短編小説 釘
腕力で友だちを従わせることはできるか?
お金で友情を繋ぎとめることはできるか?
子どもの心に一生抜けない釘を打ち込んだものは何か?
高度経済成長期を生きる子供たちの心の闇を抉る衝撃の一作。
私にはHという幼馴染がいた。歩いて1分の近所に住んでいた。貧しい家庭だった。今の言い方で2Kの小さくて、日の当たらないジメジメした家に親子5人で住んでいた。Hが長男で弟と妹がいた。Hは平気で嘘をついた。すぐばれる嘘をついた。親戚である隣の家から1000円盗んだことがあった。そのころの子どもにとって1000円は大金である。それを盗んで近所の子どもたちにおごってやったらしい。私はそれを母親から聞いた。もちろんH本人は盗んだとは言わない。拾ったと言ったらしい。しかし、隣の家の引き出しから1000円札が一枚なくなったことは事実なのである。そんなHと私は幼稚園の頃から、「ともだち」としてつきあってきた。
15歳の3月のことである。私は第一志望の公立高校に入学が決まっていた。Hがどこに進学するのかは知らなかった。
「どこに決まったの?」
「東高校。」
「そう、県立だよねえ。よかった。定時制?」
「うん。昼間は働いて、夜高校に行くんだ。」
「へえ、大変だねえ。頑張って。」と言いながら、私は心の中では
(本当にそんなことできるのか)と、どこかHを馬鹿にした気持ちを持っていた。
「教科書はもうもらった?」
「うん。」
「どんなのか見せてよ。」
「・・・・・・。」
私はHの返事を待たずにHの家の方に歩き出していた。別に東高校の教科書が見たかったわけではない。ただ話題が欲しかっただけなのだ。私が県立の進学校に受かり、Hは同じ県立とは言え、定時制の高校に通う。今まで、幼稚園から中学までずっと同じところに通ってきたのに、高校で学校が分かれる。どちらも気まずい思いを胸に抱いていた。それで教科書の話を持ち出したのである。
「ちょっと待ってて。」と言ってHは家の中に消えて行った。消えて?そう、Hは家の中に消えて行ってしまったのである。いままで何度となくこういうシーンはあった。私がHの家の前で待つということは。しかし、その時必ず玄関の戸は開いていた。ところが、きょうに限ってHは戸を閉めていった。その瞬間、私は思った。Hは2度とこの戸をあけないだろうと。私の予感は当たった。何分経っても玄関の戸があくことはなかった。いつもなら戸をあけてHの名前を呼ぶのだが、その日は戸をあける勇気がなかった。戸の前でHの名前を呼んだ。何の応答もない。どうしよう。教科書を見せたくないのならそう言えばいいのに、と思いながら、(もう、いいよ。)と戸をあけて叫ぼうかとも思ったが、その勇気もなかった。冷たく閉じられた戸を眺めていると、(もう帰ってくれ)と言われている気がした。ふと、玄関口の横に目をやると、ところどころ剥がれ落ちて薄汚れた土壁に、なにやら文字が彫ってある。今まで何度ここに立ったかしれないが、一度も気が付かなかった。たぶん子どものころ、釘で彫ったのだろう。いわゆる金釘文字で字が彫ってある。
「〇〇〇のバカ」
と読めた。〇〇〇は私の名前である。その隣に続けて何か彫ってあったが、よく読めなかった。
子どもの頃、私とHはけんかばかりしていた。私は、同い年なのに体が小さいというだけの理由でHを年下扱いしていた。「大きいもんに向かってなんだ!」というのが私の口癖であった。それは、私がいつも二つ年上の兄から言われている言葉であった。けんかといっても、取っ組み合い、殴り合いのけんかではない、私がカアーっとすると、Hは私の前を素早くすり抜けて、サアーっと逃げ出してしまうのである。私はいつもHに追いつけなかった。Hは裏口から家に逃げ込むと、家の奥へは入らずに、古ぼけた木の囲い(塀と呼べるほどのものではない)から顔だけ出して「やーい、〇〇〇のばーか、ここまで来てみろ、来れんだろ、ざまあみろ。」と悪態をついた。囲みの中まで追っていく勇気はなかった。お母さんが出てくるとまずいと思ったからである。悔しい思いをしていたのは、私の方だと思っていた。悔し紛れに石ころを投げたこともあった。石がHに当たったことはなかった。私とけんかをした後、「〇〇〇のバカ」「〇〇〇のバカ」とつぶやきながら、この字を彫ったのだろうか。上辺は、憎らしいほど平気そうな顔をしていたが、内心はやっぱり悔しかったんだな。すまなかったな、と反省するとともに、少し満足する気持ちもあった。
