぬ、とは何か

あるものはある、あらぬものはあらぬ。

まず「ある」「あらぬ」とはどういうことか。
先に「あらぬ」から検証した方が分かり易い。
以下は私個人の足りない頭による理解である。パルメニデスの真意を本当に正しく理解しているのかどうかは保証できない。

あらぬとは「無」である。
究極の無、絶対的な無である。
ここで何故「究極」「絶対的」と表現したかと言うと、通常私たちが思い浮かべる無とは、「有」の対義語であり、概念として明らかに存在するものだからである。これは有の反対概念としての相対的な無であり、パルメニデスの言う「あらぬ」ではない。

パルメニデスの言う「あらぬ」とは、そのようにして私たちが思い浮かべることのできる「無」ではない。無とはこういうものだろうな、と思い浮かべることのできる時点で、それはもはや無ではない。
無とは、私たちが観念として思い浮かべることのできないものである。
だって無なんだから、思い浮かべられようはずがない。

これを逆に言えば、「思い浮かべられるもの」は「ある」のである。
これが結論ではない。ちょっと待って欲しい。
じゃあ例えば、ペガサスとか、龍とか、妖怪とか幽霊とか、そういう頭の中でいくらでも想像できるようなものを一切含めて「ある」とパルメニデスは考えたのか。そんなわけはない。
そのような想像上の産物は、理性によって産み出された賜物ではない。いわばヘラクレイトスの万物流転と同レベルの、感覚と経験によって産み出されたものに過ぎない。


ではパルメニデスの言うところの「ある」とは、どういうことか。
これは、次のような命題を検証していくことで、段々と明らかになる。

あるものは生成するのか(あらぬ→ある)?
あるものは消滅するのか(ある→あらぬ)?
あるものは変化するのか(ある→ある)?

続く。

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