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仮 後南朝の自天王さん 上北山村編

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自天王さんとの出会い 今から、何十年前のことだろうか? 当時小学生だった私は、吉野郡上北山村小像(ことち)にある北山宮へ親戚のともだちと遊びにいくところだった。 お盆所はよ…
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#上北山村

01 後南朝 自天王さんとの出会い

01 後南朝 自天王さんとの出会い

自天王さんとの出会い

当時小学生だった私は、吉野郡上北山村小像(ことち)にある北山宮へ親戚のともだちと遊びにいくところでした。

その場所の近くには天狗の家もあるそうで、興味津々の私は、その地区の広場で遊んでいました。

まあ、北山宮が、どんな神社であるかは知らないし、

どんな神様がいるかも興味がありませんでした。

しかし、お盆があるたびに、なんとなくきてしまうお宮さんなんです。

いつもく

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02 南北朝解体から自天皇暗殺まで

02 南北朝解体から自天皇暗殺まで

1、後南朝とは

後南朝とは、歴史書や教科書には出て来ない言葉である。近年に作られた言葉である。

尚、後南朝という言葉は当時の史料には登場しない言葉で、後世の歴史家が作った歴史用語である。

江戸時代後期の伊勢の漢学者・斎藤拙堂が草した「後南朝遺蹟碑記」の中で「南朝の事、あに言を忍ばんや。前南朝なほ然り。いわんや後南朝の式微をや。後南朝とは何。後亀山帝の後を謂ふなり」とあり、後南朝という言葉が初

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04 嘉吉の乱・・二皇子暗殺

04 嘉吉の乱・・二皇子暗殺

1,嘉吉の乱

ところが、嘉吉の乱により滅ぼされた赤松家の家臣が、お家を再興させるため、当時、北朝方や将軍家が血まなこになって探していた神璽を南朝から奪回することを企てました。

2,二皇子暗殺

長禄元(1457)年12月2日の夜、赤松の家臣により2つの御所が襲撃され、自天王は18歳の若さでこの世を去り、忠義王は御所で討死、

あるいは、その場は死地を脱したものの、川上村の高原で最期を遂げたと伝

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05 上北山村の内裏諸門警固役四人の武士と伯母峰峠の警固役橘将監

05 上北山村の内裏諸門警固役四人の武士と伯母峰峠の警固役橘将監

1,上北山村の内裏諸門警固役四人の武士

前回お伝えした 04ー3で暗殺事件時、上北山村周辺の警備では?(天ケ瀬 八坂神社古文書より)で、天ケ瀬 八坂神社古文書に記載された

「射場兵庫」

「和佐美兵衛」

「奥玉大夫」

「刑部治郎」

この四人の武士について説明します。

2,上北山村の内裏諸門警固役の和佐美兵衛とは?

この家系は和佐美兵衛を祖とし、慶長の時代(一六○○)から、長左衛門、平

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06 後南朝 二皇子の墓の謎

06 後南朝 二皇子の墓の謎

1、尊秀王(一ノ宮、北山宮)の首、胴体と忠義王(二ノ宮、河野宮)の墓

郷士たちは皇子の首と神璽を取り返し、首は金剛寺に手厚く葬られたと伝えられています。

一部の伝承では、弟忠義王は行き逃れて、高原で死亡したという伝承があります。

しかし1458年、赤松の残党に神璽を奪われ、これによって赤松家はお家再興の悲願を達成します。

このように後醍醐天皇から始まった南朝の血は絶え、南北朝の動乱は終焉を

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08 川上・上北山陵墓騒動

08 川上・上北山陵墓騒動

1、川上村 金剛寺の不可思議な光景・・3つのモノが語るものは?

南帝自天皇陵

宮内庁河野宮の墓標、

尊秀王の墓とある。

この光景は不可思議な感じです。

どの表示が正しいのでしょうか?

川上村の伝承から見ると・・・・

長禄元(1457)年12月2日の夜、赤松の家臣により、神璽を奪われ、2つの御所が襲撃され、自天王は18歳の若さでこの世を去り、忠義王は御所で討死、

あるいは、その場は死

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09 もう一人の後亀山天皇の皇孫!?

09 もう一人の後亀山天皇の皇孫!?