こんなこともあった。小学校に入学したばかりのある日の夕方、いつも通りHを走って追いかけて、もう少しでHの服の襟に手がかかりそうになった瞬間、私の右足が滑った。私はもんどりうって、地面に倒れた。痛みはなかったが、右足に違和感を覚えた。たまたま私の母親が「もうすぐご飯だよ。」と言いながら、Hを追いかけて行く私の姿を見送っていたので、激しく転んだ私を心配して「どうしたの?早く起きなさい。」と声をかけてきた。私はとっさに「起きれん。」と答えた。痛みもないし、違和感の正体もつかめていなかったたが、本能的に起きない方がいいと思ったのだ。「起きれんって、どうしたの?」と心配顔して母親が小走りで近寄ってきた。「釘が刺さっとる。」「足に大きな釘が刺さっとる。」と言いながら、母親は私の右足のふくらはぎから錆びた五寸釘を抜き取ると、力いっぱい地面に叩きつけた。私は母親の肩に寄りかかりながら、立ち上がった。右足をかばうように、けんけんをして歩いた。「そんなに大げさにせんでもいい。」と母親は、むしろ不愉快そうに言った。
家に帰って井戸水で傷口を洗って包帯を巻いてから、母親の自転車の後ろに乗せられて、近くの外科ではなく、遠くの総合病院まで行った。母親がこぼした「縫うかもしれん」と言った言葉が、その経験のない私に恐怖を与えた。(縫いませんように,縫いませんように)と心の中で祈りながら、母親のこぐ自転車にしがみついていた。
Hは、私が母親に助けられて家に帰っていくまでを板囲いの向こうからじっと見ていた。どういう気持ちで見ていたのだろう。きっと最初はいい気味だと思ったことだろう。しかし、泣きはしなかったものの、私が起き上がれず、母親の助けを借りているのを見て、ましてや足に釘が刺さったのを知って、どう思ったことだろう。母親がそばにいなかったら、Hはどうしたことだろう。助けてくれただろうか。私はHに助けを求めただろうか。Hに聞く勇気は私にはなかった。
そんなふうに、私とHの関係は、良好とは言えなかった。むしろ私はHが嫌いだった。ただ家が近いからという理由で付き合ってきた。きっとHもそう思っていたに違いない。何かやろうとか、どこかへ行こうと誘うのはいつも私の方だった。Hの方から言い出したことはなかった。誘えばHはいつも嫌とは言わなかった。しかし、きょう初めて、最初で最後の否定の意思を示したのである。閉じられた玄関の戸は開くことはなかった。(高校になったら、もう付き合いたくない、付き合う必要ないよね。)という意味なのだろう。私は静かにその場を立ち去った。その日以来、一度もHに会ったことはない。
あれからもう50年たつ。最近時々こんなことを思う。私のふくらはぎに刺さった釘は、Hが玄関横の土壁に「〇〇〇のバカ」と落書きした時の釘ではなかったかと。Hはその釘を裏口前の空き地に捨てた。何気なく?かどうかはわからないが、その釘が転んだ私の足に偶然?刺さった。いや、刺さったから、転んだのかもしれない。なぜ刺さったのか?誰かが私に向かって投げた?Hは逃げるのに必死だったから、私に釘を投げる余裕はなかった。では誰が?あの時、木の囲いの陰に誰かいたのかもしれない。Hはいつも弟といっしょにいた。兄のピンチを救うために弟が投げた?投げるようにHが普段から指示していたのかもしれない。以前、石を投げつけられた代わりに、釘を投げ返してきたのかもしれない。いや、逆も考えられる。私の母親が、私の足から抜いて地面に叩きつけた釘をHが拾って、私の血の付いたその釘を使って、自分の家の玄関に「〇〇〇のバカ」と落書きしたのかもしれない。判読できなかったが、それに続けて「ザマーミロ」と書いたのかもしれない。こちらの方が現実的か。
私がHを軽く見たのは、私の方が体が大きかっただけだろうか。いいや、そうではない。Hの家庭が私の家庭より、明らかに貧しかったからでもある。Hもそのことに気が付いていただろうか。
私の右のふくらはぎには、あの時の傷跡が、今も消えることなく残っている。
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