ことばと文化 (鈴木 孝夫)
「もの」と「ことば」
著者の鈴木孝夫氏は言語社会学の専門家です。
鈴木氏は、まず「もの」と「ことば」との対応関係を話題にします。
「もの」に名前がついているのですから、普通に考えると「もの」があって「ことば」があるということになります。が、鈴木氏の考えはそうではありません。
(p30より引用) ものという存在が先ずあって、それにあたかもレッテルを貼るような具合に、ことばが付けられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめているという見方である。
鈴木氏の説明を辿りましょう。
「机」というものを例にとると、たとえば、「人がその上で何かをするために利用できる平面を確保してくれるもの」とかと定義したとしても、その利用目的や人との相対位置といった人間側の条件を加えないと「机」を規定することはできないのです。
(p33より引用) ことばというものは、混沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われる仕方で、虚構の文節を与え、そして分類する働きを担っている。言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分された、ものやことの集合であるかのような姿の下に、人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っているのである。
人間の視点を離れると、(たとえば、他の動物の目で見ると)「机」も「棚」も「椅子」も区別がつかないというのです。
また、同じ化学式でいう「水(H2O)」であっても、「氷」「水」「湯」「ぬるま湯」「熱湯」「湯気」「露」・・・と様々に違った名前が付けられています。
(p39より引用) ものにことばを与えるということは、人間が自分を取りまく世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。
日本語の人称代名詞
鈴木氏は、本書の目的を「まえがき」で以下のように表明しています。
(pⅱ) この本の目的は、ことばというものが、いかに文化であり、また文化としてのことばが、ことば以外の文化といかに関係しているかを、できるだけ平易なことばで明らかにすることにある。
その説明の材料に取り上げたのが「人称代名詞」です。英語では、「I」や「you」、日本語では、「わたくし」「ぼく」「おれ」や「あなた」「きみ」「おまえ」・・・といったことばです。
(p140より引用) ヨーロッパ諸語の一人称、二人称代名詞が数千年の歴史を持っていることに比べると、日本語の人称代名詞の生命の短さはあまりに対照的である。・・・
日本語に於ては、有史以来、自分を指す代名詞と、相手を言う代名詞は、次々と目まぐるしいほど交替している。しかも注意しなければならないことは、新しく代名詞として用いられるようになることばは、常にもとは何か具体的な意味を持っていた実質詞からの転用だという点である。
鈴木氏は、日本語における「人称代名詞」の用例を外国語と比較することにより、日本語と日本文化のユニークさを明らかにしていきます。
たとえば、「年齢40歳・長男・既婚・子あり・職業は教師」のケースをあげています。まわりには、家族・親族、校長・同僚・生徒、隣人等様々な関係者がいます。
これらの関係者とコミュニケーションする場合、自称詞としては、「わたくし」「ぼく」「おれ」「おじさん」「おとうさん」「先生」「兄さん」等々、他称詞としては、「あなた」「おまえ」「きみ」「おじいさん」「おとうさん」「にいさん」「先生」「ぼうや」等々が並びます。
(p180より引用) 日本語の自称詞及び他称詞は、対話の場における話し手と相手の具体的な役割を明示し確認するという機能を強くもっている、と考えることができる。
役割確認
よく使う用法ですが、父親が自分のことを「パパは、・・・」ということがあります。(英語では、多分 ”I ・・・” で済むのでしょう。”Your father ・・・”とかいうはずもありません。)
(p187より引用) 抽象的な、話し手の役と聞き手の役しか通例明示しないで対話を進めて行くことができる西欧語と比べて、日本語ではすべての自称詞、対称詞が人間関係の上下の分極に基いた具体的な役割の確認とつながっているのだ。
日本語では「相手から見たときの自分」を考えて自称詞を変化させるのです。さきの「パパは、・・・」もそうですし、学校の生徒に向かって「先生は、・・・」というようなケースもその例です。
(p197より引用) 相手が誰であろうと、相手が不在であろうと、先ず自己を話し手つまり能動的言語使用者として規定するインド・ヨーロッパ語などの、絶対的自己規定と比較して、日本人の日本語による自己規定が、相対的で対象依存的な性格を持っていると私が主張する根拠はここにある。
こういった「対象依存性」のため、日本人は往々にして初対面の人との応対が苦手です。
(p198より引用) 日本人の自己は、特定の対象、具体的な相手が出現してその正体を話し手が決定するまでは、いわば座標未決定の開いた不安定な状態にあると考えることができる。
このあたり、当時流行した「日本人論」の論調と軌を一にしています。
(p200より引用) 対象依存型の自己規定とは、別の言い方をすれば、観察する自己の立場と観察される対象の立場が峻別されずに、むしろ両者が同化されることを意味する。日本文化としばしば対比させられる西欧の文化が、観察者と対象の区別、つまり自他の対立を基礎とするのに対し、日本の文化、日本人の心情が自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向が強いことはしばしば指摘されるところだが、日本語の構造の中に、これを裏付けする要素があるということができよう。
著者は、日本語の構造にまで投射された「自己を原点としない」という日本人の根源的な行動特性が、対外的な交流や交渉の場において不利に働くことを危惧しています。
ちなみに本書は、今からおよそ50年前、1973年初版です。