人生が好転する100の言葉 : 頑張らずに楽しく生きる (ひろゆき(西村博之))
(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
著者のひろゆき(西村博之)さんは、今、信者もアンチも含めネットの世界でその発言が最も注目されている人の一人でしょう。
私自身は、あまり関心はなかったのですが、やはり一度はその本人の主張もしっかり理解してみようと思い手に取りました。
本書で開陳されているひろゆきさんの考え方の中から2・3、書き出してみましょう。
まずは、「誰かを無条件に信じるのって、やめたほうがいいですよね」の章から、「他者の意見の扱い方」についてのくだり。
このあたりは、至極真っ当な考え方ですね。
他方、意味不明?な考え方を披瀝しているくだりもあります。
このあたりの話は、1文ごとに突っ込みどころ満載ですが、致命的なのは、「コントロールできる要因」と「コントロールできない要因」の区別なく議論を進めているところです。
「コントロールできないことがあるのだから、そもそも “いい加減でいい”」というのは、あまりにも雑な考え方でしょう。
「コントロールできるリスク要因は極小化して、コントロールできないリスクに備える」というのが、より現実的な解だと私は思います。
また、そうやって、自分が時間を守らないことにより他人の時間に無駄を生じさせておいて、次のコラムでは「動画は1.5倍速で見て、自分の時間は節約しましょう」とアドバイスしているというのは、なんとも “自分勝手” な姿勢だと言わざるを得ないですね。
まあ、こんな感じで、本書で開陳されている「100の言葉」は、私にはどうにも腹に落ちたとは言い難いものの方が圧倒的に多かったですね。
たとえば、ひろゆき語録として有名な「それって、あなたの感想ですよね」について言えば、“個人の感想(考え)” と “客観的事実” とをキチンと区別して議論すべきというのが本旨だとのひろゆきさんの主張は首肯できます。
ただ、短いフレーズで切り取られて、それが一人歩きしはじめると、いろいろと誤解・不具合が生まれてくるのでしょう。
もちろん、ひろゆきさん自身、“確信犯” 的に振舞っているところもありそうなので、この本で語られている主張も少々読み手側で補正しつつ読む必要がありそうですね。
もうひとつ、本書を読んで感じたのですが、ひろゆきさんは議論を進めるにあたって「論理的」であることに大きな意味を認めているようです。
そして、その「論理構造」の出発点は「言葉・概念の定義」だという考え方も垣間見られます。
なので、(私も往々にして同じような思考傾向があるのですが、)議論を始める際には必ず「定義の明確化」を求めます。その明確化された定義をベースにして結論を導く、そしてその結論が相手の結論と異なっているとき “論破した” と宣言するわけです。
しかしながら、現実的には「定義」自体、議論が分かれることがあります。
その場合は、「定義=出発点」次第で論理プロセスも最終的な結論も大きく変わってきます。「この定義だと、Aという結論になるが、こう定義すると結論はBに変化する」ということは当たり前のこととして生じます。「結論の差(正否)は、定義の差に過ぎない」というわけです。
演繹的な思考は一本道で論理的ではありますが、ひとつの結論に誘導しようという意図がある場合には、たとえば「定義」の設定の仕方によって結論を任意の方向に持っていくことも可能になります。
すなわち「定義」自体に、すでに結論を意識したバイアスがかかっている場合があるのです。
したがって、結論が “価値観” に依拠するものの場合には、自らが望ましい/正しいと思う結論を帰納法的議論でチェックしてみることも有益なんですね。
そもそも目指すべきゴール(価値観・理想像)は何かを、虚心坦懐、イメージし直してみるのです。
ただ、そういった個人の価値観に基づいた発言をすると、今のご時世では、「それはあなたの感想ですね」と言われるのかもしれませんが・・・。