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折れない言葉 (五木 寛之)
(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
五木寛之さんの著作は今までも何冊も読んでいます。ちょっと前にも「捨てない生きかた」を読みました。
五木さんの考える姿勢については、当然ですが著作ごとに大きく異なるはずもなく、それゆえ、同じころの作品ならばそれほど目新しい気づきがあるわけではないのですが、五木さんの新刊というだけでどうにも手が伸びてしまいます。
本書は、サンデー毎日に連載された「ボケない名言」を書籍化したもの。
「名言」なので、どれもなかなかに興味を惹くものばかりですが、それらの言葉をモチーフにした五木さんの雑感の中から、特に心に 留まったところを書きとめておきます。
まずは、「犀の角のごとく、独りあゆめ(ブッダ)」の項より。
(p109より引用) このところ絆を求める声が多いが、絆はすすんで探すものではない。絆とは、もともと家畜の自由を拘束するために、しばりつけておく縄のことだ。
いやおうなしにからみついてくる地縁血縁、その他もろもろの絆から解放されること近代人の夢だった。
そのくせ現代人は独りあゆむ不安に耐えかねて、もう一度しばってくれと願う。自由を求めれば孤独になる。当然だ。
私も、唐突に表われた “絆” ブーム?には、どうにもむず痒いような違和感を感じていたのですが、「自由を求めれば孤独になる」という五木さんの指摘は腹に落ちますね。
もうひとつ、明治期北陸の仏教者高光大船のことば。
(p222より引用) 人の手本にはなれないが 見本にはなれるだろう
手本というのは人の模範となることだ。生き方だけでなく、その思想もまたとび抜けたものでなければならない。しかし、見本というのは決して世間の人々がふりあおいで範とするようなものではなさそうだ。
商店に並べられた見本を眺めて、人はさまざまに品定めをしたり、感想をのべあう。気に入ればその店に入って、見本を手に取り、あれこれ勝手なことを言う。
高光大船は、自分の信仰や思想を他人に押しつけることを嫌った宗教家だったのだろう。
なるほど、“見本” ですか、「こういうのも、ありますよ」というサンプルですね。
これなら、私でもひとつの目標にできそうです。