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科学の現在を問う (村上 陽一郎)

技術の礎

 村上陽一郎氏の著作は、以前にも「やりなおし教養講座」「新しい科学論」といった本を読んでいます。

 今回読んだ「科学の現在を問う」という本は、時期的には両書の間ごろに書かれたものです。したがって、「現在」といっても今から約20年以上前のことになります。

 20年以上前の本であっても、「原発事故」や「医療(クローン技術等)」に関する説明は分かりやすく、科学・技術に係る基礎知識を整理するには有益な内容でした。

 また、「原発事故」の章では、高速増殖炉実験炉「常陽」の臨界事故を例に「事故発生プロセス」が分析されており、その文脈のなかで技術における「メインテナンス」の重要性が説かれていました。

(p64より引用) この問題は、日本において技術の問題を考える際に気をつけなければならない一般論へと私たちを導いてくれる。それはメインテナンスの重要性である。

 現実社会のなかでは、メインテナンスに代表される「下流プロセス」はしばしば軽視されます。

(p67より引用) 実際、政治の予算措置などを見ても、新しい設備、建物、機械を導入するときには、比較的気前良く予算が配られるが、そうしたものを日常的に維持、管理、運営していくためにかかる費用については、一切面倒を見ないというのが原則である。

 しかしながら、いくら立派な設備を作っても稼働し続けなくては何の意味もありません。
 「作ったら動くのは当たり前」ではありません。さらに、稼働させ「続ける」ことは、実はものすごく大変なことなのです。この大変さは、それを実際に担当したことがないと分からないかもしれません。

(p66より引用) 造られたものを安全に機能させるためには、造ったときに匹敵するほどの努力(資力と技術力)を注がなければならないのである。これを怠れば、造られたものは、無用の長物ならばまだしも、凶器にさえ変じることがある。

 科学・技術関係の啓蒙書において、こういった“現場に根ざした事実”にも日を当てることは非常に意義深いことだと思います。

(p67より引用) こうして構造的に軽視されるメインテナンスこそ、システムの安全にとって、最も重要な課題であることは、いくら強調してもし過ぎることはないはずである。

理科教育

 いくつかの著作で村上氏が繰り返し説いているテーマが、「日本における理科教育の弱化」の問題です。
 これは、20年以上前の本書でも問題点として指摘され、現在もなお改善されていない課題です。むしろ、問題がより深刻化している気もします。

 この点につき、村上氏は、「理工系外の人に見られる理科的素養の欠如」と「理工系の人に見られる社会的素養の欠如」の2つの面を指摘しています。
 まずは、「理工系外の人」に関してのコメントです。

(p186より引用) 理工系の外にいる大部分の社会の成員にとっても、理工系の学問や現場で行われていることに関して、それなりの知識を持たないでよいはずはない。それは、必ずしも専門家の持つ知識と同じである必要はないし、またそうであることは不可能である。しかし、理工系に関して「無知」であることだけは、許されない状況が生れているのである。

 また、「理工系の人」に対する問題意識です。
 昔、「科学」の駆動力は科学者の「好奇心」でした。その意味では科学は「個人的」なものでした。村上氏によると、そういった「科学」の性格にとって大きな転機になったのは、「マンハッタン計画」だったとのことです。核兵器の開発を契機として、科学は「倫理」や「社会的責任」と深く関わるようになったのです。

(p186より引用) 他方、倫理を扱った章でも述べたように、理工系の人間といえども、自分たちの研究の成果が大きな支配力を持って影響する人間と社会に関して、充分な基礎知識を持っていなければならないことも自明であろう。彼らが専門の学問だけに専念していればよい時代はとうに過ぎている。

 村上氏の「理科教育」に関する危惧は、20年以上たった今でも、未だ解決の方向にすら向いていないようです。

(p187より引用) 理科教育とは単に、物理学や地球科学の学理を身につけさせるためのものではなく、科学・技術と人間・社会との関係に関してしっかりした洞察の力をつけさせることが、大切になってくる。

 遺伝子工学・生命科学・人工知能・地球環境問題等々、「科学における倫理の問題」は、より喫緊の課題として私たちに対峙しています。


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