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言葉の風景、哲学のレンズ (三木 那由他)

(注:本稿は、2024年に初投稿したものの再録です。)

 いつも利用している図書館の新着本リストを見ていて、タイトルに惹かれて手に取ってみました。
 哲学者三木那由他さんによる “哲学的な視座” からのエッセイ集です。

 トランスジェンダーである三木さんならではの起点からの興味深い指摘や思索の紹介が数々ありましたが、そういった類のものとはちょっと違ったユーモラス?なエピソードをひとつ書き留めておきましょう。

 三木さんはかれこれ30年来の “GLAY(日本のロックバンド)ファン” とのことですが、言語哲学を学んだあと、歌詞の解釈に新たなバイアス?がかかったというのです。

 その歌詞は、こうです。

(p125より引用) 避けられぬ命題を今 背負って迷ってもがいて 真夜中 出口を探している 手探りで

 「pure soul」という楽曲の歌詞なのですが、この中の “命題” という単語に鋭敏に反応してしまうようになったそうです。

(p126より引用) GLAYファンを停止していた時期に言語哲学なんてものを学んでしまったせいで、私の心のなかの哲学者が「命題」という言葉に反応してしまうのだ。・・・・・・
 はっきり言って邪魔で、心のなかの哲学者には「いまいいところだから静かにしてて!」と言いたくなる。でも、「意味」とか「言葉」くらいの日常的に見かける表現ならともかく、「命題」などという凝った言葉になると、あまりに哲学哲学しすぎていて、意気揚々と語りかけてくる心のなかの哲学者に、ただGLAYの曲に集中したいだけの私は競り負けてしまうのである。そうするともう、ずるずると心のなかの哲学者に引きずられてしまって、ちょっとあとの「賽を振る時は訪れ 人生の岐路に佇む」という歌詞も、ついつい「ふむ、複数の可能世界がまだ文脈に残されているのだな」と頭の隅で考えながら聴いてしまったりする。

 “哲学者” なら、さもありなん、と思わせるネタですね。

 私も、たとえば(「可能性」ではなく)「蓋然性」といった単語を耳にすると、ちょっと反応することがありますね。
 もちろん私はアカデミックな世界にいる者ではありませんが、はるか昔、学生時代に学んだことの断片が顔を出すようです。



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