1、車僧禅師=尊慶王(後亀山天皇の皇孫)で興泉寺を創立

車僧禅師こと尊慶王(後亀山天皇の皇孫)は興泉寺を創立したことで知られています。

彼は『大和誌』や上北山村史に見られます。

彼は、臨済宗の僧で寺塔頭盛光院開山直翁であり、智侃禅師に師事しました。

また、観世流の「車僧」という謡曲も彼に関連しています。

彼の没年には複数の説があり、はっきりとは分かっていません。

寳泉寺の位牌によれば

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参考資料 車憎禅師

参考資料 車憎禅師

1、「徳川光圀」編纂『大日本史』明暦三年(1567)の内「南山皇胤譜」

「徳川光圀」編纂の『大日本史』明暦三年(1567)の内「南山皇胤譜」の「尊慶王」と「尊秀王」自天王の記述を原文のまま掲載。

尊慶王

御母大納言經泰郷ノ女 御誕辰年月日不明 
大和國吉野郡二住シ時宗ト改名 落飾シテ大空上人ト號ス 紀伊國北山荘興泉寺創建住篤トァルモ事蹟不詳

尊秀王

御母武内ノ胤山邦ノ女 永亨十二年庚申二

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参考資料 後南朝 上北山村 古くからの風習 車憎禅師と虫送り

参考資料 後南朝 上北山村 古くからの風習 車憎禅師と虫送り

説明
日本には古くから伝わる四季の風習や行事が数多く存在します。

これらは、ただの伝統や風習ではなく、地域の人々の心と結びつく重要な象徴であり、奈良県上北山村の西原で「虫送り」という特別な行事があります。

虫送りとは

「虫送り」とは、害虫を追い払い、五穀豊穣を祈願する行事で、多くの地域で行われてきました。
しかし、上北山村の虫送りは、240年以上の歴史を持つ、特別なものです。

この地での行

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新刊! 📚『車僧禅師 〜南朝の血脈 謎に満ちた聖僧〜 その壱』歴史ミステリー小説のご紹介

新刊! 📚『車僧禅師 〜南朝の血脈 謎に満ちた聖僧〜 その壱』歴史ミステリー小説のご紹介

知っていますか?

室町時代の「もう一つの朝廷」の存在を。

足利幕府の支配下、表向きは統一された日本。

しかし1470年、突如として起こった後南朝の反乱。

なぜ60年以上の時を経て、南朝の血を引く者たちは立ち上がったのか?

その答えは、ある一人の謎の僧侶に隠されていた—

七百歳を生きたという伝説の聖僧、車僧禅師。

表の顔は禅僧、その血管には南朝の血が流れる。

紀伊国の山奥に建てられた

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新刊! 📚『車僧禅師 〜南朝の血脈 謎に満ちた聖僧〜 その弐』歴史ミステリー小説のご紹介

新刊! 📚『車僧禅師 〜南朝の血脈 謎に満ちた聖僧〜 その弐』歴史ミステリー小説のご紹介

📜 【歴史の闇に葬られた衝撃の真実、ついに明かされる—】 🏯

南北朝時代末期、後亀山天皇の血を引きながら仏道を選んだ深山正虎。

彼が臨済宗の教えに従い僧侶として歩んだその道の裏には、

果たしてどのような使命が隠されていたのか…?

深山正虎は、なぜ「車僧禅師」として知られる存在となったのか?

南朝再興への思いを抱き、

密かに真実を継承しようとするその決意の源は何だったのか?

表向き

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【衝撃の最終章✨】南朝の真実に迫る歴史小説が遂に完結!

【衝撃の最終章✨】南朝の真実に迫る歴史小説が遂に完結!

「車僧禅師 ~南朝の血派 謎に満ちた聖僧~ その参」の紹介みなさん、こんにちわ! 📖 歴史好き必見!壮絶な運命を生きた 車僧禅師(尊慶王)の物語が完結しました!
長禄二年(一四五七年)、紀伊の山奥でひっそりとその生涯を閉じた彼。その真の姿は、南朝の皇孫――。
なぜ皇族の血を引きながら仏僧として生きる道を選んだのか?そして、その想いはどのように未来に受け継がれていったのか?
この物語を読めば、あな

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車僧禅師の小説創作の秘話

車僧禅師の小説創作の秘話

自天王や忠義王に関する小説は既に世に出ているものの・・・

地元である川上村では著作を発表している方がいる一方で、上北山村では著作を発表された例を見つけることができませんでした。

また、自天王にまつわる情報も、圧倒的に川上村のほうが多いのが現状です。

そんな中で、後南朝に関する情報を掘り下げるうえで唯一と言える手がかりが、車僧禅師にまつわる話でした。

しかし、これに関する資料は極めて少なく、

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尊秀王、忠義王の二皇子供養

尊秀王、忠義王の二皇子供養

1,和佐美兵衛の代わりとして

昨年の3月に、私の先祖供養ならびに、尊秀王、忠義王二皇子の供養をしていただきました。

私が神戸まで、尼僧のお方をお迎えして、現地の奈良に向かいました。

その後、お二人の皇子の供養は、現地では供養をすることはできないので、

お二人のお墓にいってもらい、その後、遠隔で供養をしていただきました。

私の祖「和佐美兵衛」の代わりとして、果たすことができたように思います

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