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考えよ! ―なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (イビチャ・オシム)
日本代表監督も務めたイビチャ・オシム氏が、W杯南アフリカ大会を前にして、日本サッカーとそこに表れる日本人の国民性・精神性について語ったものです。
W杯南アフリカ大会に関する部分は、今となっては結果が判明しているので、オシム氏の予言どおりではない点ももちろんいくつかはあります。イタリアやフランスが予選で敗退することを予想することは、誰にとっても困難だったでしょう。
しかしながら、事実の把握と分析をもとに将来を予測するというロジカルな推論の結果としては、随所に流石というオシム氏の慧眼が光ります。
たとえば、岡田監督が採用した4-5-1の布陣と同じ観点からの指摘の部分です。
(p110より引用) 1つだけ要注意点を言うならば、チームにアーティストはいらない。
あまりにもたくさんのアーティストがいると、チームは手痛い代償を払うことにもなる。日本に必要なのは、アーティストではなく、5番目のミッドフィルダーである。ディフェンスの前で仕事をする選手だ。
まさに今回の日本代表のW杯での結果は、この布陣を選択した賜物だったといえるでしょう。
アーティストタイプの中村俊輔選手をベンチにさげ、4バックの前に泥臭い仕事を献身的にこなす阿部勇樹選手を配したフォーメーションです。阿部選手は見事に与えられた役割を果たしました。
また、「走る」ことを重視するプレースタイルも南アフリカ大会では奏功しました。走りながらプレーする、走りながら素早く考えるのです。
(p112より引用) 残念ながら日本には、テクニックのある選手はあまり走らなくてもいいと考える傾向があるようだ。逆ではないか?テクニックのある選手がもっと走れば、より次元の高いサッカーができる。そう考えるべきではないか。
より高みを目指す姿勢ですね。
今回のW杯では、サイドバックの長友選手を筆頭に、遠藤選手が最長距離を走った試合もありました。走ることにより遠藤選手は確実に日本代表の中心選手になりました。
さて、これら具体的なサッカーの話題に加えて、より一般的な日本人論も随所に登場します。
その中でも特に私の関心を惹いたのが、「リスペクトと責任感」との関係を語ったくだりでした。
(p32より引用) リスペクトはしなければならないが、脅威に感じることはないのだ。
日本代表チームは、たぶんにリスペクトを払いすぎるのだ。リスペクトとは相手の力がノーマルだと考えることである。どのチームもストロングポイントとウィークポイントを持っている。どんな場合も、それを客観的に精査しなければならない。
この客観的分析がポジティブシンキングと合体したときに「平常心」が生まれるとオシム氏は説いています。
(p33より引用) だが、リスペクトの仕方を間違うと、とんでもないことになる。日本代表チームは、チームの責任、選手の責任を相手チームの凄さに責任転嫁してしまう傾向がある。
日本人は責任を他人に投げてしまうことに慣れすぎている。
とはいえ、オシム氏によると、この「責任転嫁」は単なる「責任感の欠如」ではないというのです。
(p94より引用) 「日本人には責任感がない」とは決して言えない。日本人のメンタリティの問題は「責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。
たとえば、自分のマークする選手だけを追って、それだけやれば「後は知らない」と勝手に考えてしまうメンタリティです。後は知らないという思考は、他に頼るという姿勢と同根のものです。
(p105より引用) 1億人を超す人口を誇る日本では、国としてのディシプリンや責任感、ヒエラルキー無しでは生きていくことはできないのかもしれない。だから、いつも常に誰かに意見やアドバイスを求めているように思える。自分で考えることをせずにディシプリンやルールを重視した行動をとってしまっている。
自分で考え尽くすのが苦手、他に依存しがちなために瞬時に判断するのが苦手・・・、こういう特性は、確かに日本人には見られがちなものだと思いますね。
「日本人は・・・」と安易にひと括りにして議論することは危険なことではありますが、自分のことを振り返る大事な契機になります。今回も私は反省です。
(本稿の再録作業をしている折に、オシム氏の訃報(2022年5月1日)を目にしました。心よりご冥福をお祈りいたします。)