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フェルメール 光の王国 (福岡 伸一)
(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)
フェルメールにはちょっと興味があったので、以前にも「フェルメールのカメラ―光と空間の謎を解く(P.ステッドマン)」という本を読んだことがあります。
本書は、ANA機内誌「翼の王国」に連載されていた紀行文の書籍化とのこと、フェルメールと生物学者の福岡伸一氏という一見変わった組み合わせに惹かれて手に取ってみました。
フェルメールの作品は「光」と切り離すことができません。
光が差す瞬間を、著者は「微分」と表現しています。
(p75より引用) 私がここでいう“微分”とは、動きの時間を止め、その中に次の動きの予感を封じ込めたという意味である。
メトロポリタン美術館所蔵の「窓辺で水差しを持つ女」は、動きの一瞬が「微分」された典型的な作品とのことです。
同美術館のヨーロッパ絵画のキュレーターでありフェルメール研究家としても高名なW.リドケ氏は、こう語っています。
(p75より引用) 「光が彼女の腕にこのような形で当たっていた時間はおそらく5分間もなかったはずです。それをフェルメールは捉え、心に留め、おそらく数か月を費やしてこの絵を描いたのです。フェルメールを見るとき、そのような異なる時間を行き来することが大切です」
著者がフェルメールの絵に感じる「微分」は、エディンバラにて「フェルメールの絵の何に惹かれたのか」と訊ねられた際の答えにも登場します。
(p107より引用) 「最初は自分でもよくわからなかったのですが、それはフェルメールの絵の中の光が、あるいは影が、絵としては止まっているにもかかわらず、動いているように見えることでしょうか。つまり、フェルメールの絵には、そこに至るまでの時間と、そこから始まる次の時間への流れが表現されていると思えるのです」。
「静止画でありながら、時間の流れを感じさせる表現」を著者は “微分的” と表現したのです。
精密で垢抜けた感のある絵を見ていると意外に思うのですが、フェルメールは、17世紀、日本でいえば江戸時代初期の人です。
ガリレオ・ガリレイに少し遅れ、同時代の人としてはアイザック・ニュートンがいます。
(p238より引用) 思えば、17世紀は、時間の一瞬を切り取りたいと人々が願い、それがかなった時代でもあった。・・・ライプニッツやニュートンたちは運動の方程式を使って、動くものを一時、そこにとどめ、その物体が次にどの方向へどのような速度で動き出すかを予測する方法を編み出した。それが微分である。・・・
・・・フェルメールは、ライプニッツやニュートンと全く同じ願いをもっていた。そしてそれぞれ別々の方法で同じことを達成してみせたのだ。・・・フェルメールは絵画として微分法を発見したのである。科学と芸術はまったく不可分だった。
科学者としての著者の視点は硬質でとても刺激的です。と同時に、フェルメールの作品に向かう著者の視線や感性は穏やかで文学的でもあります。
福岡氏の多才さを痛感する著作ですね。